木漏れ日の書物室と、迷子の小さな鍵
秋の深まりは、神殿の古い石造りの回廊を、いっそう情緒豊かな景色へと染め上げていた。
中庭に植えられた大きな楓の木が、鮮やかな緋色や琥珀色に色づき、風が吹くたびに、まるで色とりどりの紙吹雪のようにひらひらと舞い落ちていく。
私は、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、その落ち葉を踏みしめて歩いていた。
前世での私は、季節の移り変わりなど、通勤電車の窓から眺めるビル街の街路樹でしか感じることができなかった。毎日、張り詰めた空気の中で何百件もの声と向き合い、家に帰ればただ眠るだけの生活。
それに比べれば、今こうして、自分の足で土を踏み、季節の香りを五感で受け止められる時間は、何にも代えがたい贅沢に思えるのだった。
「エルネスタ様。少し肌寒くなってまいりました。上着をお召しください」
背後から、耳に心地よい静かな声が響いた。
振り返ると、いつものように漆黒の騎士服を端正に着こなしたユリウス様が、柔らかなカシミアのショールを両手に捧げて立っていた。彼の銀髪は、秋の柔らかな木漏れ日を浴びて、まるで繊細な絹糸のようにきらめいている。
「ありがとう、ユリウス様。いつも細やかなお心遣いをいただいて、嬉しいわ」
私は微笑みながら、彼がそっと私の肩にかけてくれたショールの温もりを纏った。
その際、彼がショールを整えるために差し出した右手に、ふと視線が向く。昨日まで彼の皮膚を硬く強張らせていた小さなマメが、驚くほど綺麗に治りかけているのが見えた。
「まあ、ユリウス様。手の傷、随分と良くなりましたのね」
私が尋ねると、ユリウス様は少し照れたように、けれどどこか誇らしげにその大きな手のひらを見つめた。
彼の頭上に、静かに【真実の心眼】の淡い光の文字が浮かび上がる。
『聖女様からいただいた軟膏が勿体なくて、最初はほんの一塗りに留めようとしたが、塗った瞬間に痛みが消えて感動し、夜中に何度もその香りを嗅いではエルネスタ様の慈愛を思い出して悶々としていた』
(ふふ、まあ……。香りを嗅いでくださるなんて、そんなに気に入っていただけたのね)
いつも冷静で、神殿中から「鉄の聖騎士」と恐れられている彼が、自室で小さな陶器の器を眺めながら、一生懸命に手を労っている姿を想像すると、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。不器用だけど、どこまでも純粋な彼とのやり取りは、私の毎日の小さなお楽しみになっていた。
「はっ。エルネスタ様が施してくださった秘薬の効果は絶大でした。昨夜、薄く塗って休んだところ、今朝には痛みが完全に引き、剣を握る際にも全く障りがありません。この手は、生涯貴女をお護りするために捧げると、改めて誓わせていただきます」
「ふふ、お薬が役に立って本当に良かったわ。でも、あまり無理はなさらないでね? 貴方が健やかでいてくださることが、私にとっての一番の安心なのですから」
私の言葉に、ユリウス様はまたしても耳の裏をほんのりと朱に染め、小さく「はい」とだけ答えて視線を落とした。その初々しい反応が、のどかな秋の朝にいっそうの彩りを添えてくれるようだった。
───
その日の午後、私は神託の儀の合間の短い休息を利用して、神殿の最奥にある大図書室へと足を運んでいた。
そこは、数百年分の歴史書や神学書が収められた、知識の宝庫だ。高い天井まで届く本棚には、年季の入った革表紙の本がぎっしりと並び、部屋全体に古い紙と微かなインクの香りが満ちている。私は前世から本を読むことが好きだったため、この静かで落ち着いた空間がとても気に入っていた。
「おや……、聖女様ではございませんか」
低く、少し掠れた声が、本棚の影から響いた。
現れたのは、この大図書室を長年管理している老司祭の、オーウェン様だった。白髪をきっちりと蓄え、いつも偏屈そうな皺を眉間に刻んでいる彼は、神殿内でも「気難しい学者肌の老人」として、若い神官たちから敬遠されがちな人物だ。
今日のオーウェン様は、いつも以上に不機嫌そうなオーラを全身から漂わせていた。何度も本棚の隙間を覗き込んだり、机の上の書類をガサゴソとひっくり返したりして、酷く落ち着きがない様子だった。
「オーウェン様、ごきげんよう。素晴らしい秋の日ですわね。何か、お困りごとでもおありかしら?」
私が優しく声をかけると、オーウェン様は気まずそうに咳払いをし、少し硬い声で応じた。
「……いえ、聖女様の手を煩わせるようなことではございません。ただの、老人の不手際でございますので」
彼はそう言って言葉を濁したが、その横顔には隠しきれない焦燥感と、寝不足による深い疲労の色が滲んでいた。
これほど頑なに拒まれると、前世の私なら「何か深い事情があるのかもしれない」と、まずは相手のペースに合わせてじっくりと話を聴く体勢をとるところだ。
私はオーウェン様をじっと見つめた。すると、私の【真実の心眼】が、彼の頭上に鮮やかな光の文字を紡ぎ出した。
『数日前から、神殿の創立期に関する最重要の古文書が保管されている、特別な書庫の「鍵」を失くしてしまい、必死に探しているがどうしても見つからない。さらに、その心労のせいか、あるいは最近神殿の裏庭から迷い込んできて、図書室の片隅でこっそり飼い始めた小さな子猫が夜中に鳴き止まないせいか、ここ数日一睡もできておらず、頭が働かなくて余計にイライラしている』
(まあ……、そんな大変な秘密を抱えておられたのね)
国家の重要機密に繋がるような書庫の鍵を失くしたとなれば、もし公になれば老司祭の立場は危うくなる。彼が若い神官たちに相談できず、一人で抱え込んで塞ぎ込んでいた理由が、すべて氷解した。それに、偏屈と言われる彼が、実はこっそり小さな子猫を保護して育てているという事実が、なんとも微笑ましく、人間味に溢れていて愛おしい。
理由が分かれば、私にできることはたくさんある。
私はそっと胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。そして、今度は【オーラ視】の能力をほんの少しだけ意識してみる。
大図書室の空間を満たす空気の色を視認すると、部屋の隅にある古い閲覧用の机のあたりに、かすかに他とは違う、温かみのある小さな「生き物のオーラ(淡いミルクティーのような色)」が丸まっているのが見えた。そして、そのすぐ近くに、金属特有の硬質な、小さな銀色の光がキラリと輝いている。
(見つけたわ。鍵は、その子猫ちゃんのすぐ近くにあるのね)
私は目を開けると、オーウェン様に優しく微笑みかけた。
「オーウェン様。神様は、貴方がこの大切な図書室と、そこに隠された『小さな命』をとても大切に守られていることを、よく知っておいでですわ」
「え……?」
オーウェン様が、驚いたように目を見開いた。
「老人の不手際、などとご自身を責める必要はありません。迷子になってしまった大切なものは、きっと、貴方が最近出会った、小さくて愛らしいお友達が、貴方と一緒にかくれんぼをしたくて隠してしまっただけなのですから」
私はそう言いながら、図書室の隅にある、古びた閲覧机の方へとゆっくりと歩き出した。
オーウェン様は、私の言葉の真意を察したのか、顔を青くしたり赤くしたりしながら、慌てて私の後を追ってきた。
机の下には、古い毛布を丸めて作った、即席の小さな猫のベッドが置かれていた。そこからのぞき込むと、手のひらに乗るほどの小さな、ふわふわとした虎猫の赤ちゃんが、くりくりとした丸い瞳で私たちを見上げていた。子猫は私を見ると、小さく「ミャア」と愛らしく鳴いた。
「まあ、なんて可愛らしい子。……オーウェン様、ちょっと失礼いたしますね」
私は優しく微笑み、子猫のベッドのクッションをそっと持ち上げてみた。
すると、その柔らかい布の隙間から、古めかしい、けれど美しく磨かれた銀色の「鍵」が、コロンと音を立てて転がり出てきたのだ。
「あ……ああ……! それは、私の……!」
オーウェン様は思わず声を上げ、その場にへたり込むようにして膝をついた。彼は震える手でその銀の鍵を拾い上げ、まるで奇跡の結晶を眺めるかのように、何度も何度も確かめていた。
「見つかりましたな……。まさか、この小さな新入りが、私のポケットから鍵を引っ張り出して、ここに隠していたとは……。聖女様、私は……私は、なんと感謝を申し上げれば良いか……」
偏屈と言われていた老司祭の目から、一筋の涙が溢れ、その皺の刻まれた顔が、一瞬にして穏やかなおじいちゃんの表情へと変わった。
「見つかって本当に良かったですわ、オーウェン様。この子も、貴方のことが大好きだから、貴方の持ち物をおもちゃにして遊びたかっただけなのです。どうか、叱らないであげてくださいね」
「叱るなど、滅相もない……。ただ、この子が夜中に寂しがって何度も鳴くもので、私もここ数日、全く眠れず……頭が朦朧としておったのです。神殿の重要書類を扱う身でありながら、情けない限りです」
オーウェン様は子猫を愛おしそうに撫でながら、深くため息をついた。
「でしたら、オーウェン様。そして、小さな子猫ちゃん」
私はしゃがみ込み、オーウェン様の手と、その腕の中にいる子猫の小さな身体を、私の両手でそっと包み込んだ。
そして、心の中で【どこでも快眠】の加護を優しく意識した。
「貴方方のその優しい心に、神様の安息を授けます。今日の夜は、どんなに冷たい風が吹こうとも、まるでお日様の匂いがする特等席にいるかのように、心も身体もぽかぽかと温かくなって、深い眠りに包まれることでしょう」
私の手のひらから、淡いピンク色の、春の木漏れ日のような優しい魔力が、老人と小さな子猫へと流れ込んでいく。
その瞬間、オーウェン様の眉間の皺がみるみるうちに解け、その瞳がトロンと心地よさそうに潤んだ。腕の中の子猫も、気持ち良さそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、その場ですやすやと眠り始めてしまった。
「ああ……なんという、心地よさだ……。身体の重みが、霧のように消えていく……」
オーウェン様は、まるで何十年もの重荷から解放されたかのような、晴れやかな、穏やかな笑顔を見せてくれた。
「今夜は、この子と一緒に、ゆっくりとお休みになってくださいね」
「はっ……。聖女エルネスタ様、貴女様は、まさに我が神殿の光でございます。この御恩、生涯忘れません」
老司祭は深く、深く私に頭を下げた。
────
図書室を後にし、回廊を歩いていると、私の斜め後ろを歩くユリウス様が、大きなため息をついた。
「エルネスタ様。私はまたしても、貴女様の底知れぬ慈悲深さに、心を打たれました」
ユリウス様は、その琥珀色の瞳に、熱い、純粋な感動の光を宿して私を見つめていた。
「オーウェン司祭は、神殿内でも気難しさで有名で、我々騎士団の者も声をかけるのを躊躇うほどのお方でした。しかしエルネスタ様は、彼の頑なな心の裏にある焦りと、優しさを一瞬で見抜き、鍵だけでなく、彼の心の平穏までをも取り戻された。さらに、あの小さな迷い子の命までをも救われるとは……。貴女の歩む場所には、本当に豊かなひだまりが生まれるのですね」
ユリウス様は、胸に手を当てて深く私に一礼した。その仕草のすべてに、私への深い、深い恋慕と尊敬が込められているのが分かった。
彼の頭上の【真実の心眼】には、新たな文字が浮かんでいる。
『オーウェン司祭が羨ましくて仕方がない。自分も、もっとエルネスタ様に両手で手を包み込まれて、あの優しい加護を全力で受けてみたいと、不謹慎な妄想をしてしまっている』
(まあ……、ユリウス様ったら。そんなことを考えておられたのね)
いつも私を護るために凛と立っている彼が、内心ではそんな可愛いワガママを抱えている。そのギャップがたまらなく愛おしくて、私はショールの端を少し握り締めながら、彼を振り返って悪戯っぽく微笑んだ。
「ユリウス様。もし貴方が、お仕事や鍛錬でどうしても眠れないほど疲れてしまった時には……いつでも私に仰ってくださいね? 貴方のためなら、私は喜んで、一番温かい加護を何度でも授けて差し上げますわ」
私の言葉に、ユリウス様は一瞬、本当に息が止まったかのように動きを止めた。
そして、今度は耳だけでなく、その端正な顔全体を真っ赤に染めて、狼狽したように視線を彷徨わせた。
「あ……、はっ……! ありがたき幸せに、存じます……っ!」
蚊の鳴くような声でそう答える彼の姿が、のどかな秋の夕暮れの中に、とても優しく溶けていく。
ふと空を見上げると、夕日が楓の木々をいっそう赤く染め上げ、大気は穏やかな金色を維持していた。
私は、偽りの聖女としての自分の地味な能力が、この優しくて温かい世界の中で、誰かの小さな幸せを守るための特別な力に変わっていくのを、確かに感じていた。
この地味だけど心地よい奇跡。
こういった、ささやかな力があれば、きっと明日も、こののどかな王都にたくさんの笑顔を咲かせることができる。
私は、隣で真っ赤になりながらも、私を守るように一歩引いて歩く騎士様の気配を感じながら、これからの毎日に心からの期待を寄せるのだった。




