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黎明 消える月

 出頭した巧に、安息は待っていなかった。彼は半人半妖の身であったために、人間として扱われなかったのだ。裁判が開かれることはなく、どこかの地下室に閉じ込められる。昼も夜も分からなくなるほどの長い時間、彼は実験動物にされていた。電流を流される。反射的にもがくが、拘束された手足では身動きをとることなどできない。研究員たちが言う。


「これ以上は、被験体が持ちません」

「構わん、続けろ」


叫びは防音の壁に呑み込まれ、地上に響くことはなかった。



 狭い事務所の中、ラジオがニュースを伝えている。


「妖怪対策課が設立されました。これは妖怪の引き起こす事件に対抗することを狙いとしたものです。課長には元捜査一課の三条刑事が任命されました。妖怪とは、未知の物質『妖素』を持つ生物で、その生態にはまだ謎が多く」


それを聞いていた憂介は、深いため息をついた。


「まったく、世も末だな。警察が妖怪退治なんて。なあ、典子」

「いいんじゃないの、別に」


ソファに寝転がった典子が答える。


「次にやらかしたらお前も処罰されるんだぞ」

「もう反省してるってば」

「まあ、味方が増えるんなら有難いんだがな。本当に味方が増えるんならな」


扉が開く。現れたのは例の警官、三条だった。


「陰陽堂さん、久しぶりです」

「御影です」

「まあそれはどちらでもいいんですが」

「今日はどういったご用件で」


少しの沈黙の後、三条は答えた。


「挨拶をしに来ました」


少しばかりの違和感を覚えながらも、憂介は会話を続ける。


「ああ、ご栄転おめでとうございます。ラジオで聞きましたよ。妖怪対策課課長、でしたっけ」

「ありがとうございます。その話なんですが、あなたがたの力を借りるのは不本意なことだったんですよ。捜査情報を漏らすなんて、職務に違反しますからね。ですが、あなたがたの協力によって街の平和が守られたのも事実です。だから、そのお礼だけは言っておこうと思いましてね。あとは私たちに任せて、ゆっくり休んでいてください」

「待ってください、何を勝手に決めてるんですか。だいたい妖怪は」

「人と妖怪の間の存在にしか殺せない、ですよね」


三条は突然銃を抜き、典子めがけて発砲した。彼女は片手で受け止め、手をパンパンと払う。銃弾が床に落ち、カランコロンと音を立てた。


「やめてよ、もう。手のひらが焦げちゃったじゃん」

「典子の手の皮を傷つけた、だと。なんて威力だ」


訝る憂介に、刑事が続ける。


「妖素を組み込んだ特殊弾です。これがあれば、妖怪による被害を十分に防げます」

「なぜ、その技術をどこで」

「私は」


それきり三条は黙り込む。逃げるように彼は立ち上がった。


「では、ここらで失礼します」


パトロールカーを走らせながら、三条は考える。昨日起きたことについて。



 彼は「合わせ鏡の悪魔事件」を追っていた。一見するとただの自殺なのだが、事件性があるとされたのは死に方の異常性からである。被害者と言っていいのかはわからないが、彼らはいずれも自らの目を潰して死んでいた。そしてもう二つ、彼らは死の直前に合わせ鏡をしていたらしく、その後幸運が降りかかっている。自殺するような境遇ではなかったはずなのに不審な死を遂げ、いつしか悪魔の仕業だとささやかれていたのだ。


「鏡を合わせただけで幸運が転がり込むなら、苦労しないんだがな」


午前零時、三条は合わせ鏡をしていた。悪魔を自分に憑け、それを祓えばよいと考えていたのだ。一種の囮捜査である。寮の薄暗い洗面所の鏡が手鏡と光のキャッチボールをし、虚ろな広い世界を写す。その奥の奥、十三層目に黒い影を見つける。来た、彼はそう思った。


「お前の願いを言え」


黒い影が語りだす。


「悪いが、願いを忘れてしまった。いつ思い出せるかわからないから、ついていてくれ」


それは時間稼ぎのための嘘だった。契約を結んでしまっては、死の危険が生じてしまう。しかし悪魔には通じない。


「断る。今ここで言え」

「だったら、俺に力をくれ。妖怪や幽霊や訳の分からないものたちから、皆を守る力を」


それは彼の本心だった。悪魔に魂を売るつもりはない、にもかかわらず吐き出してしまう。


「お安い御用」


そう言って悪魔は立ち去ろうとする。


「おい、どこに行く。まだ叶っていないが」

「叶うようにした。お前の望む力が、お前に都合よく転がり込むように、過去を消した」

「どういうことだ」


三条が訊くと、悪魔は飄々と語りだす。


「あるところに、半妖の少年がいた。彼は自らの罪に堪えられず、出頭しようとした。友人の説得によって彼は思いとどまった、その過去を消したってわけだ。出頭した彼は人ではない何かと扱われ、ついに幸せになることはなかった」

「なんだ、その胸糞悪い話は」

「そう言うなよ、お前の願いの犠牲になってくれたんだから。彼が捕まったことで、政府は妖怪の存在を認知する。そして妖怪に対策するための部門が設立され、お前はその隊長に任命される。彼の細胞をもとに妖怪に効く特殊弾も開発される。それが新しい未来だ」

「ふざけるな、元に戻せ」


詰め寄る三条を、悪魔はひらりとかわす。


「残念だが、元に戻すことはできない。欠落した過去は、もうどこにもないからな」


彼はショックを受け、当初の目的を見失いそうになっていた。しかしそれでは悪魔の思う壺だと、どうにか我に帰る。


「待て、まだ俺は信じられていない。これがハッタリじゃないと俺が認めるまで、俺の近くにいてくれ」

「もしハッタリならどうするんだ」

「ぶちのめす」

「わかった。信じろという方が難しいだろうからな」


悪魔が彼の影に隠れた。



 そして現在。彼は悩んでいた。自分の願いによって、誰かを犠牲にしたという事実に。彼が陰陽堂を訪れたのも、本来は悪魔祓いを依頼するためだった。しかし、後ろめたさから言い出せなかったのだ。悪いのは自分ではなく悪魔だ。犠牲になったのは知らない誰かだ。こうなって良かったはずなのだ。いくら自分に言い聞かせても、胸の奥に詰まった泥は消えてくれない。少しして、市民からの通報があった。透明の虎が暴れていると。妖怪対策課に抜かりはなかった。エリート集団だった。現場に急行し、市民を避難させながら虎と相対する。夜の街にうごめく虎はひどくシュールで、悪い夢のように見えた。警官の一人に虎が飛びかかる。特殊弾で撃ち抜くが、虎はものともしない。頭を噛みちぎられ、断面から血が噴き出す。逃げようとする者もいたが、一跳びの間に追いつかれ、食われる。頼みの綱の特殊弾も効かず、逃げることも許されない。ただ、死んでいく。


「なあ、悪魔よ。俺のせいで、こんなことになっちまった」


もう見たくないと彼は自らの目を潰し、その命を絶ってしまった。



 それから数日後、瑠璃もまた合わせ鏡をしていた。悪魔が言う。


「お前の願いを言え」

「巧くんが、幸せに生きられる世界にしてください」

「お安い御用」



 翌日、巧は学校に来ていた。普通の人間として。瑠璃は彼のもとに飛び込む。


「元に戻ったんですね、巧くん。よかった」

「元って、僕は何も変わってない」

「すみません、変なこと言っちゃって。とにかく、よかった」


彼は少し戸惑ったが、それ以上追及しなかった。



 終業を告げるチャイムが鳴る。


「巧くん、陰陽堂に行きましょうよ」

「なんで」


巧の表情は暗い。


「なんでって、どういうことですか」

「なあ、本気で言ってるのか」


何かがおかしい。彼女はそう悟った。


「何か、あったんですか」

「覚えてないのか」

「実は」


一通りの事情を説明すると、彼は語りだす。


「さらわれた瑠璃を、僕は助けられなかった。だから、憂介さんが助けたんだ。その命と引き換えに。あとは多分、瑠璃が知ってるのと同じだよ」


瑠璃の頭に、驚きと悲しみと辛さが流れ込んでくる。それでも、どうにか次の言葉を紡いだ。


「どうにか、できないんでしょうか」

「その悪魔を捕まえれば、あるいは」

「午前零時に合わせ鏡をすれば、現れます。と言われています」



 そして午前零時。鏡の中から、やはりその悪魔は現れた。その瞬間、巧はベルトと腕輪に円錐を差す。月の力と、炎の力。円錐を回す。モンスター・サプライズド・ユー。


「葬着返身」


鎧が纏いつく。彼の拳が当たろうとするその瞬間、悪魔は口を開いた。


「俺を殺しても、世界は元に戻らない」


それを聞き、巧は手を止めてしまう。


「お前の願いを言え」

「憂介さんを、生き返らせてくれ」



 翌朝、人類は滅びていた。異形の者が跋扈する、変わり果てた世界に巧は投げ出されてしまったのだ。妖怪の一匹が襲いかかる。それを切り裂き、現れたのは憂介だった。


「憂介さん、なんでこんなことに」

「覚えてないのか、妖怪連合のせいだよ」

「瑠璃は、瑠璃はどうなったんですか」

「死んだよ。救えなかったんだ、あの男のもとから」



 そしてその夜。鏡の向こうから悪魔が現れる。憂介は悪魔に言った。

「瑠璃を生き返らせてくれ」



 誰かが死なないようにすると、誰かが死んでしまう。何度も、何度も、繰り返す。目を覆いたくなる頃、巧は願った。


「全部なかったことにしてくれ」


彼が願った通り、全てはなかったことになった。「望月巧」という存在も、生きた証も、生まれたという事実でさえも。



 滅びた世界を瑠璃は駆ける。憂介と出会わず、巧が存在しなかった世界を。護身用にと父から受け取ったベルトで、今日も戦う。漠然と、何かを失ったという感覚だけを抱えながら。


「なあ、聞いたか。午前零時に合わせ鏡をしたら、悪魔が出てきて願いが叶うらしいぜ」


地下街で、生き残った人間たちが雑談をしている。なんのことはない噂話だったが、妙に彼女の心を惹きつけた。



 午前零時。鏡の中の悪魔を見ると同時に、瑠璃は全てを思い出した。ベルトに骨の円錐を差し、回す。スターティング・アップ。ベルトが告げる。


「葬着」


悪魔の首根っこを掴む。


「返してください、私たちから奪ったものを」

「待て、願いを叶えたいなら、ちゃんと正式な契約をだな」

「いいから、早く」


目が覚めると、全ては元に戻っていた。



 サイレンが鳴り響く実験施設を、三人は駆ける。瑠璃が巧に笑いかけた。


「これでハッピーエンドですね」

「だが、僕はどうやって償えばいいんだ」

「力を正しいことに使えばいいんですよ」

地上に出る。日は沈み、新たな月が出ようとしていた。

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