十 対峙 ①
明くる日の午後、リベラはコノリー親子のもとに足を運んだ。以前に訪問したときとは違い、普段着姿ではない。誰がひと目で見ても神父と分かる法衣を纏い、首からは十字架を提げている。あいにくの雨に裾が濡れるのも気に留めず、マンションに着くなり傘を畳んで扉を叩いた。
「お待ちしておりました。どうぞお上がりください」
「こんにちは。お邪魔します」
キアラに迎えいれられると、リビングで法衣姿のロマーノがテーブルを前に腰かけているのが視界に入った。教会がほど近くにあることを考えれば、驚くには当たらない。しかしその向かいに、精神科と内科のシモーネ医師夫妻も座っていた。リベラも雨天時の道路の混雑を見越して早めにトリノを発ち、予定の時刻より三十分以上前に到着している。
「先生、随分はやくいらっしゃいましたね」
「まあ、事情があってな」
シモーネは表情こそ一応は平素を装っているものの、雰囲気は固い。その場の一同も例外なく神妙な面持ちでいた。シモーネ夫妻と最後に電話で連絡を取ったときにも、大きな変化があるとの報告はなかった。だが、どうやら状態は思わしくないらしい。椅子を薦められながらリベラが訊ねると、シモーナが答えた。
「状態はどうです」
「身体の方は、以前よりも悪くなっています。自分で食事が摂れなくなってしまいました。今は点滴で栄養を補給しています」
「それは、内科的なものが原因ですか」
リベラの質問に、今度はシモーネが答える。眉間に皺が寄り、いつもは陽気な髭面がやけにいかめしく見える。
「ものが食べられない原因はおそらく内科の問題ではない。むしろ食欲だけは回復傾向にあった。少なくとも消化器系統に異常はないはずだ。原因は、二日前から正気の時間がまったくなくなったせいだ。眠っているか、暴れているかのどちらかになった」
「部屋を明るくしても駄目なのですか」
「ああ。周りが暗いときのように暴れるだけだ。点滴で栄養を補給しているといっても、身体にいいわけがない。消化器も使わなければ確実に弱る。おまけに必要な栄養を補給できるだけの点滴を打っているのに、急激に痩せはじめた。たった二日の間にだ」
メイヴを直に見たことのあるリベラは事態をそれなりに詳細に把握したつもりでいただけに、新たな異常が発生しているのは予想できなかった。自然とシモーネへの問いかけも詰めよる形になる。
「なぜそれを早く知らせてくださらなかったのです」
「あんたと最後に電話した直後だったし、いちどは急いで連絡しようかと思った。だが女房と一緒に診察するうちにおかしなことに気づいてな。心拍数も呼吸も、血糖値もまったく正常なままなんだ。そのくせ体重はほとんど変わらない。つまり正気に戻れない、自分で食事と排泄ができない点以外は生命維持に問題ないってことになる。だからわざわざ騒ぎたてるような真似はしなかった。日も迫ってたしな」
「そういうご事情でしたか。申し訳ありません」
ともかく今の状態は医学では説明がつかない。もはやキアラやシモーネ夫妻にとっても、儀式による治療が残された頼みの綱となっている。
「生命そのものが即座の危険に晒されてはいなくとも、いつ何時、急激な変化が起こるか分かりません。まずは一刻も早く、治療の糸口を見つけなければならないでしょう。では」
リベラが頭を垂れる隣で、それまで黙っていたロマーノが話を切りだす。どうやら先に現況を知らされていたと見え、落ち着いた様子で腰をあげた。リベラも立ちあがる。
「始めます。お母さまもどうぞ。先生方は部屋の外でお待ちください」
まだリビングから離れていないというのに、みな既に緊張している。その証拠に、出されたコーヒーに誰も手をつけていない。黙って神父ふたりに付いていく。特にキアラの表情はほとんど凍りついていた。娘が回復するか否かがかかっていることを思えば、自然な態度だった。部屋の前まで来たところで、ようやく後ろから呼びとめるように口を開く。
「前と同じ、この部屋でメイヴは眠っています。神父さま方は驚かないでください。娘は以前とはまったく変わってしまいましたから」
声色からも、感情を抑えきれなくなっているのが分かる。自ら目にするのはもちろん、他人に見せるだけでも辛いのだ。
「承知しました。では、参ります。先生おふたりは、部屋の外でお待ちください。何かあれば、私かロマーノ神父がお呼びします」
リベラはそう言って扉を開け、ロマーノとともに部屋に入る。これまで多くの儀式に臨んでおり、ひどい状態にある被術者とも向かいあってきた。したがってメイヴに関しても、その想定内であろうと踏んでいた。しかし取っ手を回して手前に引いた瞬間、思わず足が止まる。
真っ先に飛びこんできたのは、一瞬で汚物から放たれていると分かる悪臭だった。自分の意志で寝起きができないために、排泄物をベッドから垂れながすままになっている。現に遠目からでも周りの床が汚れているのが判別でき、さらに近づいてみるとメイヴの容貌がシモーネの言葉どおり大きく変わっているのが見てとれた。骨格こそ元の形を保っているものの全身の肉が小さく萎み、顔は頭蓋骨が浮かびあがらんばかりにやせ細り、手首から管が伸びる姿はまったくの別人が重病に罹っているとしか思えない。以前はむくみの方が目立っていたのにたった二日間でこうも変貌を遂げるとは、それでいて脈拍も体重もさほど変わらずにいるとは信じられなかった。無残としか言いようのない姿が、部屋の灯りの下に晒されている。
その傍でロマーノは鞄を置き、中から聖水を取りだし、ストラを首からかける。リベラも準備を整えながら、不可思議に思う。実のところ、シモーネ医師夫妻やキアラよりもリベラ自身が儀式に当たり緊張していた。メイヴは通常の被術者ではない。わざわざ日にちを延ばしたからには、ロマーノは策を練っているはず。急な病状の悪化を知らされ、そのことを確かめる機会を失っていた。またこの一件がバチカンをも巻きこんだ大事であることを覚られぬよう、事情を知らない者の前では出来るだけ口にしまいとしていた。だが、もうそのような話をしている場合ではない。キアラをベッドから離れた位置に立たせたまま、荷物を出してロマーノに小声で訊ねる。
「方法は、どうするのですか」
「いつも通りだ。君は補佐に回り、祈祷文を復唱してくれればいい」
答えは、リベラには俄に信じがたいものだった。予定を順延するのに手間はかかるが、話を持ちかける方も楽ではない。それなのに従来どおりとは、一体どうしたわけか。日程を変更したのは、新しい方法を考えだすためではなかったのか。あるいはリベラの早合点だったのか。
「何ですって」
「別におかしな話ではない。俺なりに考えて出した答えだ。それに悪魔祓いは一度きりで終わるものではないだろう。仮に今回、手応えが悪かったとしたら、次はまた別の方法を試せばいいだけだ。違うか」
ロマーノの顔は、キアラに負けず劣らず緊張していた。普段の愛想のなさとはまったく違う。どうも試行錯誤を重ねた末に決断をしたのでも、結果的にこの日までに新しい方法が思いつかなかったのでもないらしく、過去の言動と照らしあわせるとやはり不自然ではる。とはいえ判断に注文があるのなら、リベラが自身で儀式を取りしきれるよう名乗りでるべきだったのだ。それが出来なかったからには、ロマーノに従うより他にない。大司教職にあるアルトベッリを含めた三者の間で、そう取り決めを交わしている。
「あなたの言うとおりです」
リベラは納得して静かに首を縦に振り、首からストラをかけ鞄を開いた。テープレコーダーをケースから出し、床に置いてスイッチを入れる。雨雲に覆われた空は薄暗い。あとは取り憑くものがより姿を現しやすくするために、カーテンを閉めるだけで十分だった。ロマーノは程なくしてベッドの前に歩み出、メイヴの様子をじっと見る。正常な意識のあった頃をさほど知らないためか、平然としていた。これまで何人も見てきた重篤な状態にある被術者と、さして変わらぬ扱いをしているのかも知れなかった。
ロマーノは部屋が暗くなったのを見計らい、祈祷書を開いて典礼どおりに冒頭の一句を唱える。枕元のランプが変わり果てたメイヴの顔と、ラテン語の文字を薄く照らしていた。
「汝を滅ぼさん、いとも汚れし霊よ。すべての悪の力よ、地獄からの濫入者たちよ、すべての悪霊たちの群れよ、イエス・キリストの御名において汝を滅ぼし、神の創りし者から立ち去らせん」
するとメイヴは早くも瞼を開いた。気配が変わる。リベラが感じたことのあるあの気配だった。緑色の瞳から異様な光を放ち、顔には人のそれとは思われぬ憤怒の表情を浮かべ、細くなった両の手足に見た目からは信じられないほどの力を込め、枷を打ちこわさんばかりに引きちぎろうと抗う。
「──────」
糸のような細い声で何を言っているのか、リベラには聞こえなかった。あまり耳慣れない響きである。ロマーノは勘をはたらかせたのか、やや間を置いてからイタリア語で話しかけた。
「私は、お前をその娘から祓うために来た」
「俺を知っている教会の坊主か。だが聞き慣れない声だ。近くに来て顔を見せろ」
メイヴは歪んだ笑みを浮かべつつ、鎌首をもたげて答える。このときの言葉は何と古代ギリシア語だった。堂々とした口振りたるや、以前と比べて明らかにいや増した力と知性をことさらに誇示しているように聞こえる。またリベラには、相手の操る編後を理解するのに手間取った自覚があった。前日に見た夢のせいで腹の中を覗きこまれたように思われ、動揺していたのだ。
「このあいだ来た奴じゃないな。いや、そいつもそこにいるみたいだな」
いっぽうロマーノはあらかじめ相手の力量を高く見積もっていたのか、初見のため先入観もないのか、すぐにイタリア語で答えを返す。
「そうだ。だがそれがどうしたと言うのだ。お前は間もなくそこから出ていかねばならん」
「何をするつもりだ」
「お前のためになるものを聞かせてやるのさ」
それからイタリア語と古代ギリシア語の異なる言語で双方やりとりをしたあと、ロマーノは祈祷文を読みあげる。独特の韻を踏んだラテン語が、薄暗い部屋に響く。
「栄えある大天使聖ミカエル、天軍の総帥、権勢と能力を以てこの闇の世の支配者なる悪霊との恐るべき戦いにおいて我らを護り給え。主がその似姿によりて創り給い、悪魔の暴虐より大いなる代価もて贖い給いし我らを助けに来たり給え」
同時に蝙蝠の鳴き声のような、高く細く耳に障る呻き声があがった。リベラは瓶の蓋を開け、ベッドの四隅に聖水を撒く。相手の声が強さを増すのは、過去に何度も目にした悪魔憑きの顕著な反応である。ここまで不審な点はほとんどない。
ただひとつ気になったのは、その際に視界に入ったロマーノの顔だった。先ほどはリベラよりも落ち着いていたように見え、表情もそのときと大して変わらずにいながら、さほど時間が経っていないのに額に異様な量の汗を掻いている。助祭の頃も含めて数え切れないほど儀式に臨んでいるのに、まるで初めてであるかのような気の張りつめようだった。だが声には静謐な響きがあり、抑揚も利いている。キリスト教徒でない被術者を相手にしているせいで神経が高揚し、実際に儀式を行って周囲からの圧力をより強く肌身に感じているせいかも知れない。リベラはロマーノの様子を窺いつつ、隣で次の聖句を口にする。
「今日、聖なる天使らとともに主の戦を戦い給え。もはや天国に場所なき傲慢の天使らの首謀者ルチフェルと反逆の輩に対し、かつて御身が戦い給いしごとく戦い給え。悪魔もしくはサタンと呼ばれ、この陰惨なる古の蛇は、その天使らとともに深淵に投げ込まれたり」
祈祷が効いているのか、唸り声はいっそう大きく、手足をばたつかせる動きも激しさを増す。相手が苦しんでいる証拠だった。ロマーノは右手に祈祷書を持ち、左手でメイヴの額に十字を切る。
「イエス・キリストの名において、お前の名前を名乗るのだ」
相手はさらに堪えたらしく、目を剥いて歯を喰いしばり、喉を引きしぼって言葉が出るのを必死に抑えている。ややあって口から出てきたのは、英語だった。
「貴様に答えてやる義理などない」
「ならば苦しむことになるぞ」
儀式は、相手が名前を吐くまで終わらない。取り憑くものが口を割らない以上、祈祷を続けるまでだった。それにしてもお互いがこうも別々の言語で会話をする光景は、リベラでさえも遭遇した記憶がない。ロマーノは受け答えにはイタリア語で応対する傍ら、祈祷はラテン語で詠唱を続ける。儀式の最中は何語を用いるべしとの決まりはないが、祈祷文はラテン語で詠みあげることが典礼で定められているからだ。
「この古の敵にして人類の殺害者が力を持ちたるを見よ。そは光の天使を騙り、おびただしき全ての邪悪な霊と共に徘徊し、主とキリストの御名を抹消するために地を侵略し、永久の栄えの冠に定められし霊魂を捉えて襲い、永遠の滅びへと投げ入れんとするものなり」
リベラは右手で祈祷書を閉じ、左手で十字架をメイヴに近づける。相手は今度は耳をつんざくような金切り声をあげて叫び、神父ふたりを威嚇した。空気を震わせる波が塊となって壁やベッドを小刻みに揺るがす。額から汗の引きかけたロマーノは、再び冷ややかに詰問した。
「答える気になったか。イエス・キリストと聖母マリアの名において、名乗るがよい」
今度はメイヴからの答えはなく、あたかも複数の発声器官から発せられるように幾つもの細い声を同時に重ねて呻くのみ。まだ屈服してはいないものの、かなり追いつめられているのが分かる。名を明かすまでさほど時間はかからないように思われた。ロマーノももう一息と踏んだらしく、すぐに祈祷書をめくる。
「この邪悪なる竜は、腐敗せし精神と堕落せし心、虚偽と有毒と冒涜の霊、不潔の有害なる悪臭、すべての悪と非道もて、その悪意の毒液をいとも不浄なる洪水のごとく我らに注ぎ出すものなり」
神父ふたりは、これまでより強く祈祷文を唱えた。好機を掴めばうまく相手から名を訊きだせる。仮にこの日に目的を果たせなくとも、相手を苦しませればのちのち有利となる。取り憑くものの様子を窺い、ロマーノは語りかけた。
「さあ、名を名乗るのだ。そうしているのも楽ではなかろう」
お読みいただきまして,感想と評価をいただければ幸いです。よろしくお願いします。




