第3話 あの日のヒビ
夕方。
練習をさぼって、近くの公園にいた。
自転車が夕日を浴びて、青から紫へと色を変えていく。
ブランコに腰を下ろし、ゆっくりと揺れる。
頭の中には、朝のことが残っていた。
「うるせぇよ」
あの声が、何度も繰り返される。
あの目。
兄ちゃんじゃなかった。
……いや。
兄ちゃんだった。
分からないまま、怖さだけが残っていた。
靴の先で地面を蹴ると、ブランコが少しだけ高くなる。
揺れに合わせて、景色がゆっくり上下する。
「……はぁ」
息が、うまく吸えなかった。
胸の奥がざわついたまま、落ち着かない。
そのときだった。
「海斗」
揺れが止まる。
ゆっくりと顔を上げると、兄が立っていた。
息を切らせながら。
「……ここにいたのか」
何も言えなかった。
朝と同じ人には見えなかった。
でも、違うとも言い切れなかった。
兄は少しだけ視線を外してから、静かに口を開く。
「……朝は、ごめん」
その一言で、時間が止まった。
風の音だけが残る。
「ちょっとイライラしてたんだ」
軽く言っているのに、軽く聞こえなかった。
「気にするなよ」
そう言って、兄は笑った。
その笑顔は、ちゃんと“兄ちゃん”だった。
「……うん」
それしか言えなかった。
沈黙が落ちて、何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
「腹減ってるだろ」
「……。」
「ハンバーガー、奢ってやるよ」
「……ほんと?」
「ああ」
少しだけ、笑った。
その笑顔に、胸の奥のざわつきが、ゆっくりほどけていく。
でも、その笑い方は、
ほんの少しだけ、遅れている気がした。
「その代わり、晩飯もちゃんと食えよ」
「……うん」
小さく頷いた。
――その瞬間だけは、全部戻った気がした。
家に帰り、テーブルの上を見た2人は
「ハ、ハンバーグ?!」
一瞬、動きが止まる。
兄と目が合う。
「……かぶったな」
小さく笑う兄に
僕も、つられて笑った。
母も、少し笑った。
いつも通りの、空気だった。
でも。
その“いつも通り”が、どこか遠かった。
その夜。
二階へ上がる途中、兄の部屋の前で足が止まる。
理由は分からない。
ノックしようとして、手が止まった。
……なんでだろう。
さっきまで普通だったのに。
笑っていたのに。
それなのに。
ドアの向こうにいる兄が、急に遠く感じた。
胸が、締め付けられる。
「……兄ちゃん」
声をかけようとして、やめた。
そのまま、自分の部屋に入る。
ドアを閉めた瞬間、力が抜けた。
ベッドに倒れ込む。
理由も分からないまま、涙が出た。
布団に潜り込み、真っ暗な中で目を開けると、
白いドーナツが闇にかじられていた。
でも次の日も、その次の日も、兄は普通だった。
野球もしていたし、笑っていた。
――なのに。
何かが、ほんの少しだけ噛み合っていなかった。
視線の合い方。
言葉の間。
笑うタイミング。
どれも、ほんのわずかなズレだった。
気づかないふりはできた。
でも、一度見てしまったそれは、もう消えなかった。
それはまだ、小さな違和感だった。
でも――
あの日のそれは、
確かに“ヒビ”だった。




