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第5話 やさしさと甘え

崇志と帆夏の間にあったぎこちない空気はもうない。

流れるのは、A判定という一点のみを見据えた、静かで濃密な「熱」だった。


「ここはね、この角から対角線に一本、補助線を引くの」


「……あ、本当だ。隠れていた相似が見えてきた」


帆夏がノートの余白に、鮮やかな線を引く。

その指導は驚くほどロジカルで、霧が晴れるように難問の正体が暴かれていく。


(すごいな。あんなに苦戦してた問題が、こんなに簡単に解けるなんて……)


以前は気になって仕方がなかった彼女のシャンプーの香りも、今は気にならない。

戦場を共にする戦友の鼓動のように、集中力を高めるリズムへと変わっていた。


火野が「険形」と呼んだこの場所は、二人で手を取り合うことで、

敵を見下ろす「高陽の形」へと塗り替えられていた。


(これこそが、僕たちの拠点だ)


二人は今、共通のゴールへ向かう「同盟軍」となっていた。




***




ふと、帆夏が英語のテキストに、一枚の付箋を貼った。

そこには、丸っこい字で『タカシ』と書かれている。


(えっ、これって……?)


崇志は、資料コーナーでくっついたあの付箋を思い出した。

ドクン、と心拍数が跳ね上がる。


「ねえ、帆夏さん。その付箋って……」


恐る恐る尋ねる崇志に、帆夏は不思議そうに瞬きをした。


「これ? ああ、後で崇志に聞こうと思ってたところ。

ほら、こっちは『教科書』、こっちは『先生』」


帆夏はあっさりと、他にもいろいろな文字が書かれた付箋の束を見せてきた。


――単なる質問リストの分類だったのだ。


「それが、どうかしたの?」


「いや、なんでもない」


(……ただの、メモだったのか)


あの付箋を、『自分への恋愛成就のまじない』と勘違いして、

密かに期待していたことが急に恥ずかしくなる。


そして、それをお守りのようにペンケースの奥に大事にとってあることを思い出す。


(恥ずかしすぎる。見つからないうちに処分しなければ……)




***




数時間の猛勉強の末、二人は同時にふう、と息を吐いた。


「崇志、これ。糖分補給」


帆夏がそっと差し出したのは、小さなグミのパックだった。

受験生に人気で、集中力が高まるのだという。


「あ、ありがとう」


「ハートのグミ?」


「えっ? あっ、間違えた! こっち、こっちだから!」


顔を真っ赤にした帆夏が、ひったくるように奪いとると口の中に放り込む。

代わりに「レモンソーダ味」の地味なグミを押し付けてくる。


(間違えたって……今度はグミ占い?)


耳まで朱に染めて問題集に没頭し始める彼女。

崇志は口に入れたレモンソーダ味の刺激を噛み締めながら、少しだけ胸を弾ませた。


(やっぱり、あの付箋は……まだ持っていよう)


そんな二人の様子を、じっと見つめていた火野が苦々しそうに言う。


「あまりはしゃぐのは、塾の風紀が乱れるからな」


火野の言葉には、今までのような心配する素振りは消えていた。




***




数日後。

小テストの結果が返ってきた。


(やった……! 自己最高得点だ!)


あれほど苦手だった数学で、信じられないような点数を叩き出した。

帆夏のおかげだ、と心から感謝する。


だが、そんな喜びを打ち消すように、火野からの呼び出しがかかった。


「さすがは私の見込んだ通りだ。君ならやれると思っていたよ、桜井くん」


面談室で崇志を待っていたのは、気味の悪いほどの笑みだった。

手のひらを返したような態度に、崇志は呆れを通り越して寒気を覚える。


(この笑顔……。僕の努力を喜んでるんじゃない)


帆夏から聞いた「紹介料」の話が脳裏をよぎる。

火野にとって、この点数は崇志という商品の「付加価値」に過ぎないのだ。


「いいかね、桜井くん。今の君の学力なら、この大学が適正だ。間違いなくA判定が出る」


火野が差し出したのは、崇志が一度も口にしたことのない大学のパンフレットだった。


「僕の知っている講師がやっている塾でな、受験対策も充実している」


(帆夏さんが言っていた通りだ。こいつ、本当に僕を売り払う気だ)




***




反応のない崇志を見て、火野は話題を変えた。


「今は彼女に教えてもらって成績が上がっているようだが、いつまで続ける気だ?」


火野の言葉が、ナイフのように崇志の良心をえぐる。


「君が彼女に教わっている一時間は、彼女が難問を三問解けるはずの時間だ。

君がここに居座ることは、彼女の邪魔をしていることに他ならない」


「僕が……邪魔……?」


「そうだ。彼女は優しいから、君を見捨てられないだけだ」


火野はホワイトボードに向き直り、力強く文字を書き殴った。


「『支形しけいには、敵利をもって我をいざなうといえども、づることなかれ』――困難な場所では、敵の甘い誘いに乗って、攻めてはならない」


「今、彼女のやさしさに甘えたら、二人とも共倒れするぞ」


(分かってるよ。そんなこと、自分が一番分かってるんだ……)


崇志は、何も言い返せなかった。




***




自習室に戻ると、そこには何も知らない帆夏が、次の問題集を広げて待っていた。


「あ、お帰り。次、やる?」


明るく笑いかける彼女。

その笑顔に救われながらも、崇志の胸には火野の言葉が鋭い棘となって突き刺さっていた。


(僕は、彼女の足を引っ張っているだけなのか?)


黙って隣に座る崇志。

心は、かつてないほど揺れていた。

共存の地形は、絆を深めると同時に、二人の間にある「立場の差」を残酷なまでに浮き彫りにしていた。


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