十三 慟哭 ②
今度はリベラが驚く番だった。当てが外れたとは、ある意味において成功したとは、何を指しているのか。アルトベッリの物言いはこの手の妨害を想定していただけではなく、リベラの考えが及ばない別の事実に言及せんとしているように聞こえる。
「どういうことです。はじめからこういった新聞報道があるのをご存じだったのですか。それとなぜパオロの出自を隠されたのです。いえ、パオロ自身が公言しないのは理解できるのです。かつてはキリスト教徒でなかったうえ、痛ましい事件に巻きこまれたのですから。しかし亡くなったあと、私が儀式でのやりとりを指摘したとき、なぜ大司教は真相を打ち明けてくださらなかったのですか」
アルトベッリは手元に目を落としていたが、やや間を置いてリベラに目を向ける。その眼差しには諦念ではなく、ある種の決意が込められていた。
「リベラ神父、この際ですからお話ししましょう。しかしその前にこのことを胸に留めおいてください。あなたは教会にとって、とりわけエクソシストとしてもはや特別な存在になっていることを。ですからどうか、私の話を聞いて失望しないでください。長いあいだ私はあなたを欺いてきましたが、これからの私の話はどうか、どうか信じてください」
前置きを耳にしたリベラは、この場で尋常ならざる話が始まるだろうとの予感を覚えた。アルトベッリはどことなく申し訳なさそうな、後ろめたい態度で口を開く。
「あなたの推測どおり、私とパオロとの出会いは父親から連れられてプルフェロを出た直後まで遡ります。当時は教会の活動がそれほど活発でなかったせいか、地方によっては事実上の無宗教だった地域がわずかながらあり、バルトロッティ父子が生まれ育ったところもそのひとつでした。しかし母親が起こした事件をきっかけに父子は田舎を離れてカトリックに改宗し、父親は息子であるパオロを二度と同じ目に遭わせまいと修練院に入れたわけです。パオロとは初めて会ったときが七歳、修練院で再会したときが十二歳でしたが、当時は非常に頑なでした。修練院に入るまでにすでに父親から教えこまれたのでしょう、キリスト教徒でなかった過去を押し隠すように、ときには周りの人間といさかいを起こすほど戒律や教義に従順になっていました」
リベラもまた神父ロマーノ、すなわち親友パオロと最初に出会ったときのことを覚えている。一年はやく修練院に入っていたにも関わらず、どうしたわけか友人が少なかった。当時は言うに及ばず、今の今までどこか愛想の悪い、むら気な性分のためかと思い込んでいたが、そうした経緯があるのなら友人を遠ざけるようなあの振るまいにも納得できる。
「したがってその時点では、特異な出自を除けばパオロはただの修練院生でした。しかし扱いが変わったのはその後です。前の教皇ピウス十一世猊下は時の首相ムッソリーニと政教条約を結び、信者との交流を取りもどすと同時に教会のあり方を探られていました。これは前にもお話をしましたね。そんな中、教皇猊下は悪魔祓いについても正しいあり方を探るべくある試みを行うようお命じになり、そのためにまず二人の人物をお選びになりました。一人は単純な信仰心、名誉欲や出世欲などとはまったく別のものと断言できる、第三者から見て明確な根拠のある強い信仰心を備えた人物を。もう一人は科学の目で悪魔祓いを見ることのできる人物をです」
リベラはそこまで聞いたところで息を呑んだ。いったい何を言おうとしているのか。張りつめた空気が肌に刺さる。まさかと胸の内で煩悶する暇もなく、アルトベッリの話が続く。
「そう、前者がパオロ、そして後者が私の友人でもあったロッコ神父です。猊下は両者がすでにトリノでエクソシストとして活躍されていたのに着目され、科学的観点から儀式の是非を問うべく民族学を修めさせたのです。とはいえすでに若くはなかったロッコ神父ひとりに重大な任務を負わせるのは難しいと判断し、同じく民族学を若い聖職者にも修めさせることにしました。それが私とロッコ神父の双方が接触可能で、なおかつパオロときわめて近い環境で修練を受けたトリノ教区出身の、もうお気づきでしょう──あなたです」
リベラは思わず呼吸をするのも忘れた。同時に師のロッコが時おそくして民族学の習得をはじめ、また自身も大学で研究を続けるよう教会から強く命じられた実の理由に思いいたる。たしかに多様な知識や見聞を広めるという目的も誤りではない。だが実際には単なる興味や教会の信用を広めるだけではなく、その背景には儀式による治療のあり方を問う重大な目的があったのだ。さらには遥か以前から新しい教会のあり方を探るための、二十年以上にわたるきわめて大がかりな試みによもやリベラ自身が組み込まれていたなどとどうして想像できよう。
「猊下があなたに大学で民族学の研究に携わるよう、またロッコ神父に師事させるよう命ぜられたのには歴とした目的があったのです。コノリー親子の件は非常に痛ましいものではありますが、こうしたことがいずれ起こるであろうと、私のみならず幾人かの枢機卿は考えていました。ですからあなたから報告を受けたとき、ついに来るべきときが来たのだと思ったのです」
当然、リベラとロマーノがメイヴの一件に関わったせいで非常な苦悩を強いられたのも、半ばそのように仕向けられていたために他ならない。むしろ真相を知るごく一握りの枢機卿や教皇庁が、半ばこのような事態を望んでいたとは。密命の性質上、口外はできなかったであろうが、もしロッコがリベラに課せられていた使命を明かしてくれたら苦しみは多少なりとも減ったはずなのにと恨めしくも思う。だがそれも筋違いだった。ロッコもまた犠牲者なのだ。己とロマーノのみならず、さらにはロッコまで教会の都合で踊らされていたことになる。驚きのあまり指先は細かな痙攣をきたし、憤りのあまり身体に流れる血が湧きたつのを覚えた。喉の奥から絞りだす声も自ずと震えを帯びる。
「もしトリノ教区以外で今回のような事件が起こったら、どうなさるおつもりだったのですか」
「仮にイタリア国内の別のどこかで起こったとしても、特例でパオロとあなたを儀式に当たらせるつもりでした。ですから私が驚いたのは、逆に事件がトリノ教区内で起こったことです。もっともパオロがかつてキリスト教徒でなかった過去を忘れたと思われるほど、普通の聖職者になりきっていたのは予想できませんでした。まさに今日おおく見られる革新志向の、社会に対して開放的な教会を是とする考えの持ち主になっていたのです。そのため猊下は一時、この件での試みを断念しようとしました。ところが皮肉にも──おそらくは教会内部の強硬な保守派が──プルフェロで起きた事件を新聞社に報道させたことで、逆にパオロの姿勢が本来、教皇庁の望んでいた保守的なものに変わってしまったのです」
「大司教、もしかするとあなたは、パオロがぜひ自分がと申し出たときにこうなる可能性を想定されていたのでは。あるいは脅迫の事実をご存じだったのでは」
「いいえ。結果までは読めませんでしたし、新聞報道も知りませんでした。ただ、それとは別に電話による脅迫があったと聞いています」
「ではなぜ止めなかったのですか」
思わず声を荒げかけたところで、アルトベッリの顔を見て目を落とした。眉尻を下げ、細かな皺に囲まれた瞳は涙で潤んでいる。リベラはどちらが儀式を執りおこなうか決める段になって、自己の苦悩に目を向けるあまり手を挙げられなかったのだ。ロマーノに隠された過去と比べれば、その程度の悩みなど実に小さなものだった。
「いえ、失礼しました。大司教を追求する資格は私にはありません。あの一件をここに持ちこんでおきながらパオロに儀式を任せ、新聞報道の件を知らせたのは他ならぬ私なのですから。パオロを救えなかった咎が私にあることは重々承知しております。ですがお教えください。大司教はこうなる恐れがあると知りながら、なぜ」
「リベラ神父、あなたのお気持ちは分かります。しかしどうして私に止められたでしょう。あの娘さんが信仰している異教の教えは斎の日、病気の快癒を祈る儀式といった点で、パオロがそれと見立てられたベナンダンティの伝統とあまりに似すぎていました。だからこそパオロは使命感に燃え、自らの手で儀式を執りおこなおうとしていたのです。かつて似たような体験をしたために、儀式の本質を理解していたのでしょう。キリスト教徒でない相手に、従来の典礼では効果は見込めないと。ですが出自が暴かれるとなれば話は別です。たとえ新しい方法を編みだしたとしても、経歴から正当な評価は下されにくい。ベナンダンティと魔女宗にかなりの類似が認められるために、儀式の結果だけでなくパオロ自身も色眼鏡で見られてしまう。何より過去を隠蔽し、経歴を詐称していたと非難され、教会での立場が危うくなるのは必至でした。その時点で従来の典礼書に則って悪魔祓いを行うしかなかったのでしょうが、私はそれで仕方がないものと考えたのです。二代にわたる猊下の御意思に沿うものでありましたし、仮に失敗してもやり方が誤りであったと分かればよく、あとはあなたに任せれば保守派たちもパオロに手の出しようはないからです。ところが、あのような結果になってしまいました。悔やんでも悔やみ切れません」
アルトベッリはついにテーブルに肘を突き、両手で顔を覆い涙を流しはじめた。教皇じきじきの密命を受け、長いあいだ圧力に晒されていたのだ。今さら責めたところでどうしようもない。高齢のエクソシストならまだしも、よもやロマーノが儀式の最中に命を落とすことなど予想できようはずがなかった。成功するにせよ失敗するにせよ、生きて儀式を終えてくれれば保守派は手を引くだろうと考えるのが自然だった。
だがロマーノは死んだ。残されたのは、儀式において従来の方法では対応できない事例が確認されたという結果である。その事実はテープレコーダーで記録され、動かぬ証拠となって検邪聖省に引きわたされている。旧来の典礼に則って儀式を行ったロマーノが、これ以上の攻撃を受けることはない。
リベラも悲嘆に暮れていた。目尻から幾筋かの涙も流れた。教皇庁の、教皇のまさに他人の人生を踏み台にした試みに憤りを抱いてもいる。しかし、だからといって自らに課せられた使命を放棄することはできない。ここで全てを投げだしては、ロマーノの死とロッコの味わった苦しみが無駄になる。ならば、ならばいったい何を為すべきか。自身が苦痛から逃れようとするあまり、半ば親友を見殺しにした者は何を為すべきか。リベラの瞳に光が蘇り、その奥では強い意志が炎をたてて静かに燃えあがっていた。
「大司教、是非わたしに再びメイヴ・コノリーの治療をお命じください。大司教ひとりのお力で適うようでなければ、教皇猊下に上奏ください」
教会への疑問も、怒りも捨てる気はない。この件が終結したとしてもそれらの感情は消えず、いつまでもくすぶり続けるだろう。ただし、務めは果たそう。最終的に教皇庁の意のままに動く結果になろうとも、あくまで己のために聖務を全うする。これがリベラの出した答えだった。
「承知しました」
意を決して申し出た甲斐もあってか、アルトベッリも顔を上げて間もなく頷く。大司教の助力を得られたとなれば話は早いと思い、次の行動に移れるよう先を促す。
「では、すぐにでも」
ところがアルトベッリは、身を乗りだそうとするのを掌を掲げて押しとどめる。
「リベラ神父、お待ちなさい」
「なぜです。検邪聖省は娘さんを治療できていません」
「いいからよく聞きなさい。いま動くのは得策ではありません。あなたは新たな悪魔祓いを生み出せる唯一の人物であるとともに、私の友であるロッコ神父……レオの最後の弟子でもあります。相手はパオロを死に至らしめたほど強い力の持ち主なのです。打ち負かすには、入念な準備が必要なはず。ましてや保守派ではないと見なされているあなたが次にと名乗り出れば、それを快く思わない者たちが何をするか分かりません。そのために、あなたに心身を休めるよう命じておいたのです。とにかく今は待つのです」
冷静になって考えてみれば、メイヴが検邪聖省の手に渡っている現在、焦ったところで何ができるわけでもない。また以前からうすうす勘づいていたように、ロマーノの葬儀が終わって電話をした際、アルトベッリが休養を勧めてきたのには狙いもある。必要なときに力が出せるよう、雌伏の刻を設けたのだ。
「では、私は今から為すべきことを行います」
それが分かったとなれば、もはやこの場に留まる必要はない。リベラは荷物をまとめ、立ちあがる。
「もう行かれますか」
「ええ。その代わり、一つだけお願いがあります。いま検邪聖省に預けられている件について、大司教の方でも状況をこまめにご確認ください。そしてもし誰の手にも負えないと判断されたときは、私の名をお出しになってください。コノリー親子のためにも、犠牲になったパオロの死を無駄にしないためにも、治療を失敗に終わらせてはなりません」
アルトベッリも続けて腰を上げ、まっすぐリベラの顔を見た。目を逸らしたりするなど、何かを偽る仕草はどこにもない。瞳も穏やかに澄みきっている。
「その点はご安心ください。この件がトリノ教区で起こった以上、司教職にある私には状況を把握する義務があります。検邪聖省では力が及ばないと分かり次第、躊躇せずあなたをお呼びします」
アルトベッリから、この約束を取りつけただけで十分だった。リベラは深く一礼をし、足早に部屋を出ていった。
それから、新しい治療の儀式を生みだすため腐心の日々がはじまった。ヨハネ大聖堂から教会に戻って以降は雑務を可能なかぎり他の者に任せ、自身はほとんどの時間を自室での儀式の研究に割くよう努めていた。この日も来訪者のいない合間を縫っては聖書に目を通している。時計の針は午後三時を指していた。
リベラがまず念頭に置いたのは、非キリスト教徒に旧来の方法が通用しなかったという事実だった。ロマーノは紆余曲折の末にそちらを選んだものの、結果的にはそれは誤りだったのだ。当初ノートに記されていたように「従来の考え方では、被術者によらず典礼に則った儀式が有効」「しかし、この件についてはそれは当てはまらない」との認識が正しかったのである。すなわち従来の儀式における祈祷文は、地上における神の代行者である歴代の教皇自身が作成したか、あるいは教皇が認めたゆえに有効であると定められているが、実際には特別な力をもつわけではないことが証明されたのだ。よってカトリックにおける治療も、ベナンダンティや魔女宗と同じまじないの一種と見なさなければならない。あの日の儀式を通じ、過去にあれほどまで拒絶していた科学者としての考えと真正面から向かいあい、当たり前のように己のものとして胸に抱くようになっていたのだった。
そのリベラは時計が午前十時を回っても椅子に座り、典礼書をめくっていた。部屋の外で告解を終えた信者が教会を出ていくのが聞こえ、休憩がてらにいったんこれまでの経緯を振りかえる。
思いかえせば、奇妙な話だった。もし保守派が脅迫、新聞への投書などでロマーノに圧力をかけなかったとしたら、リベラがこうして時間をかけて新しい儀式を生み出す機会は与えられなかったかも知れない。あの新聞記者についても然りである。盲目的に売り上げを伸ばそうとするのを止め、刺激的な記事を載せようとしなかったら、そもそもロマーノの過去を辿るきっかけすら掴めなかったかも知れないのだ。一見すると災いとしか思えないものも、時として幸運に転じる場合がある。また人にはそれらの害悪を糧とする力がある。リベラが時おりミサで説くヨブの物語と同じだった。幸いにも方向性は示されている、ロマーノの遺志を継ぎ糧とすべきなのだ。
時計の針が夜の十一時を指してもなお、リベラは典礼書をひたすらに眺めていた。窓の外から差していた街の光はとうに消え、部屋の灯りに薄暗く照らされながら思案に耽る傍ら、頭にはかつてロマーノとシモーネから耳にしたある言葉が浮かんでいた。
「あれはイエスが癪癇の患者に祈祷を施して悪魔を追いだしたことになってるけど、現代の医学的見地からすれば癪癇じゃなかった可能性はある。なにか小児が罹りやすい精神疾患だったとか」
「俺でも引き出せない個々人の秘密なんかを、よく聞き出せるもんだと感心するよ」
「ラテン語の響きがどうとか、尋問の型式がどうとか」
何気なく手元に目を落とすと、次の祈祷文が視界に入る。
「汝を滅ぼさん、いとも汚れし霊よ。すべての悪の力よ、地獄からの濫入者たちよ、すべての悪霊たちの群れよ、イエス・キリストの御名において汝を滅ぼし、神の創りし者から立ち去らせん」
「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え。主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、主の御力によりて地獄に閉込め給え」
途端にリベラは典礼書を閉じ、代わりに福音書と医学書を開いた。次いで時も忘れて貪るように両者に目を通し、何度も何度も読みかえす。いつしか左手で書物をめくりながら、右手でペンを握りノートにものを書きこむようになっていた。時計が朝の六時を回っても、それは絶え間なく続く。日常の聖務を他の者に任せていたおかげで、一日は合間に数十分の仮眠を三、四度はさみつつ作業に没頭できた。だがさすがに連日は丸投げできない。仕方なく翌日の朝、禄に睡眠もとっていない青白い顔で目もとに隈をつくりながらミサに出ると、街の人々からは心配の声が聞こえた。
「神父さん、いったい何があったんだろう」
「どうしたんだい。ひどい顔だ」
「病院に行ったほうがいいんじゃないかしら」
「ひどく疲れてるよ」
リベラはいずれにも笑顔で答え、お気になさらずと返した。さらに二、三日が経ち、どこか病気なのだという噂が近所に流れても、文献を紐解きペンを走らせることを止めず、あまりの疲労に喉が枯れ、骨は軋み、目も四六時中充血して掌に罅が入るほど皮膚が乾ききり、書物を漁って一週間が経った頃には、とうとう他の聖務を頼んでいる助祭からも健康を案じられるまでにやつれ果てていた。
「リベラ神父、もう少しお休みになった方がよいのでは」
助祭のフィオーレには教皇庁から難題を引き受けた旨のみ伝えつつ、依然として詳細は伏せたままでいた。不審に思うのも当然であり、すぐにメイヴの件との関連が身内からも囁かれる。それでもリベラは沈黙を守り、新しい儀式の方法を見いだすべく部屋に籠りつづけた。そしていつしか参考とする文献も読みつくしたか、もしくは何らかの新しい祈祷文を探りあてたか、シモーナから処方された栄養剤の助けもあって激務に耐えて元の生活と健康を取り戻しかけた頃、ついに来るべきその刻が訪れた。
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