第7話 進むべき地平
八月の終わり。
塾の事務局は、いつになく静かだった。
かつてここを支配していた冷徹な軍師、火野の姿はもうどこにもない。
崇志は、受付のカウンターに一枚の書類を置いた。
「正式入校届」の氏名欄には、自分の名前が力強く書き込まれている。
親に「行け」と言われて、怯えながら足を踏み入れたのが一ヶ月前。
火野という毒を含んだ男に出会い、翻弄され、裏切られた。
それでも、崇志はこの場所に残ることを自分の意志で選んだ。
――これからが、本当の闘い。
「確かに受け取りました」
事務員は、キーボードをカタカタと鳴らして、書類を打ち込んだ。
崇志には、それが進軍を告げる鼓のように聞こえた。
***
自習室へ向かい、中を見渡す。
いつもの席に帆夏が座っている。
混乱の余波が残る塾内でも、彼女のペン先は一瞬も止まっていなかった。
ノートには、緻密な計算式が戦果のようにびっしりと書き込まれていく。
「ここ空いてる?」
帆夏は少し顔を上げてにっこり微笑む。
「おはよう、崇志。
……正式に入塾したんだって?」
「うん。これからもよろしく、帆夏さん」
「ふふっ、こちらこそ。よろしくね、崇志」
ここに赤本を積み上げ、自分を守るための城壁を築いたことが、
ずいぶんと昔のことのように感じる。
崇志はふと思い立って口を開いた。
「ねえ、帆夏さん。席……これからも隣でいいかな?」
それは単に座る場所の確認ではなかった。
これからも戦友として、隣で支え合い、競い合いたいという決意の表明だった。
帆夏は一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐにペンを置き、今までで一番柔らかい笑顔を彼に向けた。
「当たり前でしょ。崇志は私の一番の戦友なんだから」
その言葉が、崇志の胸の奥にある最後の一片の不安を溶かしていった。
***
ペンケースを開くと、ひらりと一枚の付箋が落ちた。
――あの時の付箋だった。
帆夏は、それを指でつまみ上げ、まじまじと見る。
その後、何かを書き込むと、「はい」と言って崇志に渡す。
崇志は、バツが悪そうにそれを受け取る。
裏返すと、「ガンバレ」と書かれていた。
驚いて帆夏を見ると、にっこり笑って親指を立てる。
崇志も応えるように、親指を立てて返した。
***
恋は、集中を乱す火攻めなどではない。
彼女の隣にいることは、自分を一番強くする最高の「地形の利」なのだと崇志は確信した。
顔を上げると、窓の外は燃えるような夕焼けに染まっていた。
夏の終わりの空は、どこか切なくて、それでいて力強い色をしている。
(火野先生。あんたの教えは、決して間違ってなかったよ)
眼鏡の奥で冷たく笑っていた、あの軍師の顔を崇志は思い出す。
火野は技術を教えてくれたが、一番大事なことを忘れていたのだ。
『地を知り、天を知れば、勝ち乃ち窮まらず』
――自分の力を知り、環境を知れば、どんな困難な戦いでも可能性は無限に広がる。
崇志は志望校合格も、彼女への気持ちも、どちらも諦めない。
現実を見据えながら、同時に理想を追い求める。
それこそが、彼がこの夏に見つけた自分だけの兵法だった。
「攻め落としてみせる。最高の春を掴むために」
***
塾の帰り。
少しだけ風通しの良くなった階段を、二人は並んで降りていく。
建物の外へ出ると、まだ熱を帯びた夜風が頬をなでた。
ビルの合間からは、鋭い光を放つ秋の月が顔を出している。
季節は確実に、新しい戦いのステージへと移り変わろうとしていた。
「明日から二学期。いよいよ受験まっしぐらだね、崇志」
「ああ。攻め落とそうぜ、第一志望」
「うん、一緒に頑張ろう!」
二人の行く先を、街灯の光がやさしく照らしていた。
その先には、進むべき地平が広がっている。
(第10篇 地形篇 完)
本作では、孫子の「地形篇」の考え方を、受験と恋に重ねて描いてみました。
戦場の状況を見極めるための兵法ですが、「どこで戦うか」「どこで退くか」という判断は、
受験や人間関係にも通じるものがあるのではないでしょうか。
とはいえ、兵法書の一篇を恋愛の物語に落とし込むのは思っていた以上に難しく、
狭い本棚の通路を隘路に見立てたり、赤本の壁を城壁と呼ぶ無茶なこじつけも……。
孫子は、
『地を知り、天を知れば、勝ち乃ち窮まらず』
――自分の力を知り、環境を知れば、どんな困難な戦いでも可能性は無限に広がる、と説きます。
崇志と帆夏は、険しい場所も、逃げ場のない隘路も、
二人で“高陽の地”に変えて乗り越えていきました。
恋は受験の敵なのか、それとも味方なのか。
その答えはきっと一つではありませんが、崇志たちなりの「地形の見方」を、
この物語で描けていれば嬉しいです。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
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また次の物語でお会いできれば幸いです。




