第2話_審美眼の貴公子と真夜中の甘い紅茶
ジュリアンの指摘に、展示室の空気が一瞬で張り詰めた。
エマは自分の白い指先を慌てて背中に隠し、引きつった笑顔で言い繕った。
「あ、ああ、この子は私の姉のセシルですわ! 絵の才能はありませんけれど、力仕事や絵の具混ぜくらいはできますので、私の助手として雑用を言いつけておりますの。ねえ、お姉様?」
エマが振り返ってきつい視線を送ってくる。父と継母も、余計なことを言えばどうなるか分かっているだろうなという目でセシルを睨みつけていた。
セシルは重い画材箱を持ち直し、静かに頭を下げた。
「はい、妹の申す通りにございます、ヴァルモア公爵閣下。わたくしはただ、絵の具の調合と仕上げのニス塗りを手伝ったに過ぎません」
「ふうん、仕上げのニス塗りをね」
ジュリアンはキャンバスの前に屈み込み、右下の『Emma』という署名と、中央の白百合の花弁の表面を、片眼鏡を取り出して興味深そうに観察した。
「実に興味深い。本体は伝統的な卵黄テンペラと油彩の混合技法で、髪の毛一本ほどの狂いもない精緻な筆致で描かれているというのに、右下の署名だけは、まるで油絵の具の扱いも知らない素人が、後から別の樹脂の上に乗せたように筆圧が浮いている。しかもこのニスの香り……通常のダンマル樹脂ではなく、蜂蜜蝋と揮発性の樟脳油を混ぜた特殊な感熱媒剤だな?」
専門的すぎる指摘に、エマと両親はぽかんと口を開けて顔を見合わせた。彼らにはジュリアンが何を言っているのかすら理解できていない。
一方で、セシルは息を呑んでジュリアンの横顔を見つめた。ひと目で混合技法を見抜いただけでなく、匂いと塗膜の僅かな屈折だけで、母直伝の特殊ワニスの成分まで言い当ててみせたのだ。
ジュリアンは片眼鏡を外すと、悪戯を見つけた少年のように紫水晶の瞳をきらめかせ、セシルだけに分かる角度で小さくウインクしてみせた。
「なるほど、よほど優秀な『助手』がいらっしゃるらしい。……モンフォール子爵、ならびにエマ嬢。明日の除幕式に向けて、この絵は今夜一晩、展示室の温度と照明に合わせて最終的な定着確認を行う必要がある。作者であるエマ嬢はお疲れだろうから、今夜の立ち会い作業は、ニスの調合を行ったというこちらのセシル嬢に一人残ってもらおうか」
「えっ、セシルを王宮に残すのですか?」
父が困惑した声を上げると、ジュリアンは有無を言わせぬ華やかな笑顔で頷いた。
「もちろんさ。もし今夜の乾燥管理を誤って、明日の王太后陛下の御前で絵の具が剥がれでもしたら、献上者であるモンフォール家の責任問題になるからね。専門知識のある助手殿に責任をもって見守ってもらうのが一番安全だろう? 帰りは王弟家の紋章馬車で屋敷まで送り届けると約束するよ」
芸術監督であるジュリアン公爵にそう言われてしまっては、父たちも逆らうことはできない。エマは「せっかくジュリアン様とお話しできると思ったのに、どうして地味なお姉様が残るのよ」と不満げに唇を尖らせたが、マルグリットに袖を引かれ、しぶしぶ展示室を後にした。
騒がしい家族の足音が回廊の奥へと消え、係官たちも退室していくと、広い展示室にはセシルとジュリアンの二人だけが残された。
ジュリアンは扉が閉まるのを確認すると、くるりと振り返り、先ほどまでの公的な顔つきから一転して、驚くほど柔らかく親しげな声で言った。
「やあ、やっと二人きりになれたね、真の作者殿。重い画材箱をずっと持たされていて腕が痛くなっただろう、ほら、貸してごらん」
ジュリアンは自然な仕草でセシルの手から重い木箱を受け取り、近くのテーブルへと置いた。そして、呆然としているセシルの手首をそっと取り、赤く跡がついた指先を痛ましそうに撫でた。
「あんな重たい箱を、こんなに華奢な手で運ばせるなんて、まったく大した家族だ。絵筆を握る大切な指に怪我でもしたらどうするつもりなんだろうね」
「ジュリアン様……。どうして、あの絵が私の描いたものだとお分かりになったのですか」
セシルが戸惑いながら尋ねると、ジュリアンは目を細めて優美に微笑んだ。
「自分の憧れている絵師の筆遣いを、俺が見間違うはずがないだろう? ……もっとも、君自身とこうして言葉を交わすのは今夜が初めてだけれどね。少し場所を変えようか、お腹も空いているはずだ」
ジュリアンが案内してくれたのは、展示室の奥にある、中庭の温室に面した芸術監督専用の特別応接室だった。
部屋のテーブルの上には、すでに銀のティーセットと、焼きたての温かいミートパイ、そして色とりどりの砂糖菓子や苺のタルトが美しく並べられていた。
「さあ、遠慮せずに座って。予備審査の書類を見た時から、あの絵の作者はエマ嬢ではないと確信していたから、君をねぎらうためにお茶の用意をさせておいたんだ」
ジュリアンは自らセシルのために椅子を引き、湯気の立つ香り高い紅茶をカップに注いで差し出してくれた。
「まずはそのパイとタルトを食べてごらん。王宮の菓子職人が腕によりをかけた自慢の品だよ。君は今日一日、絵の仕上げと搬入でろくに食事も取らせてもらっていなかったんじゃないかい?」
図星を指され、セシルは恥ずかしそうに頬を染めた。確かに朝から屋根裏に閉じ込められ、水一杯しか口にしていなかったのだ。勧められるままに温かいミートパイを一口食べると、ジューシーな肉の旨味とバターの香ばしさが口いっぱいに広がり、続いて口にした苺のタルトの優しい甘みが、張り詰めていた心と身体をじんわりと解きほぐしていく。
「……すごく美味しいです。こんなに温かくて甘いものをゆっくりいただいたのは、本当に久しぶりです」
セシルが思わず本音をこぼすと、向かいに座ったジュリアンは頬杖をつき、とろけるように甘い眼差しでセシルを見つめた。
「もっとたくさんお食べ。君が美味しそうに頬を膨らませているのを見るだけで、俺まで幸せな気分になるよ。……それにしても、君の家族には腹が立つな。こんなに素晴らしい才能を持った君にボロ布みたいな作業着を着せて、妹の影武者として我慢を強いるなんて」
「母が遺してくれた画材とスケッチブックを焼き捨てるとおどされたのです。私にとっては、自分の名前よりも、母の遺してくれたものを守ることの方が大切でしたから」
「だから、ただ泣き寝入りするのではなく、あの絵に『感熱消色ワニス』の罠を仕掛けたわけだ」
ジュリアンは愉快そうに肩を揺らして笑った。
「さすがは俺が見込んだ女性だ。ただ虐げられて涙を流すだけの弱いお嬢さんではなく、自分の技術と知恵で鮮やかに一矢報いようとするその気高さ、ますます惚れ直したよ」
「え……? 惚れ直した、とはどういうことですか?」
セシルがティーカップを持ったまま目を丸くすると、ジュリアンは立ち上がり、応接室の壁に掛けられていた一枚の小さな額縁を指差した。
「あれを見てごらん、セシル。君に見覚えがあるはずだ」
セシルは立ち上がって壁へと歩み寄り、金色の額縁に収められた十号ほどの油絵を見上げて息を呑んだ。
そこに描かれていたのは、雨上がりの夕暮れ時、虹の架かる古い風車小屋と麦畑の風景だった。それは今から二年前、セシルが亡き母の画材を使って初めて描き上げ、名前を伏せて王立美術院の『春季・無名画家チャリティー展』に出品した、思い出の処女作だったのだ。
「これ……私が二年前に匿名で出品した絵です。どうしてジュリアン様の応接室に……?」
「あのチャリティー展の初日に、俺が一目で心を奪われて買い求めたからさ」
ジュリアンはセシルのすぐ隣に立ち、絵を見つめながら優しい声で語った。
「俺は王弟家の次男という立場上、社交界ではいつも打算や媚びへつらいばかり見せられてきた。どんな高名な宮廷画家の絵を見ても、権力者に気に入られようとする邪念ばかりが透けて見えて、うんざりしていたんだ。……そんな時に、会場の片隅でこの絵に出会った。どこまでも澄み切った光と、描くことへの純粋な喜びだけがあふれているこの絵を見た瞬間、俺の荒んでいた心が救われたんだよ」
ジュリアンはゆっくりとセシルの方を向き、その紫水晶の瞳で彼女を真っ直ぐに見つめた。
「それから二年間、俺はずっとこの絵を描いた『名もなき絵師』を探し続けていた。そして先月、今回の祝賀会の予備審査にモンフォール家から提出された『暁の白百合』を見た瞬間、すぐに分かったんだ。光の捉え方も、白百合の葉脈に重ねられた群青の使い方も、俺がずっと恋焦がれていたあの絵師そのものだったからね」
「ジュリアン様が、二年間も私の絵を……」
誰にも認められず、屋根裏の暗がりでただ孤独に描き続けてきた自分の絵を、王都で一番の審美眼を持つ貴公子がこれほど大切に飾り、救われたとまで言ってくれている。セシルは胸の奥から熱いものが込み上げるのを感じ、涙で滲む目元をそっと伏せた。
するとジュリアンは、ポケットから白絹のハンカチを取り出し、セシルの目元を壊れ物に触れるようにそっと拭った。
「泣かないで、セシル。君がこれまであの家でどれほど冷たい扱いを受け、一人で我慢してきたか、想像するだけで胸が痛む。……でも、もう一人で戦う必要はないよ」
ジュリアンはセシルの右手を両手で包み込み、その絵の具の染み付いた指先に、うやうやしく唇を落とした。
「この群青に染まった指は、俺にとってどんな宝石よりも美しい。明日の除幕式、君が仕掛けたその鮮やかな罠が最高の結果を生むように、芸術監督である俺が全力で舞台を整えよう。……どうだい、セシル。今夜から俺と、最高の共犯者になってくれないか?」
指先に触れたジュリアンの唇の温もりに、セシルは照れくささに目を瞬かせながらも、力強く頷いた。
「はい……! よろしくお願いいたします、ジュリアン様」
その時、展示室の外の廊下から、忍び足で近づいてくる複数の足音と、聞き覚えのあるエマの甲高いひそひそ声が聞こえてきた。
「――いいこと? お姉様が席を外している隙に、画材箱に王宮の銀の燭台を押し込んでおくのよ。明日、除幕式が終わったらすぐに窃盗の現行犯で突き出して、二度と王都に居られないようにしてやるわ!」
扉の向こうから聞こえてきた悪辣な企みに、セシルが息を呑むと、ジュリアンは唇に人差し指を当て、氷のように冷たく、しかしどこか楽しげな策士の笑みを浮かべた。




