第2話 2度も
春休み最終日。
朝の空気は冷たかった。
なのに、胸の奥だけが、うまく冷えなかった。
理由は分からない。
ただ、昨日の兄の言葉が、ずっと残っている。
「俺がいなくなっても、だ」
――あの言い方は、変だった。
庭に出ると、ひんやりとした朝の空気が肌に触れた。
冬の名残がまだ少しだけ残っていて、吐く息はうっすら白い。
兄は、いつものようにストレッチをしていた。
片足を伸ばし、ゆっくりと身体を倒す。
無駄のない動きだった。
「おはよう。」
声をかけると、兄は顔を上げた。
「おはよう。」
その声は、いつも通りだった。
「野球部の顔合わせ、どうだった?」
「いいチームだったよ。」
兄は軽く笑って答え、小さく頷いた。
――よかった。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどける。
――この間の違和感は、気のせいだったのかもしれない。
兄は、変わらない。
ーーそう、思っていた。
「兄ちゃん上手いからさ、呼び出されたりしないかな。……殴られたりとか。」
軽い冗談のつもりだった。
でも、本当は少しだけ怖かった。
兄は上手い。
だから、目立つ。
目立てば——目をつけられる。
それが、嫌だった。
――そのはずだった。
兄は一瞬だけ、何かを飲み込むように目を伏せた。
――その次の瞬間、
視界が揺れた。
胸ぐらを掴まれていた。
距離が、一気に縮まる。
「うるせぇよ!」
聞いたことのない声だった。
顔が近くて、息がかかる。
目が――違う。
「何も知らないくせに――」
一瞬、言葉が止まる。
「分かったような口聞くんじゃねぇよ!」
「二度もさせるわけないだろ!」
その言葉だけが、耳に残った。
“二度も”?
……何の話?
「お前は黙って野球やってろ!」
乱暴に手が離される。
足元がぐらつき、心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
ドクン、ドクンと、さっきまでとは違う速さで。
何も言えなかった。
言葉が出てこない。
頭の中が、うまく回らない。
ただ――
分かってしまった。
目の前にいるのは、
もう――今までの兄じゃない。
身体が、勝手に動いた。
考えるより先に、足が地面を蹴っていた。
庭を飛び出す。
自転車にまたがった。
僕は後ろを振り返らず、そのまま走った。
――振り返ったら、何かが決定的に終わる気がして。




