十 対峙 ②
ところが相手は一転して、まったく苦しまなくなった。それどころか唇の端を裂けんばかりに吊りあげ、喉の奥から嘲りの情を滲ませて笑う。
「楽だな。この上なく愉快だ。貴様のような奴を騙してやるのがおかしくてたまらない」
この反応は、一概に嘘や虚勢とは言いきれない。取り憑くものはしばしば人間を騙す。リベラはロマーノに、狼狽えず次の祈祷文を唱えるよう促そうとした。だがロマーノは半端に間をあけて祈祷書を読みあげる。先ほどまではリベラと呼吸を合わせていたのに、焦りのせいか一人で先走りかけているように聞こえた。
「汚れたる霊、すべての悪魔の力、すべての地獄の闖入者ども、すべての悪しき軍団、使節および郎党どもよ、汝が誰なりとも、われらは汝を追い払う。われらの主イエス・キリストと御名と御力によりて」
リベラは半ば取り残され、この一節は遅れて途中からしか唱えられない。ひとつ前の節では二人で息を合わせても効き目がなかったのだ。ばらばらに詠唱した祈祷になど力はない。取り憑くものは、ロマーノを見あげて嘲った。
「貴様の祈祷など、効かぬのが分からんのか」
「なぜ効かないと言い切れる」
ロマーノは祈祷書から目を離し、対話に応じる。リベラの立ち位置から表情は分からないが、声が心なしか上ずっていた。長らく治療の儀式を施してきた者が、傍にいるだけでそれと分かるほど取り乱すとは珍しい。リベラはロマーノを鎮めようとするも、それを阻むかのように相手がメイヴの口を借り、相変わらず流暢な古代ギリシア語でものを言った。
「理由は二つ。まずこの娘は貴様の神を信じる奴らに犯された。貴様の〝友〟に犯されたんだぞ」
「知っている。わざわざ口にせずともよい」
「そいつは貴様らが洗礼とやらを施し、説教を聞かせてきた奴らだ。貴様が直接そうしていなくとも、そのお仲間だ。貴様らは何をしてきた」
「残念ながら神の教えを説いても、真意を理解できぬ者はいる。隣人を愛せぬ者がな」
「そこで貴様に訊きたい。そんな奴らでも、天国に行けるのか」
「原罪を悔い改めれば、救済の機会が与えられる」
「こいつは驚いた。娘を無理矢理に犯したろくでなしでも、天国に行けるかも知れないというのだな。にも関わらず、この娘は救われん。洗礼とやらを受けていないからな」
やはりリベラの思い過ごしであったのか、ロマーノの声はすぐ元のように低く朗々としたものに戻る。儀式では決して情に走ってはならないと、誰しもが師から教えを受ける。何らかの理由で動揺したとしても、感情の変化を相手に覚られてはならない。今のところそれは守られている。
「いいや、神の力でお前を祓う。さすればこの娘が洗礼を受けぬままでいるとは限らない」
「そんな訳がなかろうが。まず貴様の神の力が及ぶことはない。このまま死ぬ。したがってあんな屑のような男を信じたこの憐れな娘は地獄行きだ」
「神の力が及ばぬという根拠は」
「この娘が犯されたときのことを話してやろう。一人めがナイフを持ってこの娘を脅しつけ、二人めが両手を押さえつけて腹這いに床に引き倒し、三人めの、そうだ、娘を釣った奴が後ろから覆い被さったんだ。自分の膝で娘の両脚を力づくで開かせて、自由を奪ってな。陰茎を膣に押し込んで処女膜を破り、十字架の梁みたいに広がったかりを肉壁に擦りつけて、子宮に精液を注ぎ込んだんだぞ。さぞ気持ち良かったろうな。あんなにも見目がよかった、絹のような白い肌の、まだ一度も使っていない十五の娘の膣だぞ。それも一度だけじゃない。他の奴と交互に代わるがわる、ときには尻の穴にも陰茎を突っ込んで、『神さまはこのことをお許しになるだろうぜ。何せお前たち異教徒を懲らしめてやるんだからな』『ああ、イエス・キリストの名にかけて誓うよ。俺たちはあなたの僕に罪は犯していませんってね』と嘯きながら娘を犯したんだ。言ってみればこの娘は神の名のもとに犯された。こうなったのは、貴様らの神のせいなんだ。この娘は貴様らの神を呪っている」
だが相手がところどころ声色を変えてメイヴが襲われたときの状況を再現してみせ、挑発するようにさも楽しげに嗤うと、ロマーノは再び昂揚し声をいちだん高く張りあげる。
「それはお前の言い分に過ぎん。この娘が唇でもって神を汚したわけではない」
「もちろん、貴様らを連れてきた母親の善意を無駄にはしたくないからな。だが周りに誰もいないとき独り言で、頭の中で貴様らの神を呪ってやがったんだ。おまけにこの娘は犯されたとき、男たちから子種を植えつけられたんだぞ。それを医者に頼んで殺させた。子供を堕ろすのがお前らの嫌う行為だってのは、そこらの餓鬼でも分かる。もっと言えばな、この娘は馬鹿でも厚顔無恥なわけでもない。出来た子供を殺しておいて、貴様らの神に救ってもらえるとは思っていない。救われないことぐらいは知っている」
「この娘がそれを知っていたというのは、私には本当だとは思えんな」
「知っていたとも。俺はこの娘と一緒に考えていたからな。たとえ知っていなくても、貴様や貴様らの神には救えんだろう。貴様の〝友〟に子供を堕ろした奴がいたら、貴様はどうする」
「破門する。しかしこの娘は洗礼を受けてから子供を殺したのではない。また私のような者がキリスト教徒以外を救ってはならないという決まりもない」
「詭弁だな。随分と苦しい言い訳だ」
リベラはロマーノに助言しようとした。問答に神学上の誤りはないが、興奮の度が過ぎている。肌には赤みが差し首もとや手首、掌に大量の汗を掻いていた。のみならず、またもリベラの準備が整うのを待たずして祈祷文を唱える。
「故に、呪われたる竜よ、そして汝、悪魔の諸軍団よ、我らは汝に厳命す、生ける主によりて、聖なる主によりて、御子を信じる人々が滅ぶことなく永遠の生命を受けんがため、独り子を賜いしほどにこの世を愛し給える主によりて」
ロマーノの異変を感知しているリベラは、どうにか呼吸を合わせて祈祷文を詠唱する。それでも相手は苦しむ素振りを見せず、嬲るようにロマーノを嘲った。
「効かぬと言っておろう。どんなに下らぬ祈祷文を唱えても無駄だ」
「何と言おうと勝手だが、お前はそう長くそこにいられぬ」
「これは傑作だ。坊主は自分が不利になると、詭弁や強情に走るのか。そうだ。祈祷が効かぬもう一つの理由を教えてやろう」
「余計な世話を焼かずともよい」
「そう言うな。貴様は本当はこの祈祷文が効くとは思っていない。この娘は異教徒だからな。神の教えを信じぬ不届者だからな。効くはずがないのは、貴様がよく分かっている。なぜなら、お前は──」
「黙れ」
「面白い。そこまで強気に出るなら、こいつを救ってみせろ」
取り憑くものは激昂につゆも恐れず、メイヴの顔をひしゃげるように歪ませてはロマーノに向けた。続けて何にも触れていない首筋から血を滲ませる。リベラは驚きはしない。非常に稀な例ながらこうした際に見られるこけおどしだった。どうにか冷静さを取りもどしたロマーノとともに、つとめて声を鎮め祈祷を繰りかえす。
「汝が主の似姿として創られ、主の仔羊のいとも貴き御血によりて購われたる魂より、跡形もなく逃げ失せ、追放されんことを。いとも狡猾なる蛇よ、今より後にあえて人々を欺き、我らを迫害し、主の選び給いし者を苦しめることなく、もみがらの如く吹き飛ばさるべし」
しかしリベラは心中では、徐々に祈祷の効果に疑問を呈しはじめていた。取り憑くものの力は依然として弱まっておらず、むしろ余裕ありげに表情と声色を変えてくるではないか。
「止めてよ、何でこんなことするの」
獣のような唸り声でもなく、ひどく弱気な言葉を吐く。声の質も少女というよりはもっと小さな少年を思わせる中性的なものに変わる。また何のつもりか、取り憑くものはいかにも親しげにロマーノへ懇願をはじめた。くわえて次第にリベラには聞きとれない言葉も交じっていく。
「苦しいよ、熱いんだ。どうしてこんな仕打ちをするんだ。やめてくれ、お願いだ、ロマーノ。どうかお願いだから楽にしてくれ」
何にせよこれは明らかな偽りであり、まともに取りあうべきではない。あたかも別の悪霊が乗りうつったように見せかけ、施術者を惑わせることはよくある。にも関わらずロマーノは三たび唐突に祈祷の詠唱に入る。
「ああ無敵の総帥、立ち上がり給え。滅びの霊による主の民への攻撃に助けを垂れ、勝利をもたらし給え。民は御身を守護者にして保護者と崇め奉る。御身の内に、我らは地獄の邪悪なる力から護られ栄えん。御身に主は天国の至福の内に打ち立てられる者の霊魂を委ねん」
その力の入れようは尋常ではなく、首や顎に筋が浮きでるほど。明らかに平静を失っており、リベラはそれを止めようとするが聞きいれられる様子はない。むしろもの言わず制止を拒み、目配せと手の動きでさらに強い声で祈祷するよう促してくる。取り憑くものの前で和を乱す真似はできず、黙って指示に従った。
「平和の主に祈り給え。主がサタンを我らの足下に置き、サタンがもはや人々を捕虜とし、我らを傷つけること能わざらんことを。われらの祈りを至高なる御者の御目の内に供し、その祈りが速やかに主の御憐れみを得んことを。而して、悪魔にして、サタンにして、竜なる古の蛇を打ち倒し、御身がそを再び深淵に拘束し、決して諸々の国を誘惑せざらんことを」
「人々を欺き、これに永遠の破滅の毒を注ぐのを止めよ。我らを傷つけ、その自由を妨害することを止めよ。出ていけサタン、すべての詐欺の創造者よ、諸人の救いの敵よ。汝が自らの仕業をかつて何一つ見出さざりしキリストに場所を譲れ。主の全能の御手のもとに屈服せよ」
「われらが聖にして恐るべきキリストの御名を呼ばわるとき、震えあがり、逃げ去れ。地獄を震えあがらせる御名、天国の力天使、能天使、主天使が謙遜に従うこの御名、智天使と熾天使はこれを絶え間なく讃え、繰り返しつつ唱う。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天使たる主」
これまでと同じようにイエス・キリスト、聖母マリア、その他諸聖人、天使などへ幾度も祈りを捧げる。しかし相手に弱る気配は少しもなく、いかにも憐れそうな哀願と嘲笑を交互に繰りかえすのみ。
「やめてよ、お願いだ。ロマーノ」
「まだ続けるのか。こいつはこんなに苦しんでるぞ」
「熱いよ、燃えるようだ。苦しいよ」
「面白い奴だ。もっとやれ。やってみせろ」
ロマーノは挑発に乗るように、負けじと声を強めていく。リベラは声に力を込めて祈祷書を詠みあげながら、取り憑くものの反応を確かめていた。祈祷文を唱えるごとに、とりわけサタンを攻撃する祈りの文句、大天使聖ミカエルの名を口にするたびに逆に力をみなぎらせていくようですらある。サタンを地獄に追いやる情景を描いたヨハネ黙示録を想起させるそれらの聖句は、本来もっとも効力を発揮するはずなのにである。取り憑くものの力はきわめて強い。メイヴの瞳からは異様な光が溢れだし、時間を置くごとにその鋭さは増していくばかりだった。このままでは無理だ。少なくとも、今回の儀式では相手を追い払えそうにない。ラテン語のみならず、古代ギリシア語を理解し駆使したばかりか、それをもって不意打ちをかけ動揺を誘ってきた尋常ならぬ知性の持ち主ではないか。何も一度で成功する保証はない。むしろ何度でも繰りかえし行う腹積もりだったはずだ。日を改めて別の方法を試せばよい。すでにロマーノは全身が水に浸ったように大量の汗をかき、肩を細かに震わせ、傍にいるだけで熱気を感じるほど体温を上昇させている。リベラが体力の限界と判断し、止めさせようと後ろから腕を伸ばした、そのときだった。
「十字架の神聖なる印が汝に命ず、信仰の諸玄義の力が汝に命ず。栄えある主の御母、貞淑なるマリアが汝に命ず、彼女は謙遜によりて無原罪の御孕りの最初の瞬間より、汝の思い上がれる頭を踏み砕き給えり。使徒ペトロ、聖パウロ──」
一瞬、ロマーノが制止を振り払うように祈祷文を叫び、そこで声が止まった。音こそしなかったものの、何かがぶつりと切れるような感覚がリベラの耳に届く。次いで頭からくずおれ、床の上に転がった。
リベラはすぐさま異常を察知し、傍に駆けよる。すでに呼吸は弱まり、両手足が痙攣していた。急な事態に立ちすくむキアラへ、我に返す意味も込めて指をさししめす。
「はやく、先生を呼んでくるのです」
「何をしようが、そいつは生き返らん。貴様らの神がそいつを滅ぼしたんだ」
取り憑くものはメイヴの首をもたげさせ、神父ふたりを詰った。リベラは怒りに燃えて相手の顔を猊みつけたが、今は何ら打つ手を備えていない。それよりもロマーノの生命を救う方が優先だった。ベッドから目を離さずに少しずつ後ずさる。
「先生、大変です」
キアラの助けに応じ、部屋に入ってきたシモーネ夫妻はロマーノを外へ運んでいく。その間にも相手はリベラに向かって口を利いた。
「可哀想に。そいつは貴様らの神を盲信するあまり、自ら身を滅ぼしたんだ。おい、まさか逃げるのか。お仲間が死んで、おめおめと引き下がるのか」
リベラは挑発されるも扉の方へと退く。一度きりの儀式で被術者が死に至った例は過去になく、身体を拘束されているメイヴは自傷や自殺の恐れも、医学的には生命の危険もない。ただ、取り憑くものへ一言かえさずにはいられなかった。
「そう焦るな。あとからお前の相手をしてやる」
リベラは苦し紛れの捨て台詞を吐きざま、メイヴの部屋を去る。扉を閉めたときにはロマーノは床に寝かされ、シモーネがキアラに指示を出していた。
「あなたは救急車を呼んでください」
一方でシモーナは聴診器を心臓に当て、電灯で瞳孔を照らす。遠くからでも目が淀んでいるのが見てとれる。
「心肺停止、縮瞳しかけてるわ。リベラ神父は心臓を」
リベラは急いで服をはだけさせて心臓を押し、シモーナもそれに合わせて人工呼吸を試みる。しかし幾度となく掌に体重をかけても、一向に回復の兆しは表れない。そのうちにロマーノの呼吸は弱まり、徐々に体温は低下していき、やがて心臓はまったく動きを止め、肌は血の気を失い、身体は石のように固くなっていった。
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