隠された優しい注文
今日も予想通り、その日の王都は息を呑むほど美しい小春日和に包まれていた。
冬の訪れを前に、神様がそっと地上に残してくれたかのような、格別に温かく穏やかな一日。窓を開けると、ひんやりとした風の中に、どこか陽だまりの匂いが混ざっているのが分かる。庭園の木々は、最後の一葉まで黄金色の光をまとって、優しく揺れていた。
「エルネスタ様、本日のハーブティーは、少し冷え込む朝に合わせて生姜と林檎を煮出してみましたわ」
侍女のミレーヌが、湯気の立ち上る磁器のカップをテーブルへと置いてくれる。
私は「ありがとう、ミレーヌ。とても良い香りね」と微笑み、その温かいカップを両手で包み込んだ。じんわりと手のひらから伝わってくる温もりが、心地よく身体を巡っていく。
前世のコールセンターでは、このような小春日和の日は、決まって「お出かけ日和」として世間が賑わう反面、私たちは窓のないオフィスに引きこもり、鳴り止まない着信ランプと戦っていたものだ。季節の美しさを、こうして朝の光の中で、お茶を楽しみながら実感できることが、今の私には何よりも愛おしい。
身支度を終えた私は、いつものように純白の聖衣を纏い、神殿の回廊を歩いていた。
ふと思いついて胸の前で手を合わせ、心の中で静かに祈りを捧げる。
(今日も、この神殿に集う皆さんが、健やかに過ごせますように――)
パタパタと小気味よい羽音が響き、どこからともなく真っ白なハトが1羽、私の元へと飛んできた。そして、まるであつらえた指定席に戻るかのように、私の頭の上へとちょこんと着陸する。ハトは「クルゥ」と喉を鳴らし、私の金髪にそっと嘴を寄せた。
実用性は全くない、ただそこにいるだけの【聖女のハト】。けれど、こうして毎朝、私の祈りに応えて寄り添ってくれる小さな温もりは、私の心に確かな安らぎを与えてくれる。私はポケットからひと摘みの穀物を取り出し、手のひらの上でハトに分け与えた。ハトは嬉しそうに尾羽を揺らしながら、それを啄んでいる。
「……エルネスタ様。おはようございます」
少し低めの、けれどどこか緊張を含んだ声に振り返ると、そこには聖騎士長のユリウス様が立っていた。
今日の彼は、いつも以上に背筋がピンと伸びており、シワ一つない漆黒の騎士服が、その鍛え上げられた長身をいっそう際立たせている。しかし、その美しい銀髪の隙間から覗く耳の先端が、ほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
彼が近づいてきた瞬間、私の【真実の心眼】がパッと発動し、彼の頭上に淡い光の文字を浮かび上がらせる。
『昨日、エルネスタ様に両手で手を包み込まれて「頼ってほしい」と言われた瞬間から、心臓の鼓動が未だに収まらず、昨夜は一睡もできずに、ただ自室のベッドの中で彼女の笑顔を思い出して悶々としていた』
(まあ……! ユリウス様ったら、本当に一睡もできなかったなんて。私の方こそドキドキしてしまう)
完璧で冷徹と噂される聖騎士長が、私の何気ない一言でそれほどまでに心を乱し、徹夜をしてしまうなんて。その不器用なほどの一途さが、たまらなく愛おしく、同時に私の胸の奥をも、小さく甘く疼かせるのだった。
「おはようございます、ユリウス様。今朝は格別に温かい、良いお天気になりましたわね。……ふふ、でも、少しお疲れのようす。夜、あまりお眠りになれなかったのかしら?」
私が悪戯っぽく微笑みながら尋ねると、ユリウス様はハッとしたように琥珀色の瞳を見開いた。そして、狼狽したように視線を彷徨わせ、片手をそっと口元に当てる。
「あ、いえ……! そのようなことはございません。聖騎士長として、体調管理に抜かりは……。ただ、少々、昨夜は国を護るための防衛計画について、深く考え込んでしまいまして……」
(防衛計画、ではなくて、私のことを考えてくださっていたのでしょう?)
心の中でそう突っ込みながらも、彼の生真面目な言い訳を否定せず、私は優しく頷いた。
「そうですのね。ですが、ユリウス様。あまり根を詰めすぎては、お身体が保ちませんわ。お仕事に一生懸命な貴方はとても素敵ですが、どうかご自身を労ることも、忘れないでくださいね」
「はっ……。エルネスタ様にそのように案じていただけるなら、私はどのような過酷な任務にも耐えてみせます。……さあ、本日の『神託の儀』を始めましょう。迷える民たちが、お待ちしております」
ユリウス様は、赤くなった顔を隠すようにして一礼し、私を謁見の間へとエスコートしてくれた。彼の頭上の秘密は、先ほどまでの焦りから『今日こそは、聖女様に格好悪い姿を見せないようにしよう』という、健気な決意へと変わっていた。
───
謁見の間に戻り、私は白い椅子へと深く腰掛けた。
前世のカスタマーセンター勤務時代、冬が近づくこの季節は、スタッフの体調不良や、暖房の乾燥による喉のトラブルが多く、私たちはいつも以上に周囲への目配りを欠かさないようにしていた。
今の私も、聖女としての公務を行いながら、この神殿で働く人々や、王都の人々が少しでも笑顔で過ごせるようにと、常に心を配っている。
ユリウス様が静かに合図を送り、本日最初のご相談者が案内されてきた。
扉が開いて入ってきたのは、見覚えのある人物だった。彼は白い料理着に身を包み、少し恰幅の良い体型をした、神殿の総料理長であるマルクさんだった。いつもは神殿の何百人もの食事を取り仕切り、豪快に笑っている彼だが、今日のその表情はひどく真剣で、どこか申し訳なさそうに俯いていた。
マルクさんは私の前に進み出ると、大きな体を縮めるようにして膝をついた。
「高貴なる聖女エルネスタ様。いつも私どもの拙い料理を美味しく召し上がっていただき、心より感謝申し上げます。本日は……一介の料理人である私が、このような神聖な場所に悩みを持ち込む無礼をお許しください」
「顔を上げてください、マルクさん。貴方が毎日、心を込めて作ってくださるお料理は、私たち神殿の全ての者の力の源ですわ。無礼などということはありません。どうぞ、貴方の胸の内にある迷いを、私に聞かせてくださいな」
私は、前世で数々の「悩み」をじっくりと聴いてきた、一番優しく、安心感を与える声音で語りかけた。
マルクさんはおずおずと顔を上げると、その職人としての大きな、少し荒れた手をぎゅっと握り締めた。
「はっ……。実は、ここ最近、急に朝晩の冷え込みが厳しくなってまいりました。そのせいか、神殿の若い神官たちや、騎士団の若い連中が、寒さで体を強張らせ、どこか食事の進みが悪くなっているように見受けるのです。彼らに元気になってもらえるよう、温かくて栄養のある、新しいスープを作りたいと考えているのですが……どのような食材を使い、どのような味付けにすべきか、どうしてもメニューが決まらないのです。神様は、彼らの心と身体を芯から温めるために、どのような料理をお求めなのでしょうか……」
マルクさんの言葉は、職人としての純粋な優しさと、周囲への細やかな気配りに満ちていた。
後ろに控えるユリウス様は、自らの部下である騎士たちの体調を気遣う料理長の言葉に、深く感銘を受けたように、その琥珀色の瞳を優しく和らげている。
(なるほど……。冬の始まりの、心と身体を温めるスープ、ですね)
前世の私にとっても、これは非常に親しみのあるテーマだった。冬の繁忙期、冷え切ったオフィスで遅くまで残業するスタッフたちのために、私はよく、根菜をたっぷり使ったスープや、身体を芯から温める生姜やハーブを取り入れた差し入れを用意していたものだ。
私はマルクさんをじっと見つめた。すると、私の【真実の心眼】が、彼の頭上に色鮮やかな光の文字を紡ぎ出した。
『実は二日前、ユリウス騎士長がこっそり厨房にやってきて、「最近、聖女様は多くの神託をこなされ、お疲れのようだ。これからの寒い季節、聖女様のお身体に優しく、心からホッとするような温かいスープを、特別に用意して差し上げてほしい。ただし、私が頼んだことは絶対に秘密にしておくように」と、真面目な顔で頼みに来た。そのため、聖女様の好む味にしようと張り切りすぎて、メニューがまとまらなくなって困っている』
(え……っ?)
予期せぬ秘密の内容に、私の胸の奥が、ドクンと大きく跳ね上がった。
驚いて、そっと後ろのユリウス様を振り返る。彼は何食わぬ顔で、凛とした表情で直立しているけれど、まさか裏でそんな優しい気遣いをしてくれていたなんて。私のために、わざわざ厨房まで足を運んで、秘密の注文をしてくれていたのだ。
そのユリウス様の温かい優しさが、愛おしくて、嬉しくて、私の心はまるで春のひだまりのようにぽかぽかと満たされていった。
(ユリウス様、本当にどこまでお優しい方なのかしら……。そこまで想っていただけるなんて、私は世界で一番幸せな聖女ね)
理由が分かれば、私は料理長であるマルクさんの迷いを解き、そしてユリウス様の優しい願いも同時に叶えて差し上げることができる。
私はそっと胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。
そして、かすかに【スポットライト】の能力を発動させる。天井の高窓から差し込む美しい秋の光が、私の白い聖衣を包み込み、謁見の間全体を柔らかな、神聖な輝きで満たしていく。
「マルクさん。神様は、貴方のその料理に対する真摯なお心と、皆を想う優しさを、とても愛おしく思っておいでですわ」
私が静かに目を開けると、マルクさんは光の中に佇む私を、畏敬の念を込めて見上げていた。
「神様が私に見せてくださったのは、大地の奥深くで、じっくりと栄養を蓄えた『根菜』たちの姿でした。人々の身体を芯から温めるには、華やかな食材よりも、土の中で力強く育ったカブやカボチャ、そして……ほんの少しの、身体をポカポカと温めるハーブ(生姜)の恵みがふさわしいのですわ」
「大地の根菜、と……ハーブでございますか」
マルクさんは、私の言葉を一つ一つ噛みしめるように呟いた。
「ええ。それらを、神殿で採れる新鮮なミルクと合わせて、じっくりと、とろみが出るまで煮込むのです。豊かな大地の恵みが溶け込んだその白いスープは、一口すするごとに、寒さで強張った騎士たちの身体を優しく解きほぐし、明日への確かな活力へと変わるでしょう。そして……」
私は少し声を和らげ、隣のユリウス様にも聞こえるように、優しく微笑んだ。
「そのスープは、日々多くの人々のために心を尽くし、ほんの少しだけお疲れの『大切な方』の心をも、これ以上ないほど優しく、ホッと癒やすことができる……そんな、奇跡の贈りものになるはずですわ」
「おお……っ! 素晴らしい……! 視界が、一瞬にして開けました!」
マルクさんは、その大きな手を叩き、歓喜に満ちた笑顔を浮かべた。
「ミルクをベースに、カブの甘みと、身体を温める薬草を隠し味に利かせる……これなら、騎士たちだけでなく、お疲れの皆様にも、心から喜んでいただける最高のスープが作れます! 聖女様、神の叡智を授けていただき、本当にありがとうございました!」
マルクさんは何度も深く頭を下げ、料理人としての情熱を再び燃え上がらせていた。
「ですが、マルクさん。貴方自身も、メニュー選びでここ数日、あまりよく眠れなかったのでしょう? 料理長が疲れてしまっては、せっかくのお料理に込める優しさも、少しだけ曇ってしまいますわね」
「あ……はい、実は、毎晩遅くまで厨房で試作を繰り返しておりまして、少々身体が重く……」
マルクさんは照れ臭そうに笑った。私は椅子から立ち上がり、彼の方へとそっと手をかざした。
心の中で、【どこでも快眠】の加護を優しく意識する。
「貴方のその尊い職人としての誇りに、神の安息を授けます。今夜は、まるで暖炉の一番温かい特等席で眠っているかのように、深く、心地よくお眠りなさい。明日には、素晴らしい料理のインスピレーションが、貴方に満ち溢れているはずですわ」
私の手から、淡い黄金色の、ひだまりのような魔力がマルクさんへと流れ込んでいく。
その瞬間、マルクさんの身体からすうっと疲労の影が消え去り、その瞳がトロンと心地よさそうに潤んだ。「ああ……なんだか、ものすごく身体が軽くて、お腹の底まで温かい……」と呟きながら、彼はすっかり癒やされた様子で、晴れやかな笑顔で謁見の間を後にした。
──
扉が静かに閉まり、部屋に再び二人の静寂が戻る。
私はハーブティーを一口含んで息をつくと、椅子の背にもたれかかり、斜め後ろに立つユリウス様をゆっくりと振り返った。
「……ユリウス様」
「はっ、何でしょうか、エルネスタ様」
ユリウス様は、いつも通りの完璧な騎士の表情で応じる。けれど、私は彼のすぐ傍まで歩み寄り、その琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ユリウス様、ありがとうございます。……私、とっても嬉しいですわ」
「え……? 感謝をされるようなことなど、私は何も……」
不思議そうに目を瞬かせる彼に、私はそっと声を潜めて、けれど心からの愛おしさを込めて語りかけた。
「二日前、厨房のマルクさんのところへ、こっそり行ってくださったのでしょう? 『聖女が疲れているようだから、お身体に優しいスープを作ってほしい』と……私に内緒で、頼んでくださったこと、神様が全て教えてくださいましたのよ」
「な……っ!?」
ユリウス様は、まるで国家機密を完璧に暴かれたかのように、大きな身体をびくつかせた。
そして、みるみるうちに、その端正な顔全体を、耳の裏から首筋に至るまで、鮮やかな林檎のように真っ赤に染め上げた。彼は壊れた人形のように視線を彷徨わせ、言葉を詰まらせる。
「あ、あの……それは……! 私は、ただ、エルネスタ様が毎日、多くの民のために心を痛め、お疲れのように見受けられましたので……聖騎士長として、神殿の象徴である貴女様の健康を、その、守る義務が……っ!」
必死に『公務としての言い訳』を探そうとする彼の頭上に、私の【真実の心眼】が、新たな可愛い文字を浮かび上がらせる。
『エルネスタ様に内緒の注文がバレてしまい、恥ずかしさで今すぐ床の割れ目に飛び込みたいほど焦っているが、それ以上に、彼女が自分の気遣いを「嬉しい」と言ってくれたことに、胸が張り裂けそうなほどの幸福を感じている』
(ふふ、本当に……どこまで愛らしいお方なのかしら)
私は彼のその大きな右手を、私の両手でそっと、優しく包み込んだ。
冷たい朝の空気に触れていた私の手が、彼の鍛え上げられた、熱い手のひらによって、心地よく温められていく。
「ユリウス様、義務だなんて仰らないで。貴方が私のことを想って、そうして陰で動いてくださったそのお心が、私は何よりも温かく、嬉しいのです。……マルクさんが作ってくださるそのスープ、私、貴方と一緒にいただくのを、とても楽しみにしておりますね」
私の言葉に、ユリウス様はもう、完全に降伏したかのように、その美しい銀髪をかすかに揺らしながら、ただ愛おしそうに私を見つめ返した。
「……はっ。貴女様が笑顔でいてくださるなら、私は……どのような裏方仕事でも、喜んで引き受けましょう。エルネスタ様、今夜は、そのスープで、貴女のお心が世界で一番温かくなるよう、私もお側で見守らせてください」
「ええ、喜んで、ユリウス様」
窓の外を見遣ると、私の【オーラ視】が映し出す大気の色は、穏やかな、透き通った淡い桃色と金色に包まれていた。
明日は、今日よりもさらにのどかで、温かいひだまりが、私たちを包み込んでくれるはずだ。
前世のコールセンターのような忙しない数字の世界ではないけれど、こうして目の前の愛しい人の優しさに触れ、誰かの日常をほんの少しだけ温かくできる、私の新しい毎日。
偽りの聖女としての歩みだけど、この優しくて不器用な騎士様と一緒なら、どんな冬の寒さも、きっと笑顔で溶かしていける。




