十一 遺品 ①
「すべての人の救霊を望み、罪人に赦しを与え給う主、主の御あわれみを切に願い奉る。願わくは終生貞淑なる聖マリア、および諸聖人の御取次によりて、すでにこの世を去りしわが親、兄弟、姉妹、親族、恩人、友人に永遠の福楽を与え給わんことを、われらの主イエス・キリストによりて願い奉る」
アスティの教会に、〈全ての死者のための祈り〉を唱えるアルトベッリの声が響く。礼拝堂に敷きつめられた椅子には参列者が悲しげな面持ちで腰かけており、うち少なからぬ数が涙を浮かべて俯いていた。リベラはその中にあって、殊更に表情を変えるでもなく、呆然と祭壇を眺めていた。
ロマーノは五日前、あの日のうちに死んだ。臨終に際して終油の秘跡を行う暇さえなかった。検死で死因は脳幹出血とされたが、定期の健康診断では何ひとつ異常はなかったと聞く。紛れもなくメイヴの治療に失敗し、取り憑くものに命を奪われた。リベラにはそうとしか思えなかった。
リベラは、未だにロマーノの死を受け入れられない。あれほど忠実に聖務に励み、教義を巡る問題に真摯に向きあい、必要とあらば危険を顧みず自ら先頭に立ったロマーノがなぜ死ななければならなかったのか。リベラは、ほんのわずかの間ではあるが神への信仰を疑った。そしてなぜ率先してメイヴへの儀式執行を買って出なかったのか、そうすればこのような目に遭わずに済んだのではないか、仮に命を落とすのであれば己の方が相応しかったのではないかと悔やまれてならなかった。
しかもロマーノはあれだけの相手に立ち向かったのに、まったく浮かばれていない。葬儀の参列者を含め聖職者や教区の信徒などほとんどの者は、死因が誰にでも起こり得る脳幹出血であるとしか知らされていなかった。儀式の最中に死亡した経緯を知る教会の人間にさえ詳細は伏せられ、混乱を避けるためとのもっともらしい名目で、よそに情報を漏らさぬよう箝口令が敷かれたのだ。教皇庁は被術者の治療に失敗した事実を隠蔽したのである。そのうえバチカンの職員の対応も、実に冷淡なものだった。
「私は教皇庁検邪聖省儀式課の者です。ロマーノ神父のご遺体はこちらですか。あと悪魔祓いの様子を録音したテープレコーダーは」
ロマーノの遺体が安置されていた病室に突然あらわれ、哀悼の意も示さずにそう言い放ったのだ。
「こちらです」
リベラがそれぞれ指ししめすと遺体を一瞥し、レコーダーからテープを抜きとるや別れの挨拶もなしにそのまま去っていったのをはっきりと覚えている。検邪聖省の人間は、騒ぎを大きくすまいと余計な発言を控えたのかも知れない。また教皇の意図を明かすわけにもいかず、業務どおりに資料を持ちかえっただけでもあろう。それでも随分と酷な仕打ちに思える。なかんづくロマーノに対しては厄介者にでも触れるかのような態度であり、聖職に殉じた人間に向けられるべき敬意は微塵も感じられなかった。せめてもの救いは、かつての師であるアルトベッリが葬儀に臨み、死者のために唱えられるありとあらゆる祈りを自ら捧げたことくらいである。
やがてロマーノの棺が閉じられ、墓に運ばれ土に埋められる。その間も、リベラは何も出来ずにいた。キリスト教徒以外の治療を初めて試み、失敗した挙げ句に施術者が命を落とした、前代未聞とも言える儀式に立ち会ったのは他ならぬリベラなのである。本来なら親友の最後の最後までいちばん間近で付き添うべきだったが、心身の疲労を考えて可能な限り休むように周囲から諭されてそれに従った。
そのリベラは葬儀が終わっても、アスティの公園でひとりベンチに座っていた。儀式による治療を続行するか否かは棚上げとなり、メイヴはシモーネ夫妻によりただちに生命へ危険が及ぶ状態ではないと診断され、引きつづき二人の協力を得て体調だけは維持できているのだという。しかしこのままどんな顔をしてトリノに帰ればよいのか、と考えるうち疲労のため睡魔に襲われる。そこで見たのは、かつて師のロッコと交わしたやりとりだった。
「しかし、学会の方々はみな私より出来て参りますよ」
「他の方々は、かなりの割合で専業で研究をしているのですから、単純に比較すべきではありません」
「いえ、やはり年季の違いでしょうね。それに若いからか、あなたの方が文献を引用するのが巧みです。筋も通っていますよ」
「考えすぎです」
「謙遜しなくても結構ですよ。やはり勉強を始めるのが遅すぎたのでしょうか」
そのときの光景を思い出しながら、自らの境遇を改めて振りかえる。修練院を出たあと、なぜエクソシストをしながら民族学の研究を続けるロッコのもとに送られたのか。また、なぜ同じように聖務に就く傍ら学究にも励むよう指導されたのか。もし前者の活動のみを行っていれば、メイヴのような被術者を前にしてもああまで動揺しなかっただろう。逆に後者の活動のみであれば、このような難題に向きあわずともそれなりに平穏な生活を送れたに違いない。目を覚ましてからもその場から動く気がせず、何故かと一人で悩んでしまう。そこで足元に短く影が伸びているのがふと目に入った。数秒後には頭上から声も聞こえる。
「お疲れのようですね。よろしかったらどうです」
傍に立っていたのは見覚えがある、齢は三十前、丸顔で背が低い男。ロマーノの下で働いていた、助祭のジュゼッペ・トッツィだった。近くの屋台で買ったと思しき新聞紙に包まれたパニーニを二つ抱え、ひとつを差し出してくる。
「あんまり食べないと身体に毒ですよ」
「そんな風に見えますか」
「ひどいお顔です。前にお会いしたときと比べて、やつれてますよ」
リベラは左手で顔を触り、頬の痩け具合を確かめてみる。トッツィの言うとおり、ここ数日は食が進まなかった。形だけ食事を摂ってはいても、以前と比べると量は確実に減っていた。葬儀が終わったせいもあってか、にわかに空腹感を覚える。
「ではいただきます」
リベラはパニーニを受けとり、一口二口と囓った。炒めたエビとアボカドの旨みを舌に感じるが早いか、薄いパン生地ごと喉の奥に飲み込む。パニーニひとつを胃に落としこんただけなのに、それなりの力が湧いていくるような気がした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
トッツィの人なつっこい笑顔にも救われた気がした。と同時に一人で落胆していた自身を、リベラは情けなく思う。自分の方がロマーノと付きあいが古いのは間違いないとしても、生活を共にしていたのはトッツィなのだ。ロマーノの急死により聖務に支障も生じているだろうし、何よりこの葬儀を取りしきってそれをたったいま終わらせたばかり。トッツィの方が間違いなく疲れており、精神的にも打ちひしがれていておかしくないなのに、こうして元気づけてくれている。周りに心配をかけてはいけない、と思い直すも、パニーニを包んでいた新聞紙が自然と視界に入る。裏面のスポーツ欄に「競馬 タンティエーム〈キングジョージ〉三着に敗れる」との記載があるも気づかない。仮に紙面の裏表が逆だったとしても、それどころではなかった。リベラの瞳に映ったのは、嫌でも無視できない見出しの記事だった。
「悪魔の祟りか 三十代の神父が悪魔祓いの最中に死亡」
リベラは包み紙の新聞をくしゃくしゃに握りしめ、すぐ近くのゴミ箱に捨てられていた別の新聞を幾つか拾いあげて何枚かをめくる。するとやはり似たような記事が掲載されていた。
「悪魔祓いの対象は非キリスト教徒 教会の権威失墜」
いずれも三流紙や地方紙ではなく、全て名の通った全国紙である。教会関係者が意図的に情報を広め、一紙が取りあげたのを各社が追いかけて次々に報道したのだ。あの日は救急車も出入りしており、異常の発生は誰にでも察知できた。いくらバチカンが箝口令を敷いたところで、全てを隠しきれるものではない。何にせよいかにも興味本位の内容にリベラは苛立ち、新聞をびりびりに破いて再びゴミ箱に捨てる。
「お気持ちは分かります。私もいい気分ではありません」
「お見苦しいところを見せてしまいました。おまけにあなたに葬儀を仕切らせてしまって」
「私だけじゃありませんよ。他の皆も一緒です」
「やはりお手伝いすべきだったでしょうか」
「リベラ神父は休んでいなければ駄目ですよ」
「そうでしたね。覚えているつもりでしたが」
トッツィがパニーニを囓りながらゆっくりと隣に座るのを見、リベラは気を鎮めた。今しがた自分に言いきかせたばかりなのに、また余計な心配をかけている。やはりこのような状態では、メイヴの治療に当たっても何もできない。一応は空腹を満たしたこともあり、そろそろトリノに帰ろうと腰をあげかけた矢先にふと呼び止められる。
「お待ちください。もう行かれるのですか」
「ええ。あまり皆さんにご迷惑をかけてはいけませんからね」
「その前に、お願いがあります。今日でなくても結構ですが、お手伝いをお願いできませんか。これからロマーノ神父の遺品を整理するのですが、捨ててよいものかどうか分からないものがありまして。あいにく私たちはロマーノ神父とは二、三年の付きあいですから。リベラ神父は、修練院時代からのご友人とお聞きしておりましたので」
もしかすると、トッツィはそのためにリベラを追いかけてきたのかも知れなかった。今の状態で何もしないでいると、どうしてもメイヴの一件に考えがいってしまう。いちど頭を切りかえた方がよさそうな気がした。アルトベッリから休養命令が出されているが、それはエクソシストとしての活動を主とした聖務に関してである。リベラはトッツィの方へ向きなおり、一にも二もなく頷いた。
「ではご協力させていただきます。こちらからもお願いしますよ」
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