第3章 「漫画だから」で何でも許されたわけじゃない
「昔は漫画だからで何でも済んだ」
ここまでの話だけ読むと、そんなふうにも見える。
でも、もちろんそんなことはない。
昔の作品にも、許される嘘と許されない嘘があった。ただ、その境界がジャンルごとにかなり違う。
『Dr.スランプ』なら、地球が割れても笑っていられる。『こち亀』なら、両さんがとんでもない商売を始めても、派出所が滅茶苦茶になっても、「今回はそういう話か」で読める。
作品そのものが、現実からかなり離れたところに立っているからだ。
『キャプテン翼』では、現実のサッカーではなかなか見ないような必殺シュートが飛び交う。『テニスの王子様』も、途中から「これは本当にテニスなのか」と言いたくなるような世界へ行く。
でも、それを理由に作品全体が成立しなくなるわけではない。
読者は途中で「この作品のスポーツは、このくらいまでやる」とルールを理解し、そこを受け入れて楽しむ。
ところが、同じことを別の部分でやると許されない。
一番分かりやすいのが、推理物だと思う。
『名探偵コナン』では、コナンの行く先で毎週のように事件が起きる。『金田一少年の事件簿』でも、旅行へ行けば事件、学校へ行けば事件、とにかく事件に遭遇する。
現実の遭遇率として考えたら、とんでもない。
でも、そこへ本気で文句を言うのは少し違う。
推理漫画なのだから、事件が起きなければ始まらない。「今回は何も起きませんでした」で終わったら困る。
だから、事件遭遇率の高さはお約束として受け入れる。
一方で、犯人のトリックが説明できなかったら話は別だ。
「犯人は密室から脱出しました。方法は不明ですが犯人です」では困る。
そこは説明してくれないと、推理物として成立しない。
つまり、**米花町で毎週のように事件が起きてもいい。でも犯人のトリックには筋を通してほしい。**
この違いが、今回考えている「リアリティ」の正体にかなり近い気がする。
現実的かどうかではない。
作品が「ここは信じてください」と求めている部分は信じる。その代わり、「ここはちゃんと考えてあります」と約束した部分では筋を通してほしい。
読者は、全部に同じ種類のリアリティを求めているわけではない。
『こち亀』に警察行政の厳密さを求めても仕方がないし、『テニスの王子様』に現実の高校テニスと完全に同じ動きを求めても、おそらく作品の楽しみ方が違う。
でも、その作品の中で決めたルールが突然変われば気になる。昨日まで絶対にできなかったことを説明もなくやれば「あれ?」となるし、キャラクターがそれまでの性格では絶対にしないような行動を、作者の都合だけで始めても違和感が出る。
世界がおかしいことと、話がおかしいことは別なのだ。
漫画だから嘘はついていい。
むしろ、嘘をつかないと始まらない作品はいくらでもある。
ただし、どこで嘘をつくかは作品ごとに決まっている。そして読者も、無意識にそれを覚える。
事件遭遇率は気にしないが、トリックは気にする。必殺シュートは受け入れるが、試合中に突然ルールが変われば気になる。宇宙人が家に住むのは受け入れても、昨日まで親友だった奴が何の理由もなく突然裏切れば気になる。
この「どこなら嘘をついていいか」という約束が、作品と読者の間にある。
もちろん、その境界はかなり曖昧だし、人によっても違う。
俺が平気なご都合主義を別の人は許せないかもしれないし、その逆もある。
それでも、ジャンルごとに「この辺は気にしないで楽しもう」という共通認識があるのは確かだと思う。
だから今回の話は、「昔は雑だった」という話ではない。
昔にもちゃんとリアリティはあった。ただ、読者がリアリティを求める場所が違った。
その違いを、もう少し見ていきたい。




