第1話 新天地は四面楚歌
「C判定」
「まさか滑り止めまで、C」
これまでの塾での、友達とだらだら過ごした自習時間。
あの心地よかった「逃げ場」が、桜井崇志に突きつけた結果だった。
「崇志、今の塾じゃ無理よ」
帰宅早々、母親からの無慈悲な宣告。
「お父さんが、実績100%の塾を見つけてきたから。
明日から、そこに行きなさい」
反論はできなかった。
手元の「C」が、崇志の口を封じていた。
不満がないわけじゃない。
でも、どこかで「環境を変えれば……」というかすかな期待を抱いている自分もいた。
崇志は、カリスマ講師・火野が率いる、
『春秋ゼミナール』の門を叩いた。
***
そこは、以前の塾とは、あまりに違いすぎていた。
冷徹なまでの機能美。
無駄なポスターは一枚もなく、壁はどこまでも白い。
冷房の効いた静寂の中、
機械のように一心不乱に机に向かう塾生たち。
「……すごいな、ここ」
思わず独り言が漏れる。
以前の塾とは全然違う。
崇志は、肌を刺すような緊張感に不安を隠せなかった。
「ものは考えようです。かえって集中できますよ」
案内役の係員は、崇志の不安を見透かしたかのように、
取り澄まして言った。
***
体験授業の初日。
崇志は「誰とも関わらず、勉強マシーンになる」と決めた。
選んだのは、教室の最後列。
誰の視線も入らない、隅っこの席。
だが、授業開始の直前、隣の席に誰かが座った。
他にも席は空いているのに、わざわざ崇志の隣に座る。
しかも、顔を覗き込んでくる。
崇志は不審に思い、顔を上げた。
「やっぱり、崇志じゃん! 久しぶり!」
そう言って、にっこり笑ったのは、中学のときの同級生、
柊木帆夏だった。
成績優秀で進学校に進み、それきり会っていなかった。
真っ白なTシャツに黒のビスチェとレイヤードミニのスカパン。
何でもないカジュアルな服装だったが、崇志には特別に輝いて見えた。
忘れていた片思いが、一瞬で蘇った。
「勉強マシーンになる」
そんな決意は、秒で吹き飛んだ。
「えっと、柊木……さん?」
情けない声が出る。
崇志の脳内は、一歩間違えれば即死の「激戦地」へと変貌した。
***
「あはっ、柊木さんだなんて。前みたいに帆夏でいいよ」
「じゃあ、帆夏……さん」
崇志は、高校生になり、かわいさが爆上がりしている帆夏を、
以前のように気軽には呼べなかった。
それが、余計に崇志を緊張させた。
「そこ、うるさい。授業を始めるぞ」
火野の声が飛ぶ。
帆夏は、肩をすくめて、舌をペロッと出した。
それだけで、崇志は顔が赤くなり、体温が一度上がった気がした。
***
火野の授業が始まった。
ホワイトボードに並ぶ数式は、魔法のように分かりやすい。
――これならもっと勉強できる……はずなのに。
崇志の脳を占拠しているのは、
隣から漂うシャンプーの香りと、帆夏の衣擦れの音だけだ。
「ねえ、崇志、消しゴム貸して?」
帆夏が身を乗り出して囁く。
その距離、わずか数センチ。
完全に、距離感がバグっている。
「あ、ああ。いいよ」
震える手で渡す。
「あ、また間違えた」
「崇志、もう一回貸して?」
三分後。
「ごめん、崇志、もう一回」
そのたびに指先が触れ、崇志の心拍数は跳ね上がった。
「もう、いちいち貸し借りするの面倒くさいよね」
帆夏が楽しげに笑い、
自分の机を崇志の机に、ピッタリとくっつけてきた。
火野が、じろりとこちらを睨んだが、
すぐにホワイトボードに向き直って板書を続けた。
***
授業終了後。
崇志は無機質な面談室に呼び出された。
「君、今日の授業中に三十二回、隣の柊木くんを見てたな」
(三十二回って、どうやって数えたんだよ)
銀縁眼鏡の奥で、火野の目が冷たく光る。
「彼女が勝手に近寄ってくるんです。集中できるわけがない」
崇志の抗議を、火野は鼻で笑った。
「君の気にし過ぎだ」
「本当です。彼女に注意してください」
「たとえそうだとしても、彼女は我が塾の看板だ。
変に言って機嫌を損ねられても困る。
もし辞められでもしたら、私の合格実績に傷がつく」
(なんだ、こいつ……。ただの保身の塊か!)
崇志は、だんだん腹が立ってきた。
「それなら、僕が辞めます。どうせ体験入学ですし」
思わず口から出てしまう。
(帆夏さんとの再会を手放すのは惜しいが、
元々この塾と僕は合っていない)
崇志は、心の中で必死にそんな言い訳を並べた。
***
「早まるな、桜井くん」
火野が慌てて崇志を制した。
「即日で退塾者が出るのは、私のマイナス査定になる」
(こいつ、どこまでも自分の都合ばかりなんだ)
「もし、君の言っている通りなら、
彼女は、君が好きなのかもしれない」
「帆夏さんが、この僕を!?」
崇志の鼓動が急に早くなる。
「いいのか? このまま彼女と別れても」
「それは……」
「彼女と同じ大学に合格できれば、
付き合うってこともできるかもしれない」
(合格すれば付き合える!?)
崇志はその言葉を都合よく解釈し、勝手に照れた。
「そのためには、まずは合格だ。
柊木くんの誘惑から逃れるために、私が開発した『恋愛防御術』を教えてやろう」
「恋愛防御術!?」
「そうだ、『嫌われずして避ける』方法だ」
火野は銀縁眼鏡を押し上げ、鼻孔を膨らませた。




