第4話 高陽に立つ
「今回もC判定か……」
震える手で開いた模試の結果には、前回と変わらぬ無慈悲な文字が刻まれていた。
夏期講習も中盤。
成績が上がっている実感は確かにあった。
だが、周囲のライバルたちもまた、死に物狂いで走っているのだ。
「桜井くん、ちょっといいかな」
無機質な面談室に呼び出される。火野は銀縁眼鏡の奥の目を冷たく細め、数値を指で叩いた。
「このままでは厳しい。志望校を、一段階、下げてみてはどうかな?
今の第一志望校は、君にとっての険形――きわめて困難な場所だ」
火野の言葉は、一見すると親身なアドバイスに聞こえた。
だが、その声には一切の熱がない。
「『卒を視ること嬰児のごとし』――兵には赤ちゃんのように接せよ。
これは君のために言っているんだよ」
「……ちょっと、考えさせてください」
崇志はそれだけを絞り出し、逃げるように部屋を出た。
廊下を歩く足取りは重い。
教室のエアコンの音が、まるで自分を嘲笑うノイズのように耳に障った。
***
「ちょっと、崇志。こっち」
放心状態で歩いていた崇志の腕を、帆夏が強引に掴んだ。
彼女はそのまま非常階段を駆け上がり、立ち入り禁止の重い鉄の扉を押し開ける。
辿り着いた屋上には、夏の終わりの熱気が溜まっていた。
「……どうしたの、急に。ここ、入っちゃダメなんじゃ」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ」
「……志望校、変えろって言われなかった?」
帆夏の問いに、崇志は力なく頷いた。
「……やっぱり。それってね、『ここを出ていけ』って意味だよ」
「えっ?」
崇志は驚いて帆夏を見返した。
「ここはAランクの難関校専門の塾でしょ?
それ以下の生徒は、ここにいる必要がないって見なされるの」
(必要ないって、僕のことが?)
「火野先生は、体験生の今のうちに崇志を切っておきたいんだよ。
合格実績100%という自分の聖域に『不確定要素』を残したくないから」
「そんなことって」
呆然と立ち尽くす崇志に、帆夏は、更に衝撃の事実を告げる。
「前にもね、似たことあったって聞いたよ。
志望校下げた子、別の塾紹介されてさ」
「信じられない」
「ううん、そこから紹介料とか貰ってるらしい」
(そのために、いろいろ協力してくれたのか)
崇志の拳が、わなわなと震えた。
***
火野が自分に「恋愛防御術」を授け、構っていた理由。
それは、崇志を育てるためではなく、
自分の実績に傷がつかないよう、穏便に見捨てるための調整に過ぎなかったのだ。
「……始めっから、見込みがないと思われていた」
握りしめた判定結果が、クシャリと音を立てた。
憤る崇志を、帆夏がまっすぐ見据える。
「ねえ、見返してやろうよ。一緒に勉強しよう。
私のノートも、解法も、全部共有するから。二人でA判定、取っちゃおう」
帆夏の提案に、崇志は戸惑った。
「……どうして、僕のためにそこまでしてくれるんだ?」
崇志の問いに、帆夏は少しだけ照れくさそうに目を逸らし、それから優しく微笑んだ。
「せっかくまた会えたのに、別々になったらさみしいじゃん」
「帆夏さん……」
帆夏の言葉に、崇志の胸の奥が熱くなる。
***
崇志の脳内に、火野から(皮肉にも)教わった兵法の言葉が響く。
『険形には、我先にこれに居らば、必ず高陽に拠りて以て敵を待て』
――険しく不利な地形では、敵より先に日当たりの良い高台を占拠せよ。
今の僕の状態は、まさしく険形。
でも、塾内最高戦力である彼女と手を組めば、そこは一気に敵を見下ろす『高陽の地』に変わる!
火野の想定を覆すには、彼の教えを逆手に取って勝つしかない。
「……分かった。
帆夏さんを、僕の『高陽』にさせてもらうよ」
帆夏は、きょとんとした顔をしたが、すぐに大きく頷いた。
「うん、一緒に頑張ろう!」
屋上から見下ろす街並みが、不思議とクリアに見えた。




