第3話 本棚の隘路
赤本の壁を築いて三日が経過した。
視覚的な防御は完璧だ。だが、崇志の精神は限界に達していた。
壁の向こう側に帆夏の気配を感じるたび、全身の神経がそちらへ吸い寄せられる。
ページをめくる音、かすかな鼻歌、時折漏れる溜息。
それらが気になって、問題集を拒絶し始めていた。
(……だめだ、書いてあることの半分も理解できない)
苦手な数学の難問。
自習室にある参考書では、この解法の糸口を掴めない。
もっと詳しい解説書が資料コーナーにあるはずだ。
しかし、あそこは……
崇志は、昨日の火野の講義を思い出していた。
ホワイトボードに書かれた、不吉な地形の定義。
「桜井くん。資料コーナーは本棚に囲まれた『隘形』――すなわち狭路だ。
入り口は一つ、逃げ場はない。
もしそこで奇襲を受ければ、君の脆弱な防波堤は一瞬で決壊するだろう」
火野は眼鏡を光らせ、冷酷に付け加えた。
「もし、あそこに行くなら、先に奥を占拠しろ。
他人が入り込む隙間もないほどの威圧感を持って、敵を待つのだ」
幸い、帆夏は席を離れている。
「行くなら今だ」
崇志は意を決して、塾の最奥にある資料コーナーへ向かうことにした。
一刻も早く解答を確認し、本丸である自習室へ帰還しなければならない。
これは、最短時間で完遂すべき「補給作戦」だった。
***
崇志は火野の教え通り、本棚に挟まれた細長い通路を一番奥まで進む。
行き止まりの棚から目的の参考書を探し出し、大きく息を吐いた。
(よし、占拠完了だ。あとは、これを持ち帰るだけ……)
安堵したのも束の間、通路の入り口に人影が立った。
逆光の中に浮かび上がる、見覚えのあるシルエット。
「あ、崇志! やっと見つけたー」
帆夏だった。
彼女は躊躇することなく、カニ歩きでしか通れないような狭い隙間にするりと潜り込んできた。
(マズい、火野先生の言った通りだ。退路が完全に断たれた……!)
逃げ場のない「隘路」で、帆夏がすぐ横に並ぶ。
肩が触れ、彼女の吐息が届くほどの至近距離。
古い紙の匂いに満ちていた空間が、一瞬で彼女のシャンプーの香りに塗り替えられた。
「ねえ、崇志、ここやってたよね。何回読んでも分かんなくて。教えて?」
帆夏が差し出してきたのは、昨日渡された英語のプリントだった。
英語の長文の行間に、彼女らしい丸っこい字が書きこまれている。
「えっと、ここは……」
教えようと覗き込むたび、彼女の揺れる髪が崇志の頬をかすめる。
真剣な眼差しで見上げてくる彼女の少しだけ開いた唇。
その無防備さが、崇志の理性を粉々に砕いていく。
これが隘形の奇襲。防御が追いつかない。
(近い近い近い、近すぎる!)
一刻も早くここを出るべきだと頭では理解している。
しかし、心のどこかが、それを拒否する。
――このままでいたい。
この距離での「教えて」は、もはや回避不能な精密誘導弾だった。
崇志は震える声で解説を始めたが、もはや英語の内容など一文字も頭に入っていなかった。
***
「あ、火野先生に呼ばれてたんだった! 忘れてた!」
自分の心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないか。
その恐怖に耐えきれず、崇志は下手な嘘を吐き出した。
混乱のあまり、彼女の脇を強引にすり抜けようとする。
「えっ、崇志? ちょ、ちょっと!」
焦った崇志は、本棚の脚に足を引っかけた。
無様にバランスを崩し、その場で盛大に転倒する。
「あいたたたっ」
「大丈夫?」
心配して駆け寄ろうとする帆夏の声を背に、崇志は這うようにして通路を脱出した。
そして、そのまま走り去った。
***
「君、シャツが汚れているぞ。どんな無様な戦いをしたんだ?」
崇志は何も答えられず、ただ力なく埃を払う。
その時、一枚のピンク色の付箋がひらりと落ちた。
資料コーナーで帆夏とすれ違ったときに、くっついたものだろうか。
崇志はその付箋を、拾い上げる。
そこには、見覚えのある丸っこい字で、一言だけ書かれていた。
『タカシ』
(これって……付箋占いじゃ……)
急にその付箋が、神様のお札みたいなありがたいものに思えて、手が震えた。
火野の兵法など、もはやどこかへ吹き飛んでいた。
埃だらけの敗走兵の手の中で、その付箋だけが異常に輝いて見えた。




