第6話 同盟軍の勝利
塾内に、これまでにない激震が走っていた。
いつもなら整然としているはずの講師室が、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
「火野先生が、本当に……?」
「ああ、本部の監査が入ったらしい。他塾への紹介料ビジネス、真っ黒だったそうだ」
通りかかった廊下で、講師たちのひそひそ話が耳に飛び込んでくる。
あのアイスピックのように鋭い眼光で、僕たちを「商品」として値踏みしていた軍師。
その本陣が、内部から音を立てて崩壊しようとしていた。
(帆夏さんが言っていた通りだったんだ)
いつも冷徹に采配を振るっていた火野の姿は、そこにはない。
周囲の塾生たちの顔には、不安と、どこか重しが取れたような解放感が入り混じっていた。
僕は複雑な感情を抱きつつ、配られた最新の模試結果に目を向けた。
***
「……えっ」
そこには、今まで見たこともない文字が躍っていた。
第一志望判定――B。
今までC以上になったことがない崇志には、考えられない結果だった。
あと数点、ほんの数問の正解があれば「A」に手が届く位置。
震える僕の肩を、隣から勢いよく叩く手が。
「やったぁ! 崇志、すごい! すごいよ!」
帆夏が、飛び跳ねるようにして僕の両手をぎゅっと握りしめた。
至近距離で弾ける、ひまわりのような笑顔。
握られた手のひらから、彼女の熱がダイレクトに伝わってくる。
「あ、ありがとう。帆夏さんのおかげだよ……」
ドクンドクンと、心臓がうるさい。
B判定の喜びを、彼女との接触による動悸が上書きしていく。
(これが……僕たちの戦果なんだ)
火野は「戦うな、避けろ」と言い続けた。
けれど、僕たちはこの場所で、逃げずに戦って勝利を掴み取ったんだ。
***
だが、不意に脳裏をよぎるのは、火野が最後に遺した猛毒。
「君は彼女の邪魔だ」という呪いの言葉だった。
僕は潤んだ瞳で見つめてくる彼女から、少しだけ視線を逸らした。
「……でも、帆夏さんは大丈夫なの?」
「え? 何が?」
「僕なんかに教えていて、自分の勉強時間が削られたんじゃないかって……」
不安が言葉になって漏れ出す。
帆夏は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにいたずらっぽく笑った。
「大丈夫だよ。私、人に教えるのが一番覚えられるんだ。
最強のアウトプット法でしょ?」
そう言って彼女が差し出した成績表には、当然のように「A」の文字が並んでいた。
圧倒的な格差。
けれど、彼女は僕を突き放さなかった。
「僕がいたら、邪魔じゃないの?」
「邪魔だなんて。崇志がいないと、困るのは私の方だよ」
帆夏は少しだけ声を落として、誰もいない自習室の奥を見つめた。
「ここではみんな競争相手、協力して勉強するなんてとても無理。
……私、この塾でずっと独りぼっちだったんだ」
エースとして君臨していた彼女の、初めて見る弱さだった。
「だから、崇志みたいに隙だらけで、無防備な人は貴重なの」
「無防備って、言い方」
僕は思わず突っ込んだが、胸の奥がじんわりと熱くなった。
火野の策略によって、互いを敵だと思い込まされていたこの場所で、
僕たちは互いの欠落を埋め合う「同盟軍」になっていたんだ。
***
塾の裏口。
段ボールを一箱抱えて、夜の闇に消えようとする男の背中があった。
「……火野先生」
振り返った火野は、眼鏡を押し上げ、憑き物が落ちたような顔で僕たちを見た。
「桜井くんに、柊木くんか。最後までノイズのような二人だったな」
その声には、以前のような冷徹な威圧感はなかった。
どこか寂しげで、それでいて清々しいような不思議な響き。
「最後に、これを教えておこう」
火野はいつものように、空中に文字を書くような仕草を見せた。
「『上下、欲を同じくする者は勝つ』
――目的を同じにするものは、必ず勝つ……孫子の言葉だ」
火野は自嘲気味に、薄く笑った。
「私は君たちを管理し、競争させることで成績を上げようとした。
だが、君たちは自ら『同盟』を組み、信頼を共有することで私の計算を超えた」
「先生……」
「君たちの信頼という布陣に敗北したよ……皮肉なものだな」
火野は、自分を納得させるように小さく頷いた。
「二人で力を合わせて、ガンバレ。
……志望校合格を祈っているよ」
「先生は?」
「私ぐらい実績があると、どこの塾でも引っ張りだこでね」
火野はそれだけ言うと、一度も振り返ることなく、駅へと続く夜道に消えていった。
***
軍師の去ったドアのすき間から、秋の気配を含んだ夜風が吹き抜けていった。
けれど、僕の隣には帆夏がいる。
「行こうか、崇志」
「うん」
もう『どう避けるか』を考える必要はない。
僕たちは、自分たちの足でこの戦場を歩き始めている。
(見ててくれよ、火野先生。
僕たちは自分たちのやり方で勝利してみせる)
夏期講習が終わろうとしていた。




