第1話_奪われた記念画と透明なニスの仕掛け
「――この『暁の白百合』は、エマが描いたことにして王宮へ献上する。セシル、お前は今からキャンバスの隅にある自分の署名を消しなさい」
モンフォール子爵家の北棟にある薄暗い屋根裏のアトリエで、父の冷ややかな声が響いた。
セシル・ド・モンフォールは、パレットと細筆を持ったまま立ち尽くし、イーゼルの前に立つ三人の顔を順番に見つめた。父であるモンフォール子爵、後妻である継母のマルグリット、そして華やかな薔薇色のドレスを着て得意げに微笑んでいる義妹のエマだった。
イーゼルの上に置かれているのは、明日、王宮の大広間で開かれる『王太后陛下・生誕六十周年祝賀会』に献上するため、セシルが三ヶ月間、毎晩眠る間も惜しんで描き上げた五十号の大作だった。朝霧が晴れていく王都の丘に、朝日を浴びて凛と咲き誇る白百合の群生を描いたその絵は、先日の王立美術院の予備審査で最高評価を獲得し、明日の祝賀会の目玉として除幕式が行われることが決まっていた。
「お父様、冗談はおやめください。この絵は予備審査の段階から、私が一人で構想を練り、顔料を調合して描き上げたものです。どうしてエマの作品として献上しなければならないのですか」
セシルが静かに抗議すると、継母のマルグリットが扇子で口元を隠し、呆れたように鼻を鳴らした。
「まあ、聞き分けのない子ね。予備審査は『モンフォール子爵家』の名義で通したのだから、娘のどちらが描いたことにしても問題ないでしょう? 考えてもごらんなさい、明日の除幕式には王太后陛下だけでなく、芸術監督を務められる王弟殿下の次男、ジュリアン・ヴァルモア公爵閣下もご臨席なさるのよ」
マルグリットはエマの肩を抱き寄せ、セシルの絵の具で汚れた作業着をじろりと見下ろした。
「いつも屋根裏に籠もって油と顔料の匂いをさせている地味なお前が壇上に立つより、社交界の華であるエマが『私が描きました』と微笑んだ方が、我が家の評判も上がるし、ジュリアン様の目にも留まるに決まっているわ。姉なら、妹の輝かしい門出のために裏方に回るのが当然でしょう?」
「そうよ、お姉様。お姉様は昔から口下手で、人前に出るとすぐに固まってしまうじゃない」
エマが一歩前に出て、キャンバスの右下に金泥で入れられた『Cécile de Montfort』という署名を見下ろしてくすくすと笑った。
「お姉様の絵の腕だけは認めてあげるわ。でも、お姉様みたいな華のない人が王宮の除幕式に出ても、周囲の貴族の方々が退屈なさるだけよ。私が代わりにお姉様の絵を一番美しく披露して、ジュリアン様からたくさんの称賛をいただいてきてあげる。だからお姉様は、いつものようにいい子で我慢して、私の絵の具箱持ちとして後ろに控えていなさいな」
母が亡くなり、マルグリットとエマがこの屋敷に来てから五年間、セシルが作った刺繍も香油もすべてエマの手柄として奪われ、『長女なのだから我慢しなさい』と押し付けられてきた。だが、今回ばかりはわけが違う。この『暁の白百合』は、画家であった亡き母が遺した希少な鉱物顔料と秘伝の技法をすべて注ぎ込んだ、セシルの魂そのものだった。
「……嫌だと言ったら、どうなさるおつもりですか」
セシルが筆を強く握りしめると、父は眉間に深い皺を寄せ、脅すような低い声を出した。
「命令に背くなら、この屋根裏のアトリエを今すぐ閉鎖し、母の遺した画材もスケッチブックもすべて庭で焼き捨てる。そしてお前は来週にも、辺境の老富豪の後妻として嫁がせる。……どうする、セシル。母の形見を守りたければ、今すぐ署名を書き換えろ」
亡き母の画材と遺作のスケッチブックを人質に取られ、セシルは奥歯を強く噛みしめた。今ここで力ずくで抵抗すれば、父は本当にアトリエの全てを灰にしてしまうだろう。
だが、このまま泣き寝入りして、母から受け継いだ絵と誇りをエマの虚栄心のために差し出すつもりは毛頭なかった。
セシルは長く息を吐き出すと、伏せていた顔を上げ、別人のように穏やかな笑みを浮かべた。
「……分かりました、お父様、義母様。エマの名前でこの絵を献上することに同意いたします」
「ふん、最初からそう言えばいいものを」
父が満足そうに頷き、エマが「さすが物分かりのいいお姉様だわ!」と手を叩いて喜ぶ。
セシルは作業机の引き出しを開け、琥珀色をした二つの小瓶と、白い粉末が入った小皿を取り出した。
「では、せめて最後に一つだけ作業をさせてください。今のままでは私の署名が乾ききっておりますので、上から不自然にならないようアイボリーの絵の具で塗り潰し、エマに新しい署名を入れてもらいます。そのあとで、明日の王宮大広間の強い光に耐えられるよう、画面全体に『仕上げの保護ニス』を塗らせていただきたいのです」
「保護ニス? そんなもの、塗る必要があるのかしら」
怪訝そうに眉をひそめるエマに、セシルは落ち着き払った声で説明した。
「ええ。王宮の大広間は天窓からの日差しとシャンデリアの熱気が強い場所です。保護ニスを塗っておかなければ、除幕式の最中に絵の具がひび割れて、エマが恥をかいてしまいますわ」
「まあ、私が恥をかくなんて絶対に許さないわ! ほら、早く私の名前を書かせなさい!」
セシルが右下の自分の署名の上から白い特殊な下地材を塗り、エマに筆を渡すと、エマは不慣れな手つきで『Emma de Montfort』と大きく気取った文字を書き込んだ。
それを見届けたセシルは、小瓶の琥珀色の液体を平筆にたっぷりと含ませ、エマの新しい署名の上、そしてキャンバスの中央に描かれた白百合の花弁の上へと、滑らかな手つきで塗り重ねていった。
エマたちは気づいていない。セシルが今塗ったのは単なる保護ニスではなく、強い光と熱を浴びると上の絵の具層を透明に溶かして消滅させる母直伝の『感熱消色ワニス』であり、白百合の下塗り層には同じ熱と光で浮かび上がる『もう一つの真実』が仕込まれていることを。
「……終わりました。これで夕方の王宮への搬入には十分間に合います」
セシルが筆を置くと、エマは完成した絵をうっとりと眺め、勝ち誇ったように笑った。
「完璧だわ! さあ、お父様、すぐに馬車へ積んで王宮へ運びましょう。お姉様は使用人用の荷馬車に乗って、裏口からついてきなさいね!」
その日の夕方、王宮の西翼にある美術展示室へと記念画が運び込まれた。
明日の除幕式本番まで絵を保管する展示室には、すでに数名の王宮係官が待機していた。その中央で、搬入された『暁の白百合』の前に歩み寄り、感嘆のため息を漏らした一人の青年がいた。
夕陽を受けて輝く明るい銀金色の髪に、宝石のように澄んだ紫水晶の瞳。仕立ての良い白銀の礼服を優美に着こなしたその青年こそ、明日の祝賀会の芸術監督を務める王弟殿下の次男、ジュリアン・ヴァルモア公爵だった。
「ああ、これが予備審査で満場一致の最高点を取ったというモンフォール家の作品か。……素晴らしいな。朝霧の湿度まで伝わってくるような繊細な空気遠近法だ」
ジュリアンが柔和な笑顔で振り返ると、エマは待っていましたとばかりに前へ飛び出し、頬を染めて深々とカーテシーをした。
「お褒めに預かり光栄に存じます、ジュリアン様! わたくし、エマ・ド・モンフォールが三ヶ月間、寝食を忘れて描き上げた渾身の作にございます!」
「ほう、君がこの大作を?」
ジュリアンは紫水晶の瞳を細め、キャンバスの右下に書かれた『Emma』の署名と、エマの白魚のように綺麗で爪の手入れが行き届いた指先をちらりと見た。そしてジュリアンは、エマの斜め後ろで重い画材箱を抱えて立つセシルへと視線を移し、彼女の右手の人差し指にうっすらと染み付いた群青色のラピスラズリ顔料の跡にぴたりと目を留めた。
ジュリアンは口元に、ひどく楽しげで食えない笑みを浮かべた。
「それは感服したよ、エマ嬢。……ところで、背後に控えているそちらの令嬢はどなたかな。どうやら彼女の手には、この絵の空の色と同じ、最高級の群青が染み込んでいるようだが」
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