四話
深夜の王城を抜け出した俺は、アルスハイム公爵邸へと戻っていた。
寝静まったはずの屋敷では、すでに信頼のおける老執事ハンスが、俺の指示通りに領地への引き揚げ準備を完璧に整えて待ち構えていた。
「閣下……! ご無事で! セリアお嬢様は一足先に、精鋭の近衛騎兵とともに西の街道を抜けられました。追手がかかる気配もございません」
「ご苦労だった、ハンス。こちらも話はつけてきた。……あの国はもう終わりだ」
「承知いたしました。私財および重要書類の運び出しは全て完了しております。残るは閣下のご出発のみです」
俺は公爵邸の執務室を見回した。
かつて寝たきりだった俺が、妹セリアの手を借りて運び込ませた何千、何万という国家決済の書類。
それらを【並列処理】で片っ端から読み解き、【解析】によって最適解を書き込んで送り返していた作業場だ。
机の上には、明日から処理されるはずだった隣国との関税条約案や、魔獣暴走の防衛予算案の羊皮紙が、山のように積まれている。
俺はそれらに一切手を触れることなく、ただ一枚の封筒を机の真ん中に残した。
中身は、先ほど玉座の間で叩きつけた金貨十五万枚の返還請求書の正本だ。
「ハンス、行くぞ。王都の私有財産はすべて換金したな?」
「はっ。アルスハイム名義の預金は、先ほど王都中央銀行からすべて回収し、領地の金庫へと転送いたしました。今、王都の銀行に残っているのは……勇者様が勝手に作った天文学的な借金と、王家の空っぽの国庫だけでございます」
「上出来だ。さあ、我が領地へ帰ろう」
夜明け前、薄い霧が立ち込める王都の城門を、俺を乗せた黒塗りの馬車が音もなく通過した。
城壁の衛兵たちも、かつて寝たきりだった公爵がすでに回復し、王都を見限って去っていくことなど気づく由もなかった。
翌朝。
王城の玉座の間は、前夜とは打って変わって、文字通りの地獄絵図と化していた。
「な、なんだこれは……! どういうことだ、宰相!」
国王エドワードの引き攣った声が、広間に響き渡る。
玉座の前の絨毯には、朝一番で財務省と軍務省から届けられた数百枚に及ぶ書類が散乱していた。
「へ、陛下……! 今朝方、隣国のガリア帝国より特使が到着したのですが……! 例年ならとっくに締結されているはずの不可侵通商条約の草案が、どこにも存在しないとのことでして……! 帝国側が『約束を反故にする気か』と激怒し、国境に軍を展開し始めております!」
「なんじゃと!? 条約の草案など、いつも自動的に出来上がって余の執務机に届いておったではないか! あれは誰が書いていたのだ!?」
「そ、それが……アルスハイム公爵閣下が、病床で処理されていたようでして……! 我々には、あのような難解極まる古代法と複雑な関税計算をまとめ上げる能力など……!」
「ええい、無能どもめ! ならば王家の金で解決せんか! 帝国に金を積んで時間を稼げ!」
「そ、それが……王宮の金庫は、すでに底をついております……!」
財務卿が青ざめた顔で平伏した。
「勇者レオン殿が魔王討伐の祝勝と称して、毎晩のように高級貴族クラブや裏カジノで豪遊されていたツケが、今朝一斉に王宮へ請求されまして……! さらに、アルスハイム公爵家が王都の銀行から全資産を引き揚げたため、取り付け騒ぎが起き、通貨の価値が大暴落しております!」
「金貨十五万枚……! アルスハイムめ、本当に請求書を回しおったのか……!」
国王は脂汗でベタつく顔を歪ませ、背後に控えていた勇者レオンを血走った目で睨みつけた。
「レオン! 貴様、公爵家の名義で八万枚も散財したというのは本当か!? 世界を救った英雄の器が、たかが女と酒とギャンブルに溺れることだったというのか!」
「ち、違います陛下! あれは……公爵家の妹が、俺の機嫌を取るために勝手に使わせた金で……!」
レオンは必死に言い訳を並べ立てるが、その声にかつての傲慢さは微塵もなかった。
何より、昨夜の夜会で暴露された「魔王討伐の手柄の横取り」と「王女派閥との密約」の噂は、すでに王都の貴族たちの間で急速に広まり始めていた。
『勇者が魔王を倒したというのは本当なのか?』
『本当は、死んだ魔術師の手柄を奪っただけなのでは……』
『公爵家の妹を捨てて王女に乗り換えようとしたらしいぞ』
貴族たちの冷ややかな視線が、針のようにレオンの全身に突き刺さる。
かつて浴びていた無条件の賛美は、一晩にして軽蔑と疑念へと変わり果てていた。
「おのれ……おのれ、アルスハイム……! たかが病み上がりの分際で、この俺をコケにしおって……!」
レオンは聖剣の柄を強く握りしめた。
だが、その聖剣に宿る神聖な輝きすら、昨夜から酷く鈍くなっていることに、レオン自身が気づき始めていた。
(なぜだ……? 聖剣の力が、うまく引き出せない……!? あの男が、俺に何を仕掛けたんだ……!?)
第3幕:約束の地、アルスハイム領へ
王都が混乱と破滅の渦に飲まれている頃。
俺の馬車は、アルスハイム公爵領の境界線を越えていた。
車窓から見える景色は、荒廃の兆しを見せる王都周辺とはまるで違っていた。
見渡す限りの黄金色に実る麦畑。
整備された石畳の街道を行き交う、活気あふれる商人たちの馬車。
そして遠くに見える、堅牢かつ壮麗なアルスハイム城。
「――お兄様!」
領都の正門に馬車が滑り込むと同時に、純白のドレスを翻して駆け寄ってくる人影があった。
セリアだ。
馬車から降りた俺の胸へ、セリアが飛び込んでくる。
ふわりと、妹の髪から甘い花の香りが広がった。
「お兄様……本当によかった……! ご無事で戻られて……っ!」
「言っただろう、心配いらないと。……よく無事にここまで辿り着いてくれたね、セリア」
俺が優しく抱きしめ返すと、セリアは俺の胸に顔を埋めたまま、安心しきったように小さく肩を震わせた。
前世で孤独に戦い、裏切られて命を落とした俺にとって、この腕の中にある温もりは、何物にも代えがたい宝物のように思えた。
(守るべきものが、ここにある。……前世の私にはなかった、確かな居場所だ)
セリアが涙を拭い、照れくさそうに顔を上げた。
「お兄様、領地の皆も、お兄様のお目覚めを心から喜んでいます! ……でも、王都のほうは本当に大丈夫なのですか? 王家や勇者様が、兵を差し向けてくるのでは……」
「来られるものなら、来ればいいさ」
俺は不敵に微笑み、城のバルコニーから領地全体を見渡した。
脳内で、【解析】と【並列処理】、そして神から授かった【万象の記録庫】が静かに起動する。
『領地内全域の魔脈スキャン完了』
『古代魔導結界の再構築プロセス開始。並列スレッド数:128』
『農地土壌の地脈最適化、鉱山資源の未発掘ルート解析完了』
前世で世界を救った最強の魔術理論。
そして、世界の全ログから引き出される失われた古代の英知。
それらを用いれば、このアルスハイム領を一国に匹敵する。いや、一国を遥かに凌駕する超魔導要塞都市へと発展させることなど、造作もないことだった。
「セリア。もうお前が誰かに頭を下げたり、理不尽に泣かされることは二度とない。このアルスハイム領を、世界で最も豊かで、誰も手出しできない絶対の楽園にして見せる」
「はい……! お兄様と一緒なら、私、何も怖くありません!」




