第2章 異能は事件ではなく、生活になった
昔から「日常+異能」はあった。
ただ、時代が進むにつれて、その異能の置き方が少し変わってきたように思う。
「変な奴がやってきた」というところから始めるのではなく、最初から異能が存在する世界として描く作品が増えていく。
『魔女の宅急便』のキキは魔女であり、空を飛べる。でも、そのこと自体を世界中が驚くわけではない。
魔女という存在は知られていて、13歳になれば親元を離れて修行するという習慣まである。
しかもキキがやることは、世界を救うことではない。
宅急便である。
空を飛べるなら、それを仕事に使えばいい。
異能が完全に生活へ落ちている。
『天地無用!』では、宇宙人や宇宙船やとんでもない存在が次々に出てくるのに、物語のかなりの部分は家の中で飯を食ったり、騒いだり、日常生活を送ったりしている。
宇宙規模の設定と、妙に生活臭い日常が同居している。
『妖怪アパートの幽雅な日常』では妖怪や幽霊がいる場所そのものが生活空間になり、『ふらいんぐうぃっち』では魔女であることより、青森で暮らす日々の方が前へ出てくる。
『小林さんちのメイドラゴン』に至っては、ドラゴンがメイドをやっている。
文字だけ見ると何を言っているのか分からない。でも作品を見ていると、だんだん「そういう家族」に見えてくる。
この辺りまで来ると、異能は「大事件」ではなく「生活条件」になっている。
妖怪がいる。魔女がいる。ドラゴンがいる。
そこを驚くところから始めるのではなく、「じゃあ、その状態でどう暮らす?」を描く。
その流れを考える時に、俺は『亜人ちゃんは語りたい』が結構重要だと思う。
この作品では、ヴァンパイアやデュラハン、雪女といった「亜人」が普通の社会の中に存在している。
しかも、彼女たちの特徴は必殺技みたいには扱われない。
体質に近い。
ヴァンパイアにはヴァンパイアなりの生活上の事情があり、デュラハンにはデュラハンだからこその不便がある。本人にとっては、世界を変える能力というより、自分の身体の特徴である。
ここから『ルリドラゴン』を見ると、かなり近いものを感じる。
角が生え、火を吐き、ドラゴンの特徴が少しずつ出てくる。でもルリが気にしているのは、「この力でどう戦うか」ではない。
学校へ行けるのか、周りはどう見るのか、本人はどう付き合っていけばいいのか。
異能を「能力」ではなく、「本人がこれから付き合っていく体質」として描いている。
これは、昔の「変な奴が日常に入ってきた」とは少し違う。
異能を持っている本人の側から、日常を見る。
身体の違いがあり、周囲と少し違う。でも、その状態で生活していかなければならない。
異能そのものがドラマなのではなく、異能を持った人間が普通に暮らそうとすることがドラマになる。
『となりの妖怪さん』のように、人間と妖怪が最初から一緒に暮らしている世界もある。ここまで来ると、妖怪がいることを説明するより、「妖怪も人間もいる町で何が起きるか」の方が重要になる。
一方で『夏目友人帳』のような作品は少し違う。
妖怪はいる。でも全員に見えるわけではない。
異界は日常の中にあるけれど、普通の人間には見えない裏側として存在する。今回の「日常+異能」のすぐ隣にあるタイプだと思う。
こうして並べてみると、異能そのものが変わったというより、物語が異能を見る距離が変わってきたように思える。
昔は「こんな変な奴がやってきた」が面白かった。その後、「変な奴がいる状態で暮らす」が面白くなり、さらに「本人にとっては変でも何でもない。これが自分の身体なんだ」というところまで近づいてきた。
もちろん、年代順に作品がきれいに一方向へ進化した、なんて単純な話ではない。昔にも繊細な作品はあっただろうし、今でも「異能が出た! 戦え!」という作品はいくらでもある。
ただ、「異能があること」より「異能がある状態でどう暮らすか」を物語にできる範囲は、かなり広がった。
『ルリドラゴン』を読んで俺が引っ掛かったのも、たぶんそこだった。
角が生えたことより、その翌日の方を丁寧に描いている。
そこが、今回この話を考え始めたきっかけだった。




