第9章 昔なら省いたところが、今は物語になる
ここまで色々な作品を見てきた。本編最後に、改めて『ルリドラゴン』へ戻ってみたい。
ルリの頭に角が生え、火を吐き、ドラゴンの血を引いていることまで分かる。設定だけ見れば、十分に大事件である。
でも『ルリドラゴン』が面白いのは、その大事件そのものを大きく描かないところだと思う。
角が生えた後も、ルリは学校へ行く。
友達はどう接するのか、本人はどう思うのか、授業は受けられるのか、周囲は怖がるのか、それまで通り話しかけてくれるのか。さらに本人自身も、自分の身体に起きている変化とどう付き合っていくのかを考えていく。
物語が見ているのは、そちらの方だ。
昔の漫画なら、ここをもっと簡単に飛ばしていたかもしれない。
「ドラゴンの血を引いていました。そういう体質です」
それだけで次の展開へ進んでも、十分に作品は成立したと思う。
むしろ昔なら、角が生えたことそのものを使ってギャグをやったり、能力を使って事件を解決したり、そのまま別の展開へ進んだ可能性もある。
でも今は、その「次へ進むまでの間」そのものが物語になる。
これが今回ずっと考えてきた変化の、一番分かりやすい形なのかもしれない。
『パトレイバー』では、巨大ロボットが存在することより、それが社会に普及したらどうなるかを描いた。
工事現場で使われ、事故が起き、犯罪にも使われる。だったら警察も対応する必要がある。
昔のロボットアニメなら背景として飛ばしていたかもしれない部分を、物語の中心に持ってきた。
『シン・ゴジラ』も同じだ。
ゴジラが出たら自衛隊が出動し、攻撃し、それでも効かなければ次の作戦を考える。それだけでも怪獣映画として十分に成立する。
ところが『シン・ゴジラ』では、その前後にある大量の「面倒なこと」を描いた。
誰が判断し、誰が責任を持ち、どう避難させ、どの組織が動くのか。さらに海外との調整まで必要になる。
怪獣映画なら省略しても成立する部分を、あえて省略しない。そして、その省略しなかった部分が面白い。
『ルリドラゴン』で起きていることも、規模は違うけれど同じように見える。
怪獣に対する国家の反応ではないし、巨大ロボットに対する警察の反応でもない。
もっと小さなところを見る。
クラスメイトがどう思うのか。先生がどう接するのか。家族はどうするのか。そして本人は、自分自身の変化をどう受け入れていくのか。
そのくらいの距離で、異能に対する周囲の反応を描く。
でも、その小ささが大事なのだと思う。
俺たちは巨大な社会制度だけにリアリティを感じるわけではない。むしろ日常物なら、友達がどんな顔をするかの方がずっと重要になる。
頭に角が生えたことより、次の日に教室へ入った時の空気の方が気になる。
ここで、第0章で感じた違和感に戻る。
「これ、学校はどうするんだ?」
最初は、俺自身が作品に現実的な説明を求めているのかと思った。
でも、たぶん少し違う。
学校がどういう規則を作るのかを知りたいわけではないし、行政がどう判断するかを知りたいわけでもない。
俺が見たいのは、その状況になった人間がどう反応するかだった。
友達や先生はどう接するのか。そして本人自身はどう受け止めるのか。
そこが不自然だと気になる。
逆に、そこに納得できれば、ドラゴンの血を引いていること自体は案外あっさり受け入れられる。
つまり、俺が求めていたリアリティは物理的なものではなかった。
心理的なリアリティだった。
『パトレイバー』では社会制度のリアリティが重要になり、『シン・ゴジラ』では国家や組織のリアリティが重要になる。そして『ルリドラゴン』では、人間関係や自己認識のリアリティが重要になる。
作品によって、リアルにしなければならない場所が違う。
ここを混ぜると、「現代の作品は昔よりリアルになった」という雑な話になってしまう。
そうではない。
リアルに描く場所が増えた。あるいは、昔なら背景として省略していた場所を、物語として拾うようになった。
俺はこっちの方が近いと思う。
昔なら一行で終わったことが、今では一話になる。昔なら読者が勝手に補っていたことを、今では作品が丁寧に描く。
その結果、異能そのものより、その異能と付き合って暮らす人間の方が面白くなる。
これは「日常+異能」という作品にとって、かなり大きな変化だと思う。
異能が出た後に、日常がどう変わるか。
そこから話が始まる。
そして面白いのは、ここまで来ても大嘘そのものは全然小さくなっていないことだ。
ドラゴンはいるし、角は生えるし、火も吐く。そこは昔と同じくらい無茶でいい。
変わったのは、その後だ。
「そんなことが起きたら、人間はどうする?」
そこを物語にするようになった。
だから現代の作品がリアルになったというより、昔なら省略していた空白にカメラを向けるようになった、と言った方がいいのかもしれない。
ただし、ここまで丁寧に描けばいいなら、何でも細かく説明すればいいのかというと、もちろんそんなことはない。
俺はWeb小説を読んでいて、逆の意味で何度も引っ掛かっている。
そこまで説明しなくていい。早く先へ進んでくれ。
そう思うこともかなり多い。
リアリティを求める一方で、説明が増えすぎると今度はテンポが死ぬ。
結局、最後に残るのはそこなのだと思う。
どこを描き、どこを飛ばし、どこを「そういうもの」として読者に預けるのか。
その選び方こそが、今の作品ではますます重要になっている。




