不器用な騎士の恋煩い
王都を包む秋の気配は、日を追うごとにその深みを増していた。
朝の庭園へ出ると、芝生の先がかすかに白い霜で縁取られており、冬の足音がすぐそこまで近づいていることを教えてくれる。それでも、見上げる空はどこまでも高く清らかで、澄み切った青が広がっていた。
私は、聖衣の白い袖口からそっと手を出し、冷たくなり始めた朝の空気に触れる。
前世のコールセンターに勤めていた頃は、冷え込みが厳しくなる季節といえば「インフルエンザの流行で欠勤者が増えたらどうしよう」とか「暖房の効きすぎによる室内の乾燥でお客様対応中に喉を痛めないようにしなくては」といった、体調管理とシフトの穴埋めに関する現実的な心配ばかりが頭を占めていた。
けれど今の私は、ただ「季節が変わるのね」と、変わりゆく自然の美しさを純粋に愛おしむことができる。こののどかな時間の流れそのものが、神様から私への一番の贈り物かもしれない。
胸の前でそっと両手を合わせ、目を閉じて祈りを捧げる。
サァ、と乾いた葉が擦れ合うような羽音が響き、いつものように真っ白なハトが1羽、私の頭の上へと舞い降りてきた。
「おはよう、今日もありがとうね」
ハトは私の髪に頭をすりつけ、まるで「寒さに負けないで」と励ましてくれているかのように優しく鳴く。実用性は全くない【聖女のハト】だけれど、こうして毎朝、変わらずに私の元へ来てくれる小さな命の温もりは、何よりも私の心を安らげてくれた。
「エルネスタ様。朝霜が降りております。あまり長く外にいらっしゃると、お身体が冷えてしまいますよ」
聞き慣れた、けれど聞くたびに胸の奥が少しだけ弾むような、低く心地よい声。
振り返ると、そこには漆黒の騎士服を身に纏ったユリウス様が立っていた。彼の銀髪は、冷たい朝の光を反射して、まるで磨き上げられた白銀のように美しく輝いている。
「おはようございます、ユリウス様。ええ、今中へ戻るところでしたの。……ふふ、お手の具合はもう、すっかりよろしいのね」
ユリウス様は、私が差し上げた特製の軟膏のおかげで、剣の修練で痛めていた右手が完全に治ったことを示すように、力強く、けれど私を驚かせないよう優しくその手を胸に当てて一礼した。
「はっ。エルネスタ様のおかげで、手のマメは跡形もなく消え去りました。それどころか、肌が以前よりも滑らかになったようで……騎士の私がこのような贅沢な手を維持しているのは、少々気恥ずかしい限りですが」
ユリウス様は少し困ったように眉を下げ、端正な顔をわずかに赤らめた。
その瞬間、私の【真実の心眼】が静かに発動し、彼の頭上に淡い光の文字を紡ぎ出す。
『実は、エルネスタ様からいただいた陶器の器の軟膏を使い切った後も、その器を綺麗に洗って、自分の部屋の最も大切な飾り棚の、家宝の剣の隣に大切に保管している』
(まあ……! そんなに大切にしてくださっているなんて。ユリウス様は本当に、生真面目で愛らしいお方だわ)
彼の頭上の秘密を見るたびに、私は彼という人間の純粋さに深く惹かれていくのを感じていた。周囲からは冷徹と言われる彼が、私の前で見せるこうした不器用な優しさが、たまらなく愛おしい。
「ユリウス様が健やかに剣を振るえることが、この神殿の、そして私の平穏に繋がっておりますのよ。ですから、そのお手を大切にされることは、決して恥ずかしいことではありませんわ」
「エルネスタ様……。勿体なきお言葉、深く胸に刻みます」
ユリウス様は、琥珀色の瞳に深い、熱い情愛を湛えて私を見つめた。二人の間に流れるのどかで、少しだけ甘い空気に、私の頬もほんのりと熱くなる。
「さあ、ユリウス様。今日も『神託の儀』を始めましょう。迷える方々が、私たちの助けを待っていますわね」
「はっ。本日も、全力でお側にてお護りいたします」
私たちは、穏やかな木漏れ日が差し込む謁見の間へと移動した。
──
白い椅子に深く腰掛け、呼吸を整える。
前世のカスタマーセンター勤務時代、私はスタッフたちにいつもこう言っていた。
『お客様が言葉にされるお悩みは、氷山の一角に過ぎません。その下にある、ご本人すら気づいていない本当の願いや寂しさを、丁寧な傾聴によって汲み取ること。それこそが、真の満足(CS)に繋がるのです』と。
今の私は、まさにその教えを、聖女という役割を通して実践していた。
ユリウス様が静かに合図を送り、本日最初のご相談者が入ってきた。
重厚な扉をくぐって現れたその姿を見て、私は少しだけ驚き、私の後ろに控えるユリウス様は、かすかにその眉を鋭く寄せた。
入ってきたのは、見事な体躯を誇る、二十代半ばの凛々しい青年だった。彼は神殿の聖騎士ではなく、王宮を守護する『近衛騎士』の制服を纏っている。しかも、その胸元には高位の勲章が輝いており、若いながらも非常に優秀な騎士であることが一目で分かった。
しかし、現在の彼の様子は、その立派な肩書きとは裏腹に、ひどく困惑し、魂がどこかへ抜けてしまったかのように呆然としていた。
青年は私の前に来ると、騎士としての完璧な礼を取り、膝をついた。
「高貴なる聖女エルネスタ様。お初にお目にかかります。私は王宮近衛騎士団の副団長を務めております、ラインハルトと申します。本日は……己の心の乱れについて、どうしても神の教えを仰ぎたく、不躾ながら参上いたしました」
「ラインハルト……」
後ろから、ユリウス様の低く冷たい声が響いた。
ラインハルトという名は、確か数日前の神託の儀で、伯爵令嬢のセシリア様が密かに恋い焦がれていた、あの「生真面目な近衛騎士」の青年ではないかしら。
ユリウス様は一歩前に出ると、部下でもある彼に向けて、厳しい、けれどどこか呆れたような視線を向けた。
「ラインハルト、近衛の副団長ともあろう者が、このような個人的な迷いで聖女様の手を煩わせるとは何事だ。最近の貴殿の訓練の様子は、私から見ても目に見えて精彩を欠いていたが……まさか、その理由を神託に委ねるつもりか?」
「申し訳ありません。ですが、私はもう、己の剣の冴えすら見失うほどに、心が囚われてしまっているのです……!」
ラインハルト様は悲痛な声を上げ、深く俯いた。
いつもは規律に厳しいユリウス様が彼を咎めるのも無理はないけれど、ここは悩める民を救うための場所だ。私はそっと右手を挙げ、ユリウス様を宥めるように優しく微笑みかけた。
「ユリウス様、どうか落ち着いてくださいな。ラインハルト様も、国家を護る重責を担うお一人。そのお心が乱れてしまっては、王宮の護りにも障りが出かねませんわ。……ラインハルト様、どうぞ顔を上げて、貴方の胸の内にある『乱れ』について、私に詳しくお話を聞かせてくださるかしら」
私の穏やかなトーンの声に、ラインハルト様はおずおずと顔を上げた。その端正な顔立ちには、深い苦悩の影が落とされている。
「はっ……。実は、数日前に行われた王太子殿下の夜会でのことでございます。私はその夜、殿下の警護として会場の隅に立っておりました。……そこへ、ある伯爵家の令嬢がお見えになったのです。彼女は……まるで、秋の澄み切った秋空をそのまま織り上げたかのような、格別に美しい『水色』のドレスを纏っておいででした」
ラインハルト様は、その時の光景を思い出すかのように、瞳に熱い、けれど切ない光を宿した。
「彼女が私の前を通りかかった際、信じられないことに、私のような無骨な騎士に向けて、とても優しく、恥ずかしそうに微笑みかけてくださったのです。それだけでなく、夜会の後半には、私のような身分の者と、一曲だけダンスを踊ってくださるという奇跡まで起きました……。その瞬間から、私の頭の中は彼女のことでいっぱいになってしまい……。剣を握っても彼女の笑顔が浮かび、夜も眠れず、訓練中も長官に『たるんでいる』と叱責される始末。これは、私が身分不相応な邪念を抱いたための、神からの戒めなのでしょうか。この恋心を、私は断ち切るべきなのでしょうか……」
ラインハルト様は深く頭を垂れ、その大きな拳をギュッと握り締めた。
(まあ……! セシリア様、本当にあの水色のドレスを着て、勇気を出して彼に微笑みかけたのね! そしてダンスまで……なんて素敵なの!)
私は胸の奥で、まるで自分のことのように嬉しくなり、小さく拍手を送りたい気持ちになった。あの時、セシリア様の背中をほんの少しだけ押して差し上げた結果が、こうして素晴らしい実を結んでいたのだ。
けれど、当のラインハルト様は、自分の身分(騎士)と彼女の身分(伯爵令嬢)の違い、そして何より、自分が恋煩いによって騎士としての任務に集中できなくなっていることに、深い罪悪感を抱いて悩んでいるようだった。
「本当は嬉しい出来事があったのに、それを素直に受け入れられず、かえって不安になってしまう」ということがある。そういう時、一番大切なのは、その感情が『正しいものである』と肯定し、心に安全な場所を作ってあげることだ。
私はラインハルト様をじっと見つめた。私の【真実の心眼】が、彼の頭上に色鮮やかな光の文字を浮かび上がらせる。
『実は、夜会でセシリアから手渡された、彼女の手作りの刺繍が施された「水色のハンカチ」を、制服の左胸のポケットに肌身離さず入れており、隙があればそれを引っ張り出しては香りを嗅ぎ、ニヤニヤしている。その現場をユリウス長官に見つかりそうになり、心臓が止まるほど焦った』
(ふふ、まあ……。お二人とも、お互いの香りを嗅いで悶々とするなんて、本当に似た者同士の愛らしいカップルですわね)
ユリウス様といい、ラインハルト様といい、この国の高潔な騎士様たちは、どうしてこうも純粋で、可愛らしい秘密ばかりを抱えているのだろう。私は笑いを堪えるのに必死になりながら、そっと胸の前で手を組んだ。
そして、かすかに【スポットライト】の能力を発動させる。天井の高窓から、祝福のような美しい純白の光が、まっすぐにラインハルト様の肩を照らし出した。
「ラインハルト様。神様は、貴方に戒めを与えているわけではありませんわ」
私が静かに目を開けると、ラインハルト様は光の中で、驚いたように私を見上げていた。
「人が人を想う心は、神様が私たちに授けてくださった、最も美しく尊い奇跡の一つです。貴方が彼女の美しさに心を奪われ、その笑顔を護りたいと願うこと。それは邪念などではなく、騎士としての、そして一人の男性としての、とても清らかな光なのですわ」
「聖女様……。ですが、私は……彼女を想うあまり、己の任務を疎かにしてしまっているのです。このような不届き者が、彼女に相応しいはずが……」
「それは、貴方がその大きすぎる幸福に、少しだけ戸惑っておいでだからですわ」
私は優しく首を振り、椅子からゆっくりと立ち上がって、彼の前へと歩み寄った。
「ラインハルト様。貴方の左胸のポケットには、今、彼女からの『確かな想い』が眠っているのでしょう? 彼女もまた、周囲の様々な声に迷いながらも、勇気を出して、貴方のためにその『水色』を選ばれたのです。彼女のその一生懸命な想いを、貴方が『身分違いだから』と断ち切ってしまっては、それこそ彼女の心を傷つけてしまうことになりますわ」
「な……っ!」
ラインハルト様は、誰にも言っていないはずの「胸ポケットのハンカチ」の存在、そしてセシリア様が自分を想って水色のドレスを選んだという真実を完璧に見抜かれ、完全に言葉を失ってしまった。その顔は、驚きと歓喜で劇的に赤くなっている。
「彼女が求めているのは、完璧で冷徹な騎士ではありません。ご自身が勇気を出して手渡したその想いを、同じように真っ直ぐに、強い心で受け止めてくれる、誠実な貴方の姿です。ラインハルト様、次に彼女にお会いした時には、どうか迷わずに、その胸ポケットにある温もりを力に変えて、心からの感謝を伝えて差し上げなさい。貴方が強く、気高くあることこそが、彼女を一番安心させる盾となるのですから」
私の言葉が、ラインハルト様の心の奥にあった迷いを、一瞬にして消し去ったようだった。
彼の瞳から、先ほどまでの濁った苦悩が消え去り、代わりに、近衛騎士としての本来の、圧倒的な輝きが戻ってきた。
「……ああ、神よ。私は、なんと愚かだったのか……! 彼女の想いに怯え、勝手に背を向けようとしていたとは。聖女エルネスタ様、貴女様のお言葉で、私の目の前の霧が完全に晴れました! 私は、彼女を護るにふさわしい、最高の騎士となるために、再びこの剣を捧げます!」
ラインハルト様は力強く拳を床につき、深く、深く頭を下げた。その表情には、もう一切の迷いはなかった。
「ですが、ラインハルト様。ここ数日、そのお悩みでよく眠れなかったのでしょう? 目の下に隈を作ったままでは、彼女に格好悪い姿を見せてしまいますわね」
「え……あ、はい……実は、ここ三日ほど、まともに眠れておらず……」
彼は気まずそうに頭を掻いた。私は微笑みながら、心の中で【どこでも快眠】の加護を意識し、彼の方へそっと手をかざした。
「貴方のその一途なお心に、神の安息を授けます。今夜は、まるで彼女の優しい微笑みに包まれているかのように、心も身体も深く、心地よくお眠りなさい。明日には、素晴らしい活力が貴方に満ち溢れているはずですわ」
私の手から、淡い桜色の優しい魔力が、ラインハルト様へと流れ込んでいく。
その瞬間、彼の強張っていた肩が すうっ と解け、その瞳が心地よさそうに潤んだ。「ああ……なんと、温かい……」と呟きながら、彼はすっかり心も身体も癒やされた様子で、晴れやかな笑顔で謁見の間を後にした。
───
扉が閉まり、静寂が戻った部屋で、私は椅子に戻って一息ついた。
恋に悩む若者の背中を押すのは、前世のカスタマーセンターでのどんな対応よりも、ずっと心が弾む仕事だわと、温かい満足感に浸る。
「……エルネスタ様」
後ろから、少しだけ低めの、どこか複雑なニュアンスを含んだユリウス様の声が聞こえた。
振り返ると、彼はその琥珀色の瞳に、深い感動と……そして、ほんの少しの『羨ましさ』を滲ませて私を見つめていた。
「見事な神託でした。我が部下の不始末を見事に赦し、それどころか、彼の恋路をこれ以上ないほど美しく導かれるとは。……ですが、エルネスタ様」
ユリウス様は、少しだけ私に近づき、その端正な顔をわずかに強張らせながら、小さな声で言った。
「ラインハルトの奴め……、エルネスタ様から、あのように直接、温かい手をかざされて加護をいただけるなど……。聖騎士長である私でさえ、まだそのような……その、特別な癒やしは受けていないというのに。少々、上官として嫉妬を覚えてしまいます」
ユリウス様は、視線を彷徨わせながら、耳の裏まで真っ赤にしてそう呟いた。
彼の頭上の【真実の心眼】には、新たな文字が浮かんでいる。
『自分も、ラインハルトのようにエルネスタ様の前で盛大に恋煩いを告白して、あの優しい瞳で全肯定され、そのまま彼女の手の温もりを直に感じてみたいと、不謹慎極まりない妄想を爆発させている』
(まあ……! ユリウス様ったら、本当にそんなことを考えておられたのね)
いつも私を完璧に護ってくれる彼が、私の前でだけ見せる、この子供のような独占欲。それがたまらなく愛おしくて、私の胸の奥は、まるでお日様の光を浴びたようにぽかぽかと温かくなった。
私は椅子から立ち上がり、彼の目の前へと一歩進み出た。
そして、彼の大きな右手を、私の両手でそっと、優しく包み込んだ。
「ユリウス様。私は、貴方がいつも私のために、一番近くで一生懸命に頑張ってくださっていることを、誰よりもよく知っていますわ。だから……」
私は彼の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ、心からの、一番甘くて優しい微笑みを浮かべた。
「貴方がもし、本当に疲れてしまった時には……誰よりも先に、私を頼ってくださいね? 私はいつでも、貴方のためだけの、一番温かい特等席を用意して待っていますから」
私の手のひらから、彼の大きな手へと、私の本心の温もりがじんわりと伝わっていく。
ユリウス様はハッと息を呑み、その美しい銀髪をかすかに揺らしながら、今度は顔全体を真っ赤に染めて立ち尽くした。
「あ……、はっ……! 命に代えても、貴女様のお側を離れません……っ!」
壊れやすい宝物を授かったかのように、私の手をそっと握り返してくれる彼の優しさに、私の心ものどかな幸せで満たされていく。
窓の外に目をやると、私の【オーラ視】が映し出す大気の色は、穏やかな桃色と金色に包まれていた。
明日は、今日よりもさらに温かい、素晴らしい小春日和になるわね。
偽りの聖女としての毎日だけど、この不器用で愛らしい騎士様と一緒なら、どんな小さな悩みも、きっと優しい笑顔に変えていける。
私は、自分の手を優しく包み込んでくれる彼の温もりを感じながら、これからののどかな日々に、心からの愛おしさを募らせるのだった。




