第終話 「時の歯車と天庭」
小麦粉の甘い匂いが鼻をくすぐる。
戸口に立ったルトランスが杖を片手に瞬きして、不可解そうに我を見た。
「やっと見付けたと思ったら……。
いったい、何をやっているんですか?」
腕まくりをした我の前には調理台。その上にはふり撒かれた白い粉。満月にも似たふっくらとした真円の固まり。
ここはシーカルド城の厨房だ。
我は白くなった両手をルートに突き出して、広げて見せた。
「パンをこねている」
「あーー……」
ルートは、安全になった城の中でも持ち歩いているらしい、杖をくるりとお決まりに回して、空いた手で己の頬をかく。鳶色の目が厨房をすばやく見渡した。
一見すると、我の返答に戸惑って言葉に詰まっているように見える。まるで助けを求めているかのような眼差しだ。そんな若い魔法使いの様子に、脇で作業していた食事係の『おばちゃん』どもが、忍びやかに笑い声を立てた。
しかしその実、ルートはそんな可愛げなど持ち合わせていない。先の台詞が問いたかったのは、「何を」ではなく「どうして」でさえない。遠回しの、ただの抗議だ。が、こやつもいい加減学習した。我にそんなものは通用しない。だからあの困惑顔は、己への反省といったところか。
見渡す間に状況を見て取ったルトランスは、気を取り直して我に視線を戻した。眉を下げた困り顔のまま、小首を傾げてみせる。こちらもまた身に付けているのか、紅い玉と銀の棒飾りが揺れた。
「……つまり、今日の晩はシェロナさまがこねたパン、ということですね。
えーと、一応言っておくと、今は食料難なのですが」
シーカルド城を魔物の手から取り戻してから、七日程が過ぎていた。砦から戻った人間共があちらこちらで復旧の作業を進める城内は、慌ただしい空気に包まれている。ここではそんな人間共のために、まとめて食事が作られていた。
我は簡単にうなずく。
「知っている」
「ははは! 心配しなくても大丈夫だ」
そう言って笑って請け負ったのは、向こうで手を動かしている、黒いくせ毛に無精な髭を生やした男だ。この厨房を取り仕切っている料理人だというその男を、我は少々恨みがましく見遣った。
昨日の事だ。
城内を当て所なく散歩していた我は、パンの焼ける香ばしい匂いに誘われて、この厨房に足を運んだ。以前から人間のする料理というものに興味があった。それになにより、我はこのパンの匂いが大好物だった。
そこで我は、こやつに手伝いをさせろと申し込んだ。本来の我が掌は食材を扱うのには向いていないが、ここでならば、調理することもパンをこねることも可能だ。渋る料理長を説得し、なんとか翌日の調理を手伝わせてもらえることになったのだが----。
「だからさ。パン作りしかやってもらってないんだ。
今までやったことない人にやらせて、食材を無駄にしたらもったいないじゃ済まないだろ。どうしてもと言うから、量が多くて大変なパン作りをお願いしたってわけさ」
手伝い自体はありがたいもんだし、と男は快闊に言って邪気なく笑った。
我としては不満が残る。しかしパンはやれたのだから、今は満足しておくことにした。充分に楽しめた。他は徐々に手を伸ばせばいい。
料理長は己の作業の手を止めると、こちらに向き直って筋肉質な腕を組む。
「でも、なかなかに筋が良い。
ほとんど説明がいらないくらい、手順も分かっていたし」
当然だ。我がどれだけの時間、人間共の作業を見物していたか。よく麓の町にまで下りて行って、匂いを嗅ぎながら窓の外から眺めていたものだ。これまではそれだけで断念していたのだが、これでまた一つ夢が叶った。
「そうですか……」
ルートが微妙な表情で話を聞いて、曖昧にうなずいた。
我は鋭く視線を飛ばす。
「----不服か」
「いいえ。とても楽しみです」
ルートはにこりと笑ってみせる。
「それはともかく」と、さっさと話題を変えた。
「シェロナさまが退屈しているのは分かりますけれど。それにノルンさんを巻き込むのはどうかと思います。ノルンさんは城の防衛の事などで、いろいろと忙しいんですから」
調理台の向こう側に立ったルートは、今度ははっきりと厳しい顔をして注意した。
我の横、厨房の隅にあった簡素な丸椅子に腰掛けて、のんびり水を飲みながら傍観していたノルンは、突然話題に持ち上がって首を傾げた。物腰の柔らかなルートが珍しく顔を険しくしている----と見えるのか、ノルンは慌てて手を横に振る。焦り顔で言った。
「ちがうちがう。
実はさっき起きたばかりなんだ。
それで何か食べ物をもらおうと思ってここに来たら、たまたま彼らが手伝いをしていて。なんだか面白くって、つい見物していただけなんだよ」
----面白い、とはどういう意味か。その表現に、我は少々引っ掛かりを覚える。時折、人間の感覚が腑に落ちない。
ノルンは相変わらずよれた服を着ていた。頭の毛もあちこち跳ね回って、目の下は黒い。
夜遅くまで本を読み耽って、朝----というより昼過ぎだが、日が高くなってから起きるのは、大量の仕事に追われているからではなく、こやつの元からの習性らしい。我がルートと旅立ったあの日も、直ぐにまた倒れてしばらくずっと寝込んでいたと言うから、そもそも体が貧弱なのだ。召喚にまつわる失態のあれこれも、だから自業自得なのではないかと我は疑う。
気を遣ってくれてありがとうと柔和に微笑まれて、「それならいいのですが」と返すルートは、まだ心配そうな顔をしている。
「……」
我は知っている。
ルートのこれは、建前だ。
魔法使いで年齢が上のノルンの立場を心得ていると見せることが、ここでのルートには必要ということだ。城を取り返してから数日が経って、メリダスやノルン、もともとここで暮らし働いていた人間共が戻ってからというもの、ルトランスはすっかり元の調子を取り戻していた。
正直なところ、一度アレを見てしまった我としては、こうした態度は気味が悪くてしかたない。前々から気付いていたとしても、だ。
眉を寄せ、胡散臭くそんなルートを見る。我の横にいるミリリアも似たような心境なのか、小首を傾げて戸惑う気配だ。と----、
ルートがこちらを向いた。ミリリアがぎくりと肩を硬直させる。
さっきとは態度を反対に、ルートは腰に手を当ててたしなめるように小娘を見た。
「ミリリアも。
無理して付き合うことない。まだ怪我、治ってないだろう。
この人の回復力が人並はずれているだけなんだから」
などと、今度は如才なく一緒に戦ったミリリアを気遣い始めた。良い兄貴分を印象づけてみせる。我やこの娘にそれをしたところでもはや意味はないから、対象はノルンやこの場にいる『おばちゃん』どもだ。食は生きることに直結する。厨房で人徳を得て、食いっぱぐれないようにしようという魂胆か。
その上で、そう言うルートはきっちり無傷だったりするのだ。あの状況下で人質を守りながら戦いつつも、最低限己の身の安全だけは確保しているあたり、本当にちゃっかりしている。感心する。
ミリリアは我と同じように白い粉の付いた両手を、体の前で振った。
「大丈夫です。けがは慣れています。
部屋で大人しくしている方がよっぽど疲れてしまって。
でも、何か片付けのお手伝いをしようとしても、断られてしまうんです。
だから、シェロナ様とこうしている方が楽しくって。
----あっ。大変な時に、不謹慎ですね」
慌てて下を向くミリリア。
ルートはため息をついて優しく微笑む。
効果は絶大なようだ。おばちゃんどもが微笑ましく見守っている。
我は頭の中で尻尾を振って、話題を切り替えた。
「それで、何の用だ」
あの決戦を終えてから、我はメリダスにうんざりするほど礼を言われたくらいで、後は処遇に不満のあるドルギヌスに、あのやかましい声で文句を聞かされたくらいで、特にやる事もなく暇な日々を好きに過ごしているのだが。
ルトランスはというと、その分なにやら忙しいようだ。
「その分」というからにはもちろん、本来なら我がやるべき仕事も代わりにこなしているということだ。メリダスたちより先に着いた砦の兵士に状況を説明したり、仕事を割り振ったり。上役の連中と話し合いをしたり----よく知らないのだが。
その上で「あんたが勝手をするとおれに仕事が増える」と、愚痴をこぼしていたのは先日だ。同時に「安全地帯で事務処理やら根回しやらをしている方が、ずっっっと気が楽だ」とも、皮肉とため息混じりにこぼしていた。
その様子からすると、不満があるわけではないようだ。面倒な細々した仕事を押し付けられるのは、或いは進んで任されるのは、普段通りでしかない、と。
そんな調子だから、あれから顔を会わせる機会も稀だった。むしろ我は、ルートの視界から閉め出されているくらいだった。用などあるはずがないのだが。
「そうでした」
ルトランスは我に返って、こちらに向き直った。
「実はアルドさんが----」
「ツノ野郎はこっちか!」
不愉快な呼び名に顔をしかめる。野太い怒鳴り声が聞こえてきたのは廊下の先から。乱暴な足音が近付いてきたかと思うと、巨体が戸口に顔を出す。前までのいかにも盗賊の頭風の着物ではなく、いくらかさっぱりした町人風の身成なのは、人目を気にしてのことか。表情が、態度が、明らかに怒っている。
言葉を遮られたルートは、ほんの微か----恐らく我にしか分からない刹那だけ、目元を歪めた。それから焦りを含んだ困り顔で振り返る。
「アルドさんっ。客間で待つように言ったはずですっ」
「うっせえ! いちいち待ってられるか!」
「……にぎやかだなあ。
シェロくん。話をするなら、とりあえず裏の水場で手を洗っといで。
パンはしばらく寝かせないといけないから。近くにいれば、また呼んであげるよ」
やんわりと言って、料理長が裏手に通じている勝手口を指差した。その指先には、有無を言わさぬ迫力がある。確かに、我らは邪魔でしかない。
「……」
食って掛かるアルドをルートが押さえるのを横目にして、我は肩をすくめた。
体よく、追い払われてしまった。
「てめえ! 話が違うじゃねえか!」
場を移動して----。
昼も深まり、太陽が山の端に傾き始める頃。城と城壁に挟まれた厨房の裏手は、早くも濃い影の占める範囲が広くなっていた。内に引き入れられた細い水路から、軽やかな水音が聞こえる。
その井戸端で、アルドが早速怒鳴り声を上げた。水路の側に陣取って野菜の下拵えをする者共が、驚いて顔を上げた。
我は手を水で流してから、アルドを斜めに見た。
「王女の件か?
それなら我の関するところではない」
小気味良い大工仕事の音が城壁に反響して届く。近くにはルートが氷の橋を掛けた北の門があって、修復工事の真っ盛りだ。
アルドに「話が違う」と言われて、我が思い当たる事はそれくらいだった。
あの時、ドルギヌスを討ち果たした後の事。
魔物が去ったのを見て取ったルトランスは、何よりも真っ先に王女の安否を確かめに行った。
王女は城の左側にある塔の最上部に幽閉されていた。側付きの侍女も共にいて、寝台の中ですやすやと眠っていたそうだ。王女はルートに連れられて、我らの前に姿を現した。王女を心配していた人質共に無事を知らせるためだ。
王女は我の前で丁寧に頭を垂れた。
「この度は城と人々をお救いいただき、誠に感謝いたします」
そのような礼の言葉を、娘らしい高く華やかな声で述べた。
線の細い体。白い肌。肩からさらさらと波を打って流れる長い髪は、朝日に明るく照り映える金。真っ直ぐ顔を上げて微笑む瞳は、瑠璃より深い青だった。我でも息をついて感心する。人形のような姿の娘だ。苦境にあったはずだが、やつれた様子もない。
しかしその王女を目にして、アルドは驚愕に顎を落とし、我を----ルートを振り返った。
「こ、こ、こ、」王女を指差したまま、直ぐには言葉が出て来ない。
「このちんちくりんが王女??
キレイで、優しくて、気品のある王女サマだっていうから、どんなべっぴんなネエちゃんが出てくるかと思えば----!
まだガキじゃねえか!
そっちの嬢ちゃんより年下だろ、コレ!」
盗賊の頭の言う通り、王女はミリリアよりも小柄で、丸みの残る顔立ちは幼い。
明らかに柄の悪い大きな男に尋常でない剣幕で「コレ」呼ばわりされて、王女は長い睫毛を瞬かせ、少々身を引いた。分かりやすく怯えさせた。
ミリリアが口を尖らせて、アルドに抗議の目を向ける。
「王女様に向かってその言い草はなんですか。
そうですよ。エルダ様は前王の娘で、お若い現国王陛下の妹君にあたりますから。まだ十歳くらいのはずです」
「……はい。わたくし十になります」
「--------」
アルドが肩を落として絶句する。心底から落胆している。
気付けば周りに集まった盗賊共も似たような有り様だった。肩を叩き合って、「綺麗な王女さまに労ってもらえるならって頑張ったのになあ」「十年経てば、えらい美人にはなるだろうケドも」「あんな子供じゃあなあ」などど、深いため息をつく。揃って妙な夢でも見ていたらしい。
ちなみに、ミリリアは以前遠目に見掛けたことがあるのだとか。王女の年齢を知っていたが故に、この娘はあれだけ救出にこだわっていたのだ。
「……そうだったのか」
平然と王女を連れてきたはずのルートまでが、わざわざ小娘に確認してそう呟いたくらいだから、こやつも意表を突かれた口に違いない。
ノルンが差し出した手拭いを受け取って水気を拭う我に、アルドは太い眉を大仰に歪めて怪訝な顔をした。
「はあ? いつの話してんだ? てめえは時々、とんでもなく気が長えよな。
ちげえよ! 報酬の話だ!
オレたちが城の兵士になるってどういうことだ!」
胸ぐらを掴みかねない勢いでアルドが詰め寄って、人差し指で我の胸を突く。こやつは上背が我より高い。怒る焦げ茶の瞳に間近に見下ろされる。我はただ、それを見上げた。
どうもこうもない。
「おまえたちの安全と生活を保証すると言った。
だから兵士にする。兵士になれば住まいと給金が与えられる。今後、ずっと。
なんの問題がある」
「大アリだバカ野郎ッ!」
アルドは怒鳴った。
これは、気に触った。するすると、翡翠の瞳が氷に似た薄青色に変わる。
「オレたちは好きでこうしてやってんだ!
規律だとか身分だとか堅っ苦しい兵隊なんてやってられるか! 冗談じゃねえッ!
しかもてめえの直属だと! この上どんだけこき使う気----っぃてッ!」
鉄槌という言葉があるが、人間でしかない我の拳はそれほどには硬くない。
脳天に振り抜いた拳に、アルドが長身を折った。
視界の端で、ルートが周りの目を気にして不安そうに見渡している。それは演技であって演技ではない。この話を聞けば、我とアルドがぶつかることは予想できていたはずだ。盗賊共を兵士にする手続きとその根回しをしたのは、ルートなのだから。こやつは我の意向に沿って面倒を引き受けただけだが、反対もしなかった。
城は現在人手不足だ。地下の隠し通路を管理していたはずの者は、結局見付からなかった。地下道を熟知しているこやつらはそれにうってつけだ。我としても自由に動かせる手勢があった方が有利だと踏んだ。盗賊共の手際と結束は使える。
ルートにとって予想外だったのは、その衝突が人目に付く場所で勃発したことか。我の機嫌が冷え込んだことか。
アルドが上体を引き起こした。
「なにすンだ!」
「ならば好きにしろ」
出会い頭、言ってのける。我はゆるりと腕を組んだ。
アルドが目を眇める。
「あん?」
「我はどちらでもかまわぬ」
「なんだ……? やけに聞き分けが良いな」
平然と見返して言う我に、アルドは気勢を削がれて身を退いた。なにより不審を露に焦茶の瞳を落ち着きなく彷徨わせ、顔色を探る。
我は薄青の目を僅かに細め、顎を上げた。声が殊更平坦になる。
「簡単なことだ。
城に備蓄されていた食料、物資、それに宝物庫の品々。魔物のせいでそれらが目減りしてしまったとメリダスは嘆いていたが。それが本当は誰の仕業か、教えてやるだけだ」
「なッ!」
直ぐには言葉が続かない。盗賊の頭は目を剥いて、もう何度目か絶句した。
淡々と付け足す。
「考えてみれば、おまえたちは既に充分な報酬を手にしている」
「……っ、……っ」
傍で見守るルートが、眼差しに同情の色を滲ませる。ミリリアははっきりと気の毒に目をそらした。ノルンが呆気にとられている。
わなわなと間抜けに開いた口を震わせてから、アルドは大袈裟に腕を振って場の空気を払おうとする。
「まてまてまて!
それこそ話が違うじゃねえか!
不問にするって言ったろ!」
「それは我が用意した報酬に付随する条件だ。
反古にしたのはおまえだ」
「ぐっ」
アルドは唸る。
「ぐぐぐぐぐぐ……!」
真冬の氷の色をした視線に晒されて、唸る。突然足場を失ったようによろめく。
恨みがましい視線が、苦々しく負け惜しみを口にする。
「き、汚ェぞ。選択肢ねえじゃねぇか。
てめえはそれでも勇者かっ」
我は無表情。重ねる言葉はない。無言の圧力で追い詰める。
むしろその言葉に反応したのはノルンだった。よれた衣服の魔法使いは、居心地悪そうに体を動かして、視線をそらす。
「えーと……なんていうのか、それは……申し訳ない……」
我の代わりのように躊躇いがちに謝ったのは、勇者を召喚した張本人だからか。それ以上の謝罪の理由はルートさえ知らない。
思い掛けない方向からやってきたその一言に、アルドは耐えかねて破裂した。
「あーーーーっっ、くそっ!
だまされたぁああーっ!」
天に向かって雄叫びを上げる。頭を抱えて大地を踏み鳴らしたかと思うと、うずくまって嘆く。
----勝った。
その姿に満足して、我はうなずいた。
その時----、
頬を撫でる風に、それまでとは違ったにおい----のようなものを感じて、我は空を見上げた。これは、覚えのある気配だ。
「どうかしましたか」
異変に気付いたルートが硬い声で問い掛ける。
我が口を開くより先に、
声が上がった。
「大変だーーー!」
頭上高く、分厚い城壁の上。周囲をぐるり巡ることのできるその場所から、ただならぬ声が響き渡る。それと同じくして、けたたましい鐘の音が、長閑だった空気を引き裂いて打ち鳴らされた。
敵襲を知らせる警鐘だ。
不穏な気配が瞬時に吹き渡り、城の空気が一変する。
我は駆け出した。
城壁の上の物見台へ向かう。方角は----北だ。
「シェロナくん?」
疑問の声はノルンか。既に置き去って耳に入らない。
城壁の上は風が吹いていた。
忙しない兵士共の視線とその指先が真っ直ぐ示す先は、城の北側。足下にある町よりもさらに遠方、山がちだった土地がその辺りから平らになって拓けた場所だった。黒くぼやけた何かの群が、徐々に、確実に、こちらに向かっている。
そして上空。その群の上にある空に、暗雲としか呼びようのない固まりがあった。沸き立つ雲が蠢きながらこちらに押し寄せる。そこにも大地と同じ黒い影が、空を行く群となって迫っていた。
どちらも、ただの生き物の大群というには整然と足並みが揃い、列が整っている。
----魔物は暗雲を引き連れてやって来る。
つい最近耳にした、そんな言葉が頭を過った。
疑いようがない。
あれは、魔物の軍勢だ。
今度は空と大地から兵を差し向けて来た。
「--------早いな」
我は縁に乗せた手に力を込め、呟いた。
ここは手勢の少ない小さな城だ。取り立てて意味のある立地でもない。普通ならば捨て置くような場所だが、魔物にしてみれば〈勇者〉がいると分かった以上、見過ごしにもできないのだろう。その一人のために、一度占領した城から追い払われてもいる。
予想はしていた。新たな軍勢を引き連れて、直ぐにでも再び攻めて来ると。しかし、早い。これは考えの上を行かれた。それだけやつらの矜持を傷つけたか。意地になっているのか。勇者討伐の意気込みが見て取れる。
我は目を細めてその一団を睨んだ。
まだ遠い。が、時間の問題だ。
「まずいですね」
いつの間にか隣りに立って、同じように目を細めて見遣るルートがいた。その顔色が優れない。付いて来ていたらしい。並んでミリリアやアルドの姿もある。
「あの大軍で来られたら、とても保たない。
また城を明け渡すしかなくなる」
「…………」
しかも、次は取り返せない。
その上、やつらの目的は我だ。城を奪った後、そこに勇者がいないと分かれば、この辺りの人間を根絶やしにするような、強引な作戦に出る可能性も否定できない。それ以前に----……。
ルートの一点に止めた厳しい眼差しが、頭の中を目まぐるしく巡る計算に揺れる。その目が黙り込む我の顔を見た。それから取り残されるのが嫌だったのか、息を切らせてやっと追い付いたノルンを振り返った。
「ノルンさん。
防御結界を新しくすると言っていましたが、もう使えますか?」
「えええ??」
膝に手を付いて息を整えていたノルンは、肩を掴むルートの剣幕に気圧されて驚いて顔を上げた。その赤い瞳が、空にある暗雲を捉えた。寸の間言葉を失う。そして激しく首を横に振った。
「そんな早くには無理だ。
設計は頭の中に組み上がっているけれど、実際はまだ基礎の構築しかできていない」
「それ、いま直ぐ仕上がらないですか」
間近で睨むような目付きのルートに、ノルンは息を詰めて首を何度も横に振る。
「そうですか……」
ノルンを解放するルートの声は落胆を隠さない。腹の底では舌打ちでもしているに違いない。表情がいつになく苦い。
こやつの考えは分かる。
打つ手が無い。
少数でも隙をついて勝ちをもぎ取った、前回とは違う。魔物を相手に、この人数この装備で完全な守勢に回っては、勝ち目が無い。それが分かる。ここにいる他の兵士共にさえ明らかだ。
沈黙が落ちる。
ルートが真面目な顔に、ふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべた。
「おれ、逃げてもいいですか」
我は吹き出すように微笑した。
こやつにしてみればそうだろう。
籠城したところで物資は尽きる。援軍も望めない。
生き延びる術は、もはや城を捨てての逃亡のみ。それも絶望へ臨む、先の無い道だ。
ルトランスはそんな事態になれば、どさくさに紛れて己だけどこかへ消えかねない。というよりも、そのつもりなのだ。
我は風景を背にして、人間共の顔を見渡した。
端から端へ。
もう夕刻か。
不安な視線を投げ掛ける幾つもの顔が、薄く色付き始めた橙の光に照らされている。それらの眼差しは、相も変わらず、〈勇者〉への根拠のない信頼を窺わせ、あるかないかも定かではない希望を懸けている----ように、見えた。
「そう言えば----」
徐に、我は口を開いた。
「ずっと気になっていたことがある」
誰にともなく問う。
「魔物共は〈勇者〉の存在を知っていた。
それも明確な脅威の対象として警戒していた。
何故だ」
初めて顔を会わせた時、ドルギヌスは「やはり」と言った。
勇者がどういう素性の者か、それなりに詳しい事情を心得ている風でもあった。
それは何故か。
ルートが不審に我の顔を見る。こんな時にいったい何を言い出したのか。そう眼差しが訴えている。側にいるほとんどの顔が似たような心境で目を丸くして、ただ我を見詰める。そんな中、ミリリアが瞬きして不思議そうに首を傾げた。
「なぜって、当然です」
「そうか。言ってなかったかもしれない」
ノルンが手を叩きそうな顔で引き継いで、腰を伸ばした。
「これまでに召喚された勇者は、神さまに招かれてやってきた最初の一人だけではなくて、その後に何人もいたんだ。えっと……君で四人目、かな?」
「五人目です」
ルートが指折り数えたノルンを即座に否定する。
「魔物の勢力が強大になって世界を脅かすたび、人間が魔法によって別の世界から英雄となる人物を呼び寄せていたんです。だから魔物がその対応を研究して、警戒しているのは当たり前です」
感情を削げ落とした抑揚のない声で淡々と説明しながら、鳶色の眼差しが、我の真意を探ろうと不躾に表情を観察する。
我はうなずいた。
「なるほど。他力本願はこの世界の伝統か。
どうりで丸投げのはずだ」
「身も蓋もねぇ言い方だな」
「いちおう付け加えておくと、本来なら無関係の人に責任を押し付けるやり方に、疑問を感じている人もいるんだよ」
「自分の手で守れたらって、思いますよ」
ミリリアが己の拳を見つめてから、顔を上げた。悔しさを隠しもしない眼差しが見据えるのは、今にも押し寄せようとしている、魔物の群だ。いいじゃねえかそんなモン、とお気楽に肩をすくめるのはアルドだった。
我もまた、背後にある景色に目を向けた。
暮れていく空の青さと、橙に色付く雲の濃淡が鮮やかだ。
思考を遠く近く巡らせて、我は考える。
勇者という存在は、たくさんの他人の願いや祈りを託され、背負う存在なのだ。
今ならそれが分かる。
それは信仰を失った我が世界でも----矛盾しているのかもしれないが、同じだ。本来それを担うはずの神がいない分、その意味は大きいように思う。
それは、どれだけの重責か。覚悟か。
しかし--------。
我は口の端に、もう一度笑みをのせた。
この状況は不愉快だ。我が物を奪おうとする連中を目の当たりにして、腹も立つ。それでも満足に似た不思議な感情が、胸を満たしていた。
もはやこれまで、か。
笑みは少しで消えた。
遠く迫る身の程知らず共に目を留めたまま、我は忍びやかに言った。
「----ノルン、また呼べ」
我をこの世界に導いた魔法使いは、虚をつかれて返事を寄越した。瞬きする赤い瞳がまじまじと見つめるのが、視界の端に見えている。我は向き直った。翡翠の瞳を鋭くして、念の為、しつこく釘を刺しておく。
「いいか。絶対だ。忘れるな。
また、呼ぶのだぞ」
「???」
「それからルトランス」
「----はい?」
反対側にいるルートを振り返る。こちらもわけが分からず首を傾げている。
それに、小さくうなずいてみせる。
「後を頼む」
「シェロナさま?」
ルートの反応を確かめる気もなく、我は縁に手を掛け体を軽く持ち上げた。
両足で、その上に立つ。
全身に風を受け、腕を高く上げて背を伸ばす。
前を見据える。
背中に、多くの人間の視線を感じた。
しかし、
我にそれを背負う気などない。
いついかなる時も、何処にいても。
我が動くのは、己の為。
思い浮かべるのは、我が前に膝を折った勇者たちの無念。
果たせなかった、叶えられなかった想い。
我は----ごめんだ。
「まさか----キミ……」
息を飲む、ノルンの声を聞いた。
打つ手ならば、ある。
できる予感がある。
ただどれだけできるか----それは、賭けだ。
それでもみすみす我が物を奪われるくらいならば、一か八か、それに懸ける。
魔物の軍勢は着実に近付いていた。
ひとつ、深呼吸。
さて……。
慌てたノルンが、服の裾を引いた。
「待て! 無茶だ! そんなことをすれば君もただでは----!」
聞く気は無い。
我は天へ伸び上がるように、飛翔する。
ぱりんっ!
体の内側で何かが割れる音を、はっきり聞いた。
奥深くから、力が溢れた----。
シェロナの体が眩い光に包まれた。
手を伸ばしたノルンが弾かれて尻餅をつく。
ルートは目を腕で庇って、それを見た。
まるで大砲で打ち出したかのような勢いで、光が尾を引き天に昇っていく。
上空で、その光の中から頭を突き出し姿を現した生き物に、ルートは、この場にいた誰もが、言葉を失って目を見張った。
天空を目指して伸びた細く長い首に、小振りな頭。そこにある、二本の白い角。体は民家よりも遥かに大きい。それでいて鈍重な印象はなく、引き締まって力強い。山稜を思わせる背骨の線から滑らかに繋がる尻尾が、宙を流れる水のように垂れて、先へ行くほど細くなる。そのほとんどが黒い鱗で覆われていた。青や緑の光沢を持つ黒い鱗が、今は夕日に照らされて金色に光る。
虎の爪も、鷲のかぎ爪も、獲物を引き裂く残忍さを感じさせる。
しかし、虹を秘めた透明な羽を気持ち良さそうに目一杯ひろげ、天高く雄叫ぶ様はいっそ神々しい。ルトランスは、そう、思わされた。
自慢していただけある。
規模が違う。壮大だ。圧倒される……。
「あれが、シェロナさまの、ほんとうの姿……----」
意識せず、いつの間にか喉から溢れた呟きに、ルートは我に返った。そして気付く。
見上げて眺めるうちに、片足を退いていた。
見れば、杖を持つ手が小さく震えている。その視線の先では、アルドが顎の筋肉をなくしたような、これ以上ない間抜け面で突っ立っているし、両の拳を胸の前で握り締めたミリリアが、キラキラした眼差しを一心に上空に注いでいる。
目を奪われない者などいないのだ。
そしてルートの傍らでは、尻餅をついた姿勢のまま----もしかしたら腰を抜かして動けないのかもしれないが、ノルンがひとり、見上げる赤の瞳に不安を濃く滲ませている。
「無茶苦茶だ……!」
切実な声音を聞き取って、その意味を察したルトランスは、再び天を振り仰いだ。
あれは勇者シェロナの本当の姿だ。
だがこちらの世界では、人間の形にしかなれないはずだ。
どうやったのか。それだけでも、ものすごく不自然だった。
ただでは済まない。ノルンはそう言った。
どれだけの負担がシェロナの身体----ではない、恐らくその内にある魂にかかるのか。その上で、いったい何をするつもりなのか。この間、小さな火が出せるようになって喜んでいたばかりだ。大きな力は、まだ出せないはずなのに----。
しかしルートのそんな懸念は、
上空の勇者が文字通りに吹き飛ばしてみせた。
城にある二本の塔よりもさらに高く昇ったシェロナが、大きく息を吸い込む。
大気の中に含まれる微量な魔力を集めているかのように。整った顔の前に小さな光の粒が生まれ、みるみる大きく膨らみ、凝縮されて、落ちる太陽よりも眩しい輝きを放つ。
息を詰める。
次の瞬間。
空を行く魔物の軍団を、刹那の早さで光線が貫いた。
前方にいた魔物どころか末尾の先まで光は届き、灼き焦がす。
それはいつか言っていたように、不気味に蠢く暗雲さえ一息に吹き散らした。
そして、
光の一閃が角度を変える。
首の動きに従って、正面を真っ直ぐ貫いた光の線が空を渡り、大地に降り注ぐ。地上を進軍していた魔物も、為す術が無かったのは同じだ。中程を横薙ぎにした一閃に、隊列の足が止まった。微かな震動が城にまで伝わる。
空からは、魔物がはらはらと落ちる。
たったの一撃。
全滅ではない。
しかしそれだけで、魔物の軍勢は壊滅した。
実際の数は半分ほどか。無事だった者さえ立ち竦んだのか、直ぐには動けない。やがて残った後方の兵士から、思い思いの方向に散り散りになって逃げ出すのが、城壁の上からでも見て取れた。
彼らに、城を攻めるだけの意気などあるはずがない。
たったの、一撃だ。
----すごい。凄まじい。恐ろしい……。
ルトランスは、自分が呼吸していないのにやっと気付いた。するすると肩の力と共に息を抜く。心臓が嫌な強さで音を立てる。頭が真っ白だ。敵を蹂躙したその一撃に、ただただ釘付けになる。
そのシェロナが、
首をもたげてこちらを見下ろしたのが分かった。
ルートの胸がまた一つ、強く打つ。
さっきまで無邪気にパンをこねていたはずの人物に、恐れを抱いている……。ルートはどういうわけか後ろめたさを覚えたが、それでも体の芯----魂から湧き上がる恐怖ばかりは止め難い。
背筋に、汗が滲む。
そしてそんな感情さえ、あれには通用しないのだと改めて思い知らされた。もう充分、分かっていたような気がしないでもないが……。
ここからは、なんとか小さく見て取れる、蜂蜜色の瞳。
それにものすごい一撃を見舞った口元。
それらが、にやけている。----ように、ルトランスには見えた。
それも、得意げに。
どうだ、と胸を張って腕を組み、顎を上げてみせる。いつも通り無闇に自信満々のシェロナの姿が容易に、それはもう何度も見せられただけに簡単に想像できてしまう。
ルートは我が目を疑って瞬きしてから----、
----笑った。
額を押さえて顔を伏せる。ちょっと上面とか考えていられない。腹の底から込み上げる可笑しさに、肩を震わせる。声を出さないようにするので精一杯だ。呆れてしまう。どうでもよくなる。納得する。あの人はそういうヒトだった。あれはやはり、シェロナだ。
石の床しか見えない中、一頻り笑ったルートの周りで、一斉に歓声が上がった。
驚いて顔を上げると、強烈な一撃に静まり返っていた兵士たちも、城が守られた勝利を確信して大いに喜び、諸手を上げて勇者を褒め称えている。
暢気なもんだ。
にわかに騒がしくなった見張り台から、ルートは再び上空に目を向けた。
シェロナは尻尾を揺らして下を見て、降りて来ようとする素振りだ。
----あの巨体でここに降りる気か?
ルートはぎょっと周囲を見渡す。
しかし、
そのシェロナの大きな体が、
背景の雲と空の色を透かした。
白く淡く瞬いたかと思うと、空中に光の粒子をふり撒いて、呆気無く消えてしまう。
一同が見上げる中で、
宙に残った何かが真っ逆さま、落ちて来た。
途中まで首を真上に折り曲げて見ていたルートは、
「!」
慌ててその場を跳び退いた。
がしゃん!
と、音を立てて目の前に落下したそれは、服を着た木の人形だ。胴体の真ん中に真球の法玉が見えている。あの高さから落ちた衝撃で粉々に砕け散ってもおかしくないのに、最後に残った力のおかげか、木偶人形ごと包み込む何かにふわりと守られて無事だった。
シェロナの核になっていたものだ。
のぞき込んでよく見ると、法玉はぱっくりと二つに割れていた。
ノルンが遅れてはっと気付くと、慌てて傍らに膝を付き保護する。
あの一撃が限界だったということだ。ルートは床に手足を投げ出す人形を、なんとなく眺めた。あの一撃のためだけに無理をして本来の姿になって、城を守った。それはたぶん、自分の物を奪われたくなかっただけ。そういうコトに、やたらとこだわるんだよなぁ、あの人。ルートはため息をつく。
そうして、あの勇者はどことも知れない----否、〈天庭〉というらしい異世界に、帰ってしまった。やや、唐突に……。
誰もいなくなった空を見上げる。
日が山の端に落ちる。もう夜だ。あんなモノを見れば、いくら魔物だって恐れをなして警戒して、当分は攻めて来ないだろう。もう二度と来なければ良いのに、とルトランスはやっつけ気分に思う。
あーあ。あんにゃろう。また勝手に決めて、勝手に動いて----。
「頼む」と言えばいいとでも、思ってんだろうか。
安心したら、不満がむくむくと膨らんだ。眉を少々吊り上げる。
それにしても----、
「ったく。どこが植物なんだか」
届かない愚痴に、ルートは苦笑した。
なにはともあれ、いま逃げる理由はなくなった。というより、逃げられなくなった。そのたった一言を、この場にいた城の者たちに聞かれてしまったから。ならば仕方ない。もう少しくらい……----。
ルートはお決まりにくるりと杖を回して、しぶしぶ、調子よく、振り返った。
▽ ▽ ▽
不快な眠気に抗いきれず、まるで空へ溶け込むように意識を奪われる。曖昧な浮遊感。すとん、と座り慣れた椅子に腰を下ろしたような感覚。それらは全て、覚えのあるものだった。我はゆっくりと瞼を上げた。
目に映ったのは、天井から明るく清らかな光の降り注ぐ、白い石材の広い室内。正面には開け放たれた大きな窓があり、外の景色が見渡せる。
見慣れた場所だ。
ここは我が城。謁見の間。
十数に及ぶ段の上、そこに据え置かれた玉座に、我は頬杖をついて腰掛けていた。
「……」
手の平に目を落とす。
滑らかに動く指の先に、人間の皮膚など簡単に裂いてしまえる、硬く鋭い爪がある。その手の甲には純白の毛。豪奢な袖に隠された腕には青や緑の光沢を帯びる、黒く頑強な鱗。繊細な刺繍の施された重厚な布地の衣装は、あの世界に招かれた当初着ていたものだ。
胸に腹、太股を順に触って確かめる。
その視界も、さっきまでは曇り硝子の中にいたのではと思わせるほど、鮮明で透き通っていた。
なにより----尻尾がある。
玉座の脇から流れるような尻尾が見えて、それを思う通りに動かせる。薄曇りの空色をした先端が、ひこひこと持ち上がった。長らくご無沙汰していた友と----そんな者いないのだが、再会したような心持ちだった。
己の、身体だ。
我は……帰って来たのか。
「お目覚めでございますか」
両手で頭に生えた両の角を握って確かめていたところだった。
傍らから声を掛けられた。
目をやれば、一段低い所に立って恭しく頭を垂れる者がある。ココ・ラドだ。遥か以前より我の従者を気取って、あれこれと世話を焼いている奴だ。
我はまじまじとその姿を見た。頭から尾羽の先まで。鷹をそのまま人間にしたような格好のこやつを、ずっと付き纏われたせいで前は鬱陶しくも思ったものだが、今はどういうわけか久方ぶりのようで、懐かしくも感じられる。
こやつの言葉からすると、あちらの世界に行っている間、我は眠っているように見えたのか。ココ・ラドが頭を上げるのを待って、我は鷹揚に尋ねる。
「どのくらい、時が経った」
己が発した声さえあちらよりも重く響いた気がして、少し言葉に間ができる。
「十日余りでございます」
ココ・ラドは灰色の眼をうつむけたまま、白銀の翼を胸に添えて応じた。鋼のような露を含むその羽一枚一枚が、重ね合わされると亀の甲羅のような模様を浮かび上がらせる。ルトランスの腰をさらに低くしたような奴だ。その我慢強さがなければ----あらゆる意味でだが、これだけ長きに渡って我の側にはいられなかっただろう。相変わらず、下を向いて尖った嘴には可愛げがない。
それくらいの日数ならば、〈時の歯車〉で過ごした時間と変わらない。
召喚された時、我は何をしていたのだったか----。
目を前へ戻す。段を見下ろすその場所は、白く小綺麗に整えられた謁見の間。
そうだ。訪れた何者かの話を聞いていたのだった。
ここは我が好きに過ごすために造らせた城だ。というより、「城」という装飾物がほしかっただけなのだが。それ故、この場所で特別誰かに会う気など無かった。「謁見の間」と名が付いているが、そもそもこんな部屋は必要ないはずなのだ。
ところが、城を設計した人間の職人が、「あんたほどの王様が住む城だってのに、立派な謁見の間もないんじゃカッコがつかねェや」と主張して聞かず、強引に組み込んでしまった。我を相手に勝手を通しただけあって、見事な出来栄えだった。これでは文句もつけられない。----妙な話だが、我はこうして職人連中に丸め込まれる事が多い……。
こんな部屋があるから、勘違いした者共が我を訪ねてやって来る。
「主が寝入られる前に拝謁しておりました者は、シェロナ様がうつむいて黙り込んでしまわれたので、機嫌を損ねたと思ったのか、早々に退散致しました。
縄張り争いに関する嘆願の類のようでしたので、格別お耳に入れるような話ではないかと思われます」
我の考えを察したココ・ラドが、問う前に静かな声で説明する。
それならば我に会わせる前に追い返せば良いものを。せっせと世話を焼くくせに、そういうところでは融通を利かせない。こやつは己の判断で選り好みをして、後で我の怒りに触れるのを危惧しているのだ。
「それ以降も数人やって参りましたが、全て追い返しておきました」
----思い付いた。
顔を向けて、我は尋ねる。
「その中に、勇者はいたか」
わざわざ目を向けての問いに、ココ・ラドは首を傾けた。
「どうだったでしょうか……。
いなかったように思います」
「そうか」
曖昧な返答だ。そういうところも、こやつは大雑把だ。
まあいい。我は頬杖をつく。これまでできなかった分、尻尾をゆらゆら揺らして遊ぶ。
ココ・ラドがさらに首を逆側に傾げたのが目に入った。丸い目をより丸く、瞬きする。
「……いつになく、ご機嫌であらせられますね」
「…………」
本音を言えば----、
悔しくないわけではない。不本意でもある。最後の手段を取らされた。まだ道半ばだというのに帰る羽目になっている。危機にある我が物を他人の手に委ね、また……行けるかどうかも定かではない。
だが、悪くない気分だった。
忌々しい魔物共を蹴散らすことができて、すっきりした。我が姿、我が力を目の当たりにして、散々口煩くしてくれたルートたちも、少しは----いや、かなりのところ感服したに違いない。
なにより。
あの世界は、楽しかった。
だから、ひとまず、満足だ。
自然、口の端に笑みが浮かんだ。
「----おまえに聞かせてやれる話ができた」
「それは……なによりでございます」
不思議そうにしながらも、ココ・ラドは嘴を動かしてうなずいた。その瞳がほんのりと微笑むのが分かった。
さて。帰ったからには、いろいろと、やりたいことがある。剣術もその一つだが、まずなにより、本来の姿で体を思い切り伸ばしたい。空を飛び、力を振るいたい。
しかし。
全身が気怠かった。
やはり、無理が過ぎたようだ。
ここにあった肉体はなんの問題もないが、----その内にあるモノが、疲弊していた。精神を限界まで擦り減らしたように。ただでは済まない。その通りだった。借り物の器でも、壊せば死にも等しい傷を被る。肉体ではなく魂に。その負担が怠さとなって表れる。
休めば戻る。が、今は無理だ。
一歩も動きたくなかった。
我は深く、椅子に体を沈めた。
「少し眠る。
……今なら、万が一くらいならば、我に敵うかもしれぬぞ」
「お戯れを。万が一程度、勝てたところでなんの喜びもございません」
そう言って、ココ・ラドは灰色の眼で真っ直ぐに、我と目を合わせた。
「では、失礼致します」
どこまでも慇懃に深々と一礼する。それから空気を打って翼を広げた。滑らかに段を滑空し、その途中で、律儀にも人型から本来の巨大な鳥そのものの姿へと変化する。孔雀のような豪勢な羽の長い尾を引いて、窓から空へ飛び去っていった。
「……」
我は深く息を抜く。腹の上で軽く手を組み合わせる。
思い返すのは、あの世界。
再び行けるのは、いつになることやら。
長く待つのは苦手だが、楽しみを待つのは嫌いではない。
我が時は、人よりずっと永いのだ。
それにここでならば、その時間も苦にならない。
「----パンを、食べ損ねてしまったな……」
囁きは、だれもいない広間に落ちる。
いまは、眠る。
心地良い疲労感に、身を委ねて----。
我は瞼を閉じた。
了
この物語はこれでお終いになります。
誰かのおやつにはなれたでしょうか?
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




