第4話 ヒビの向こう側
三か月ほど過ぎた朝。
母の叫び声で、目が覚めた。
「陸斗!!」
ただ事じゃない。
直感が布団を蹴飛ばし、僕は部屋を飛び出した。
ドアを開けると、廊下の先――兄の部屋の前で、母が崩れ落ちていた。
「な、何かあったの?」
崩れる母に駆け寄った。
母は顔を上げず、小さく肩を震わせていた。
その視線の先に、何も言わず、ただ手の中の紙を握り潰している父の姿があった。
ぐしゃぐしゃになった、一枚の紙。
父はそれを握ったまま、ゆっくりと天を仰いだ。
その仕草だけが、やけに静かだった。
「……何でもないよ」
父は無理に笑って嘘をついた。
「陸斗が寝坊するのは珍しいからさ」
わずかに震える声。
それが答えだった。
「海斗は準備して学校へ行きな」
「……兄ちゃん?」
ドアに声をかけても返事はなかった。
その日、兄は部屋から出てこなかった。
次の日も。
その次の日も。
学校にも行かなくなった。
野球も、やらなくなった。
ドアの向こうで、何かが止まっていて、
外では、もう止められない何かが広がっていた。
≪あの天才がプレッシャーに負けた≫
≪負け犬≫
≪期待に潰された天才の末路≫
噂だけが、勝手に広がっていく。
数日後。
兄の部屋の前に立ってドアをノックした。
コン、コン。
「お兄ちゃん……」
返事はない。
「どうしたの?」
茶色のドアが滲んで崩れていく。
「皆、勝手なことばっかり言ってるよ」
崩れたドアを見たまま、言葉を続ける。
「お兄ちゃんは、そんな人じゃないよね?」
「早く出てきてよ……」
「また野球、教えてよ……」
廊下の灯りの音が鮮明に聞こえるくらいの、
長い沈黙。
やがて。
ドアの隙間から、一枚の紙が差し出された。
≪誰が何を言おうが、これが現実だ≫
≪お前は現実を受け止めて野球をしろ≫
何も分からなかった。
「……どういう意味?」
かすれた声が廊下を走り抜けた。
返事はない。
「……なんで?」
ぐしゃ、と紙が潰れる音と一緒に声が漏れた。
視界が歪む。
それでも、ドアの向こうに兄はいる。
ちゃんといる。
……なのに、届かない。
――何が起きているのか、分からない。
――お兄ちゃんは?
あの日の“ヒビ”は、
音もなく、確実に広がっていった。




