二話
頭痛と共に、五感が急速に輪郭を取り戻していく。
鼻腔をくすぐる上質な薔薇の香油。
肌を包む、上等な絹織物の滑らかな感触。
そして、耳朶を震わせたのは、ひどく聞き覚えのある、虫酸の走る男の声だった。
「よって、貴様のような出来損ないとの婚約は、本日この場を限りに破棄させてもらう」
傲慢で、尊大で、周囲のすべてを見下しきった響き。
(……レオン……?)
反射的に目を開けた。
そこは、豪奢なシャンデリアが無数の光粒を降らせる大広間だった。着飾った貴族たちが遠巻きに息を呑み、中央の壇上へと好奇と嘲笑の視線を注いでいる。
俺自身は、上座に設えられた安楽椅子に深く腰掛けていた。手足の神経は通っている。だが周囲の腫れ物に触るような空気から察するに、俺はこの場で長い間、昏睡状態の病人として座らされていたらしい。
そして、俺のすぐ斜め前。
冷たい大理石の床に膝をつき、肩を小さく震わせている一人の少女がいた。
艶やかな銀髪に、吸い込まれそうな紫水晶の瞳。息を呑むほど整った顔立ちの少女は、純白のドレスの裾を強く握りしめ、溢れそうになる涙を必死にこらえていた。
(この子は……私の、妹……?)
魂が新たな器へと定着すると同時に、肉体の前主が残した記憶の濁流が流れ込んでくる。
俺の名は、シルフィード・フォン・アルスハイム。アルスハイム公爵家の若き当主。
そして床に膝をつく少女は、俺のたった一人の妹、セリア・フォン・アルスハイム。
「な、ぜ……ですか、レオン様……」
震える声で訴えるセリアの双眸には、深い困惑と絶望が宿っていた。
「我が公爵家は、魔王討伐から帰還された貴方様を、家門の総力を挙げて誠心誠意支えてまいりました。それなのに……なぜ、理由もなく突然の破棄などと……」
見下ろすのは、黄金の甲冑を纏った男。
魔王城での決戦から数年を経て幾分か大人びてはいるが、その顔に張り付いた浅ましい笑みは、かつて俺を背後から刺した男そのものだった。
「理由だと? 言わねば分からんのか、無能女」
レオンは冷笑を浮かべ、周囲の貴族たちへ見せつけるように大袈裟に両手を広げた。
「世界を救った英雄である俺の隣に立つ女は、相応の才覚と美徳を持たねばならん。貴様は魔術の才も平凡、社交界でも地味で目立たん。……それに何より、貴様の兄である公爵は、魔力暴走で半年も目を覚まさぬただの抜け殻ではないか」
周囲の貴族たちから、さざ波のように嘲笑混じりの囁き声が漏れる。
『やはりそうか』『公爵が倒れて以来、アルスハイム家も終わりだな』『英雄たる勇者様に逆らえる者などおらん……』
「落ちぶれたアルスハイム家など、今の俺には何の価値もない」
レオンは吐き捨てるように言い放った。
「俺に相応しいのは、王家の血を引く第一王女殿下のみ。貴様のような出来損ないに割く時間などないのだよ」
セリアは屈辱と悲しみに唇を噛み締め、ぽろぽろと大粒の涙を床に零した。
その雫が大理石に染みを作った、その瞬間。
俺の胸の奥で、前世から引き継いだ冷徹な殺意と、今世の兄としての激情が、完全にひとつに溶け合った。
(よくも、私の可愛い妹を泣かせてくれたな、小僧)
俺は静かに、内なる意識を極限まで研ぎ澄ませた。
脳内で、二つの絶対権能が音もなく起動する。
『思考スレッド分割【並列処理】開始』
『対象スキャン――【解析】起動』
『神聖通信プロトコル認証――【万象の記録庫】へアクセス』
視界が超高解像度の情報空間へと反転する。
レオンの周囲に渦巻く魔力の波長、身に纏う装備の構成式、そして――世界の記録庫から引き出される、直近数ヶ月のレオンの行動ログが、奔流となって俺の脳内へ流れ込んでくる。
(ふん……相変わらず粗雑な魔力操作だ。聖剣の出力に頼りきりで、体内の魔力循環は前世より退化しているな。そして……なるほど、そういうことか)
全ての真実を掌握した俺は、背もたれから静かに身体を起こした。
コツン、と。
上等な革靴が壇上の大理石を踏み鳴らす澄んだ音が、静まり返った広間に驚くほど静かに響き渡った。
「出来損ない、か。随分と威勢のいいことだな、偽りの勇者殿」
第3幕:公開処刑の幕開け
その場にいた数百人の視線が、一斉に壇上の椅子へと集まった。
「あ……兄様……!?」
セリアが涙に濡れた瞳を見開き、信じられないものを見るように俺を見上げた。
レオンもまた、忌々しそうに眉を跳ね上げる。
「あぁん? なんだ貴様。半年も眠りこけていた出来損ないの当主が、今更目を覚ましたか。妹の不始末を庇いに来たのか? 無駄だ、俺はすでに――」
「黙れ」
俺はただ一言、低く息を落とした。
それと同時に、俺の体内から漏れ出た極小の魔力を【解析】で最適化し、レオンの足元に敷かれた大理石の魔力伝導率を書き換えて、重力干渉の術式を無詠唱で編み上げた。
ドスンッ!!
「ぐ、おっ……!?」
レオンの全身に突如として十倍の重圧が叩きつけられ、男は無様に両膝を床へと打ち付けた。
床の大理石にクモの巣状の亀裂が走る。
英雄と崇められる男が、一言の制止と不可視の圧力によって、公衆の面前で強制的に跪かされたのだ。
「な、なんだ……!? 貴様、何をしたぁっ!?」
顔を真っ赤にして立ち上がろうともがくレオン。だが、俺が指先一つ動かさずに維持する魔力干渉を、力任せの男が破れるはずもない。
俺はゆっくりと壇上の階段を降り、セリアの前に立った。
怯える妹の頭にそっと手を置き、優しく微笑みかける。
「よく耐えたな、セリア。……もう大丈夫だ。お前の兄は、完全に目覚めた」
「兄様……兄様ぁっ……!」
すがりついてくる妹の温もりを感じながら、俺は冷徹な視線を、足元でもがく男へと落とした。
「さて、レオン。妹が無能だから婚約を破棄する、と言ったな?」
「き、貴様ぁ……! 俺を誰だと思っている! 魔王を討ち果たした世界唯一の救世主、神に選ばれし勇者レオン様だぞ! こんな無礼が許されると――」
「救世主? 笑わせるな」
俺は冷ややかに鼻を鳴らし、【万象の記録庫】から引き出した確定ログを、会場全体に染み渡る静かな声で読み上げた。
「お前が魔王討伐で放ったとされる伝説の第十階梯聖魔術【神聖なる破邪の極光】。あれはお前自身の力ではないな? 魔王の討伐直前、疲弊しきった背後から刺し殺した【名もなき大魔術師】が展開していた術式陣を、お前の聖剣で掠め取って横取りしたものだ」
ピキリ、と。
会場の空気が完全に凍りついた。
そして何より、足元で喚いていたレオンの顔から、サーッと血の気が引いていく。
「な……な、にを……でたらめを……!?」
「さらに言えば、先週の火曜日の深夜。王都裏通りの貴族館にて、王女派閥の筆頭補佐と密会を交わしたな? アルスハイム公爵の病死を偽装して領地を奪い、その財力をもって王女との婚姻を強行、いずれは王位を簒奪する……。その誓約書が、今もお前の懐の内ポケット、紫の封筒に入ったままだが?」
「な、ななな……っ!? な、ぜ、それを……貴様が……ッ!?」
レオンの喉仏が、小さく痙攣するように上下した。
向けられた指先の先にある絶対的な「真実」を前に、男の傲慢な肉体は、ただカタカタと震えることしかできなかった。




