三話
床に這いつくばったまま、脂汗を垂らして震える勇者レオン。
その周囲を取り囲む貴族たちは、誰一人として口を開くことすらできず、ただ青ざめた顔で壇上の青年を見つめることしかできない。
「ひ、ぐっ……貴様……本当に、病み上がりか……?」
レオンが床の大理石を爪で引っ掻き、憎悪と恐怖の入り混じった呻き声を漏らす。
俺はそんな哀れな男を一瞥することもなく、隣で立ち尽くしていたセリアの華奢な肩を、そっと抱き寄せた。
「セリア」
「は、はい……兄様……」
セリアの瞳にはまだ涙の膜が張っていたが、そこには確かな安心と、兄を見上げる絶対の信頼が宿っていた。
「信頼できる近衛兵をつけさせる。直ちに王都を出て、アルスハイム領へ戻りなさい」
「えっ……? で、でも、兄様はお一人で……!」
「心配いらないよ」
俺はセリアの乱れた銀髪に優しく触れ、穏やかに目を細めた。
「お前がここに残れば、この男や王家が卑劣な人質に取ろうと画策するかもしれん。お前が安全な領地へ帰ることこそが、私の最大の助けになる。……領地でゆっくり休んで、私の帰りを待っていておくれ」
俺が優しく頭を撫でると、セリアは小さく唇を引き結び、公爵令嬢としての凛とした表情で頷いた。
「わかりました……! 兄様の言いつけ通りにいたします。どうか、ご無事で……!」
セリアが騎士たちに護衛され、堂々と夜会の広間を後にするのを見届けた俺は、ようやく足元のゴミへと冷ややかな視線を落とした。
「さて、レオン。お前が積み上げてきたツケの請求は、主犯である国王陛下も交えて行うとしよう。ついてこい」
俺は【解析】で最適化した不可視の魔力鎖を展開し、立ち上がることすら叶わぬレオンを拘束したまま、大広間を後にした。
目指すは、王城の最奥。玉座の間である。
深夜の王城、玉座の間。
緊急謁見の扉が開かれた先では、太った体を揺らす国王エドワードが、不機嫌極まりない顔で玉座に腰掛けていた。
周囲には第一王女や重臣たちが居並び、不審そうに俺を睨みつけている。
「アルスハイム公爵! 夜会を滅茶苦茶にし、あまつさえ世界を救った英雄殿を拘束して引きずり回すとは、乱心したか! 半年も寝たきりだった病人が、何様のつもりだ!」
国王の怒声が広間に木霊する。
魔力鎖を解かれたレオンは、王族の庇護を得たとばかりに、王女の背後へと逃げ込んでいた。
だが、俺の心は波一つ立たなかった。
「何様のつもりか、とおっしゃいましたか、陛下」
俺は懐から、一束の分厚い羊皮紙を取り出し、玉座の前の絨毯へと無造作に放り投げた。
バサリ、と重い乾いた音が響く。
「な、なんだこれは……?」
「これまでに我がアルスハイム公爵家から、勇者レオンおよび王家へ支払われた金銭の明細、および請求書です」
俺は感情を交えず、淡々と数字を突きつけた。
「妹セリアとの婚約に際して支払った結納金、金貨五万枚。さらに、勇者レオンが公爵家の威光と妹名義の信用を悪用して高級料亭、宝飾店、裏カジノで散財したツケ、金貨八万枚。合計、金貨十三万枚。利息を加え、金貨十五万枚の即時一括返還を請求いたします」
「な……っ!? き、金貨十五万枚だと!? 馬鹿な、勇者への支援は公爵家としての義務であろうが!」
狼狽する国王を、俺は冷ややかに見据えた。
「義務、ですか。我が妹を理不尽に侮辱し、公然と婚約破棄を叩きつけておいて、金だけは掠め取るおつもりですか? 盗人猛々しいとはこのことですな。世界の記録には、レオン殿が我が家の金で王女殿下に贈った首飾りの領収書まで、克明に残っておりますが」
王女が息を呑み、胸元の首飾りをとっさに手で覆い隠した。
レオンの顔からは、完全に生気が失われていく。
「ええい、無礼者め! たかが一公爵が王家を脅す気か! 貴様など、公爵位を剥奪して投獄してやるぞ!」
逆上した国王が立ち上がり、怒鳴り散らした。
その浅ましさに、俺は小さく息を吐いた。
「……やはり、救いようのない無能ですね。陛下、そして重臣の皆様。一つお聞きしたい。私が寝たきりで倒れていたこの半年間、この国の政務がなぜ滞りなく回っていたか、お分かりですか?」
「な、何を言っている……! 我が王家と優秀な重臣たちが、日夜国政を司っていたからに決まっておろうが!」
「違いますよ」
俺は静かに並列処理の起動ログを空間に投影した。
青白く輝く数千もの魔力文字が空中に展開され、巨大な国王決済印の複製を正確に描き出す。
「この半年間、貴方方が昼から酒を飲み、遊興に耽っている間……国王決済の書類、各地方の軍事配備、魔獣災害への予算編成、諸外国との貿易関税の調整に至るまで、そのすべてを寝たきりの私が【並列処理】と【解析】によって代行・処理しておりました」
「な……な、んだと……!?」
「妹が毎日、病床の私のもとへ必死に運んでいた書類の山です。貴方方は、自分が決裁した覚えすらない書類に、なぜか完璧な回答が記されて承認印が押されていたことすら、気づかなかったのですか?」
広間にいた重臣たちが、ガタガタと震え始めた。
心当たりがありすぎるのだ。
頭を抱えていた財政難の打開策も、隣国との国境紛争の解決案も、すべて「なぜか完璧な回答が書類に記されて戻ってきた」からに他ならない。
「すべて、私が裏で処理していたのです。この国が破綻しなかったのは、我がアルスハイム家の知恵と労力があったからにすぎない」
俺は冷徹に言い放ち、ゆっくりと背を向けた。
「ですが、それも今日で終わりです。我が家門と妹を踏みにじった国に、これ以上差し出す知恵も金もありません。明日以降の国家運営、予算編成、魔獣防衛計画……すべてご自身の手でおやりなさい」
「ま、待て! 待たんかアルスハイム公爵!」
「今後、王宮からの公務要請は一切拒否いたします。私はこれより、領地へ引き揚げさせていただきますので。……どうぞ、救世主たる勇者殿と優秀な王族の皆様で、せいぜい素晴らしい国造りをなさってください」
「ま、待てと言っておる! そんな書類、余には処理できん! 明日には隣国からの使節団が来るのだぞ! アルスハイムッ!」
背後から響く国王の情けない悲鳴と、絶望に青ざめる勇者たちの視線を背に受けながら、俺は一歩も足を止めることなく、玉座の間を後にした。




