19話
外なる邪神の騒動が収まり、帝都グランガリアが未曾有の平穏に包まれていた頃。
シルフィードとセリアは宮廷の豪奢な馬車を使わず、目立たない平服に身を包んで帝都の外縁区。平民街の市場を歩いていた。
「お兄様、見てください……」
セリアが足を止め、痛ましそうに眉をひそめた。
視線の先では、八百屋の店先で幼い少女が文字の書かれた羊皮紙の伝票を握りしめ、強欲そうな商人から頭ごなしに怒鳴りつけられていた。
「おい小娘! ここに『追加輸送費として銀貨三枚』と書いてあるだろうが! 字も読めねえなら文句言わずに耳を揃えて払え!」
「で、でも……お母さんは銀貨一枚だって……」
「証文が読めねえ馬鹿がほざくな!」
シルフィードが指先をかすかに振ると、微弱な風の魔導が伝票を巻き上げ、手元へと引き寄せた。
【解析】にかけるまでもない、稚拙な数字の書き換えと二重帳簿の跡。
「おい、てめえ! 人の伝票を」
突っかかってきた商人は、シルフィードの氷のように冷徹な眼光に射すくめられた瞬間、喉を詰まらせて硬直した。
「契約日の日付が二日改ざんされているな。品目コードの魔導認証印も偽造だ。帝国の商業法第十四条に違反するが……憲兵を呼ぶか?」
「ひ、ひぃっ……! も、申し訳ございません!」
商人は青ざめて伝票を投げ出し、脱兎の勢いで逃げ出した。
少女に正しい代金を持たせて帰したセリアは、真剣な眼差しでシルフィードを見上げた。
「お兄様……。帝国の魔導列車が走り、国庫が豊かになっても、文字や計算ができない平民の方々は、こうして騙され、不利益を被っています。魔導具の説明書が読めずに火災を起こす事故も多いと聞きました。……民草に学びの光を届けることはできないでしょうか」
「いい着眼点だ、セリア」
シルフィードは妹の柔らかな髪を撫で、口元を緩めた。
「かつて売国貴族どもから没収した資産と、ロドウェル家への追加課税で、国庫には莫大な余剰金がある。……帝国全土に『無償の初等学校』を敷設し、誰でも短期間で文字と計算を習得できる図解教材を開発しよう。平民全体の知的水準を引き上げることこそが、帝国の真の防壁になる」
「はい、お兄様! 私も教材作り、精一杯お手伝いいたします!」
その日の午後。
帝立魔導学院の大演習場の一角、セリアの専用サロンにて。
シルフィードは【並列処理】をフル稼働させ、平民の子供でも直感的に理解できる初等魔導算術ドリルの草案を高速で執筆していた。
隣では、エレナが「セリア様、印刷用の魔導インクの手配は我がロドウェル家にお任せを!」と誇らしげにお茶を淹れている。
だが、その和やかな空気を引き裂くように、サロンの両開き扉が乱暴に蹴り開けられた。
バァン――ッ!
「まあ、何事ですの!?」
エレナがティーカップを鳴らして立ち上がる。
入り口に立っていたのは、真紅の巻き髪を揺らし、孔雀の羽をあしらった派手なローブを羽織った少女だった。
後ろには、豪奢な礼服を着た留学生らしき取り巻き貴族たちを従えている。
ガリア帝国皇帝フリードリヒの次女にして、東方の魔導大国『エルトリア公国』へ長期留学に出ていた第二皇女。クラウディア・フォン・ガリアであった。
「久しぶりに帝都へ帰ってきてみれば、なんたる体たらくかしら」
クラウディアは扇子をパチンと閉じ、絨毯を踏み鳴らしながら歩み寄ってきた。
そして、机に向かってペンを走らせるシルフィードと、隣のセリアを蔑むように見下ろしたのだ。
「留学中に噂は聞いていてよ。父上やユリウス兄様が耄碌して、小国から逃げてきた病弱な元亡命貴族を、あろうことか『帝国最高宰相』に据えただなんて」
「クラウディア殿下……!?」
エレナが息を呑む。
クラウディアは机の上の教材の草案を一瞥すると、冷笑を浮かべてその羊皮紙を無造作に床へと払い落とした。
「何ですの、この下品で幼稚な落書きは。『平民向けの初等教育』? 吹き出してしまいますわ。文字や魔導は、我ら選ばれし皇族と高貴なる貴族だけの特権。畑を耕すだけの泥臭い豚どもに学を持たせるなど、国家予算のドブ捨て以外の何物でもありませんわ」
クラウディアの取り巻きたちも、同調して下品な嘲笑を漏らす。
「東方の先進国エルトリアでは、身分の序列こそが力の源泉。田舎貴族上がりの宰相殿は、小国の貧乏くさい発想しかできないのかしら? 身の程を弁えなさいな、エセ宰相」
サロンがしんと静まり返った。
セリアがぎゅっと唇を噛み締め、エレナが怒りで肩を震わせる。
だが、床に散らばった羊皮紙を見下ろすシルフィードの表情には、怒りの色すら浮かんでいなかった。
ただ、哀れな虫けらを見下ろすような、底冷えのする静寂。
シルフィードはゆっくりとペンを置き、立ち上がった。
そして、クラウディアの顔面を【解析】で静かにスキャンする。
『対象生体スキャン:第二皇女クラウディア・フォン・ガリア』
『【万象の記録庫】照合。東方エルトリア公国への留学実績ログを閲覧』
『解析完了。履修単位の八割が買収、エルトリアの豪商からの不当融資および贅沢三昧の通信記録を抽出』
「……貴様、余の顔をジロジロと見て何の真似ですの! 無礼者、皇女たるこのわたくしに平伏し」
「エルトリア公国への留学費用として、国庫から毎年支払われていた金貨二十万枚」
シルフィードが、抑揚のない声で静かに切り出した。
「……は?」
「そのうち八割は学問ではなく、現地の高級ドレスと宝飾品の買い漁り、および成績の改ざん賄賂に使われていたな。……さらに、エルトリアの貴族にいい顔をするため、帝国の新式魔導機関の基礎設計図の写しを横流ししているログまで、【万象の記録庫】には克明に残っているが?」
ピキリ、と空気が凍りついた。
クラウディアの顔面から、文字通りサーッと血の気が引いていく。
「な……な、ぜ……それを……」
「平民の教育を予算のドブ捨てと嘲笑ったな、クラウディア皇女」
シルフィードが一歩、石畳を踏み締めた。
その瞬間、サロン全体の重力が数倍に跳ね上がり、クラウディアと取り巻きの留学生たちが悲鳴を上げて床に膝をついた。
「己の遊興と見栄のために国家予算をドブに捨て、国を売っていた寄生虫のお前が、民の未来を語るなど……片腹痛いにも程があるぞ」
絶対の知性と権力を握る最高宰相の冷眼に射すくめられ、傲慢な皇女はガタガタと震え上がり、声すら失うのだった。




