第2話 赤本の城壁
面談室のホワイトボードに、火野は太いマーカーで大きく書き殴った。
『嫌われずして避ける』
「嫌われずに……避ける?」
「そうだ。これは孫子の兵法における最高位の戦術、
『戦わずして勝つ』をヒントに私が編み出した――究極の『恋愛防御術』だ」
火野は、さも大発見をしたかのように自信満々に胸を張る。
(『嫌われずして避ける』って、『戦わずして勝つ』のパクリじゃん)
崇志は喉まで出かかったツッコミを、火野の異様な熱気に押されて飲み込んだ。
「今の君の状況を地形に当てはめてみよう。
兵法において、地形を知ることは勝利への絶対条件だ」
火野はスローガンの下に、自習室の図を書き殴っていく。
「まず、今の自習室の席。これは『通形』だ。
敵も味方も自由に行き来できる、守りのない平地」
火野は「通形」の文字を激しく丸で囲んだ。
「そして、彼女が机をくっつけてきた今の状態……」
崇志は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「これは、一度入り込めば脱出困難な『険形』だ!
君は今、無防備に敵の術中へ誘い込まれている。
彼女は無自覚な名将だ。君の集中力を、恋心という油で焼き尽くす。
これぞまさに『火攻め』である!」
(あの帆夏さんの笑顔が『火攻め』っていうのは、否定できない)
脳裏に浮かぶ帆夏の笑顔に、崇志はぶるっと震えた。
「いいか。これを戦場だと思え」
面談室のホワイトボードに、火野は「地形」という文字を叩きつけた。
「戦場……ですか?」
崇志は、あまりの気迫に身を引いた。
「そうだ。孫子に基づけば、戦いの勝敗は戦う前に決まる。
重要なのは『地形』を読み解くことだ」
***
火野は急に神妙な面持ちになり、銀縁眼鏡を指で押し上げた。
「とにかく、これは柊木くんのためでもあるんだ」
「帆夏さんの……ため?」
「そうだ。恋愛は受験の大敵。
もし彼女が落ちれば、君も辛いだろう?」
崇志は黙って頷いた。
自分が原因で彼女の未来を汚すことだけは、
絶対に避けなければならない。
「それに、彼女が志望校に落ちれば、我が塾のブランド価値は暴落する」
火野はポロリと本音を漏らした。
「対して、今の君は『C判定』という爆弾だ。
私の『合格率100%』という聖域に、君のような不確定要素が、
恋心という火種を持ち込むのは万死に値する!」
「万死……」
「そうだ、昨日も、本部のエリアマネージャーから
『合格実績が下がれば万死に値する』
なんて言われて……」
(あんたが言われてたんかい!)
あきれ顔の崇志を見て、火野は「言い過ぎたか」という顔で、
バツが悪そうに咳払いをした。
(やっぱり、この人……自分の実績を守りたいだけだ)
崇志は底知れない不安に襲われたが、もはや火野という軍師に頼るしかなかった。
「火攻め」には「防火壁」が必要なのだ。
***
翌日の自習室。
崇志は資料室から借りてきた大量の荷物を抱え、最後列の席に陣取った。
その腕にあるのは、分厚い赤本(過去問集)の山だ。
一冊でも辞書のように重いそれが、十数冊。
重い。
古びた紙の匂いがする。
それだけで、覚悟を試されている気がした。
「……やるしかない」
崇志は、帆夏が座る側の机の端に、赤本を並べ始めた。
帆夏の侵攻を防ぐための『赤本の城壁』。
これが火野の授けた作戦だった。
拒絶ではない――だが、話しかけづらい環境。
崇志は、完成した城壁を眺め、満足げに頷いた。
これで彼女の可愛さという「直撃弾」は防げる。
***
城壁の内側で、崇志は必死にペンを走らせる。
軽い足音と共に、帆夏がやってきた。
彼女はいつものように迷わず隣に座ったが、
目の前にそびえ立つ真っ赤な壁を見て、目を丸くした。
「……わあ、すごい!」
崇志は心臓の鼓動を抑えながら、ペンを動かし続けた。
(よし。ここで『話しかけるなオーラ』を全開すれば……)
「これ、全部やるの? 崇志、かっこいい!」
「えっ」
帆夏は嫌がるどころか、真ん中の赤本をひょいと手に取った。
そして、崩れた壁の隙間から、ひょこっとこちらを覗いてくる。
「あはっ、覗き窓みたい」
そう言って笑う彼女は、まるでカーテンのすき間から外の景色をうかがう子猫のようだった。
壁の隙間から帆夏の瞳がキラリと光る。
慌てて視線を逸らす。
帆夏は、崇志の動揺など気にする様子もなく、赤本をペラペラとめくった。
「ねえ、崇志、これ借りていい? いちいち持ってくるの大変だったから助かった」
「あ、ああ……いいけど」
崇志は、壁が出来たことで、二人の距離が昨日より縮まったように思えた。




