第3話_忍び込んだ泥棒猫と暁のドレス
応接室の扉の隙間から、ジュリアンは音もなく外の展示室の様子を窺っていた。
薄暗い展示室の中では、夜会帰りのケープを羽織ったエマが、自分の侍女に命じてセシルの木製の画材箱の留め金を無理やり外させているところだった。
「ほら、もっと奥に押し込みなさい! その銀の燭台には王室紋章が入っているから、明日の除幕式のあとで『お姉様の箱から王宮の備品が出てきた』と騒げば、一発で窃盗犯として牢屋送りよ」
エマは低い声でくすくすと笑い、持っていた自分のレースのハンカチで燭台の指紋を雑に拭うと、そのままハンカチごと画材箱の底へ突っ込んだ。
「せっかくジュリアン様が私の絵を褒めてくださったのに、あんな地味なお姉様がしゃしゃり出てくるなんて目障りったらありゃしないわ。これで明日から、名実ともに私一人が天才画家として社交界の主役になるのよ!」
満足そうに蓋を閉めたエマと侍女は、再び足音を忍ばせて展示室の裏口から出ていった。
完全に気配が消えたのを確認してから、ジュリアンは応接室の扉を開け、セシルと共に展示室へと歩み出た。
「……呆れたお嬢さんだな。姉の絵を横取りしただけでは飽き足らず、王宮の備品を使って窃盗の濡れ衣まで着せようとは」
ジュリアンは静かな怒りを湛えた紫水晶の瞳で画材箱を見下ろし、それからセシルを振り返って優しく微笑んだ。
「安心しなさい、セシル。俺が目の黒いうちは、君のその綺麗な手に縄が掛かるような真似は絶対にさせない。むしろ、彼女が自分で掘ったその墓穴に、彼女自身で綺麗に落ちてもらうことにしよう」
ジュリアンは手袋をはめた手でセシルの画材箱から銀の燭台と、そこに巻き付いていた『E・M』の金糸刺繍入りハンカチを取り出し、証拠として自分の手元へ預かった。
さらにジュリアンは、廊下の角で待機していた自分の側近であり、王宮警備隊の宿直記録官を務める青年を招き入れた。
「聴いていたな、ロベルト。今の時刻と、エマ・ド・モンフォール嬢が無断で展示室へ立ち入り、備品の燭台を持ち込んで箱を漁っていた事実を、公式の宿直監査録に一字一句漏らさず記録しておけ。明日の除幕式で、最高の証拠として王太后陛下に提出する」
「はっ、畏まりました、ジュリアン様」
宿直記録官が一礼して下がると、セシルは胸をなでおろしてジュリアンを見上げた。もし今夜、ジュリアンが自分を王宮に残してくれていなければ、明日の朝、何も知らないまま窃盗犯として捕らえられていたかもしれないのだ。
「ありがとうございます、ジュリアン様。何から何まで助けていただいて……」
「礼を言うのはまだ早いよ。今夜、このまま君をあんな物騒な屋敷へ帰すわけにはいかないからね」
ジュリアンはセシルの肩に自分の白銀の外套をふわりと掛け、甘い声で囁いた。
「モンフォール家には『ニスの定着確認が深夜に及ぶため、セシル嬢には王宮の貴賓控室に宿泊してもらう』と使者を出しておいた。確認に要るからと、屋根裏にある君のスケッチブックと調合記録も預かってこさせる。今夜は誰にも邪魔されないふかふかのベッドで、ゆっくり眠るといい。……明日は、君が五年間我慢してきたすべてを取り戻す、特別な一日になるのだから」
その言葉通り、セシルが案内されたのは、天蓋付きの大きなベッドと猫足のバスタブが備えられた、夢のように豪奢な貴賓控室だった。
部屋へ入るなり、待機していた年配の侍女長が温かな笑顔でセシルを迎え、バラの香油が浮かぶ湯船へと案内してくれた。屋根裏の隙間風が吹く小部屋で、冷たい井戸水で身体を拭くことしか許されなかったセシルにとって、全身を包み込む柔らかな湯の温もりは、それだけで涙が出そうなほど心地よかった。
湯から上がり、清潔な白絹の寝間着に着替えて髪を乾かしてもらっていると、控えめなノックの音がして、ジュリアンが銀のトレイを手に入ってきた。
「湯冷めはしていないかい、セシル。眠る前に、温かい蜂蜜ミルクを持ってきたよ。緊張が解けたら、急に疲れが出ただろう?」
ジュリアンは窓際のソファにセシルを座らせると、向かいに腰を下ろし、湯気の立つマグカップを両手で渡してくれた。カップから立ち上る甘いバニラと蜂蜜の香りに、セシルはほっと息をつく。
「ありがとうございます、ジュリアン様。こんなふうに誰かに気遣っていただけるなんて、母が亡くなってから初めてです。……なんだか、まだ夢を見ているような気がします」
「夢なんかじゃないさ。むしろ、君が今まであんな屋根裏に閉じ込められていたことの方が、悪い夢だったんだよ」
ジュリアンは優しく目を細め、セシルの少し湿った茶色の髪の毛先を指先でそっと梳いた。
「君のお母上である故エレノア夫人は、かつて王太后陛下も深く敬愛された稀代の宮廷絵師だった。その才能を一番濃く受け継いだ君が、なぜ社交界に一度も姿を見せないのか、王宮でも不思議がる声があったんだ。まさか後妻と義妹が、君を都合のいい下働きにして手柄を横取りしていたとはね」
ジュリアンは静かな声で続け、セシルのカップに添えられた小さな手を、自分の大きな手でそっと包み込んだ。
「でも、それも今夜で終わりだ。明日の除幕式が済めば、王太后陛下も周囲の貴族たちも、誰が本物の芸術家であるかを一目で知ることになる。君はただ、胸を張って自分の絵の隣に立っていればいい。万が一にも彼らが暴れようものなら、俺が即座にねじ伏せてやるからね」
力強くも甘いジュリアンの言葉に、セシルは心の底から深い安心感を覚え、温かい蜂蜜ミルクをゆっくりと飲み干した。柔らかな羽毛布団に包まれたセシルは、ジュリアンが「おやすみ、俺の大切な絵師殿」と額に落としてくれた優しい口づけの余韻の中で、何の恐れもない深い眠りにつくことができた。
小鳥の澄んださえずりと、カーテンの隙間から差し込む眩しい朝の光に、セシルはゆっくりと目を覚ました。
控えめなノックの音とともに部屋へ入ってきた二人の王宮侍女の手には、大きな衣装箱と、宝石箱のような化粧道具が抱えられていた。
「おはようございます、セシル様。ジュリアン様より、本日の祝賀会でお召しいただくためのドレスをお預かりしてまいりました」
箱の中から取り出されたドレスを見た瞬間、セシルはあまりの美しさに息を呑んだ。
それは、セシルが描いた『暁の白百合』の夜明けの空をそのまま織り上げたような、深い群青色から淡い白銀へと滑らかに色が移り変わる最高級のシルクドレスだった。胸元と袖口には銀糸で繊細な白百合の刺繍が施され、動くたびに朝露のような気品ある輝きを放っている。
侍女たちの丁寧な手で髪を艶やかに結い上げられ、ドレスに袖を通したセシルが控えの間へと出ると、そこでは黒地に銀の正装を纏ったジュリアンが待っていた。
セシルの姿を見たジュリアンは、紫水晶の瞳を大きく見開き、感嘆のため息を漏らして歩み寄ってきた。
「……息を呑むほど美しいよ、セシル。やっぱり俺の目に狂いはなかった。その暁の群青は、世界で君一人だけのためにある色だ」
ジュリアンは手にしていた小さな小箱を開け、真珠と銀細工で作られた白百合の髪飾りを、セシルの結い上げた茶色の髪へとそっと挿した。鏡の中に映る自分は、昨日まで屋根裏で泥のように働かされていた地味な娘とは思えないほど、凛とした輝きを放っていた。
「ジュリアン様、私にこんな高価なドレスを……。本当にいただいてもよろしいのでしょうか」
「当たり前だろう。君は今日、王太后陛下の御前で最高の絵画を披露する真の主役なんだ。これくらい着飾ってもらわなければ、隣を歩く俺が釣り合わないじゃないか」
ジュリアンはセシルの頬にそっと触れ、とろけるような甘い笑顔で囁いた。
「さあ、時間だ。大広間の天窓の外には、今日一番の強い朝日が昇り始めている。……君の描いた白百合がどんな奇跡を見せてくれるのか、特等席で見届けさせてもらうよ」
ジュリアンにエスコートされ、セシルは長い大理石の回廊を抜けて、祝賀会の会場である王宮中央の大広間へと向かった。
重厚な両開きの扉が開かれると、そこには百名を超える高位貴族たちが華やかな衣装を纏って集まっており、正面の玉座には、威厳と慈愛を兼ね備えた王太后陛下が座しておられた。
そして玉座の斜め前、真紅の布が掛けられた巨大なイーゼルの傍らには、けばけばしいほど金糸と宝石を飾り立てた薔薇色のドレスを着たエマと、誇らしげに胸を張る父・モンフォール子爵、継母マルグリットの姿があった。
「まあ、エマったら、あのジュリアン公爵様から直接お褒めいただいたそうよ」「なんてお若くて才能がおありなのかしら」と周囲の貴婦人たちからちやほやされ、エマは有頂天になって扇子をパタパタと仰いでいる。
しかし、ジュリアンの腕にエスコートされて会場へ入ってきたセシルの姿に気づいた瞬間、エマと両親は目を剥いて凍りついた。
エマが「な、なによあれ……! どうして地味なお姉様が、あんな見たこともない最高級のドレスを着てジュリアン様の隣を歩いているのよ!?」と悔しそうに歯噛みするのが、遠くからでもはっきりと見て取れた。
セシルはそんなエマの視線にも怯むことなく、背筋を凛と伸ばして会場の前列へと進み出た。
「――これより、王太后陛下・生誕六十周年祝賀会、記念献上画の除幕式を執り行います!」
式部官の朗々たる声が大広間に響き渡り、すべての招待客の視線が、壇上のキャンバスへと一斉に注がれた。
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