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死球(DEADBALL)〜同じ悪夢を見る者たち〜  作者: Mr.ランジェリー


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第1話 この日が来たぞ

目の前で、誰かが血を流して倒れている。

紅が、ゆっくりと床を染めていく。

止めなきゃいけないのに、なぜか目で追ってしまっている。

体が、動かない。


鼻の奥に、鉄みたいな血の匂いが張りついて、息を吸うたびにそれが喉の奥まで落ちてくる気がした。

気持ち悪いのに、目を逸らせない。

額に触れているのは、冷たい金属だった。

硬くて、重くて、現実感のない銃口。


「陸斗……本当に……ごめん……」


その声が、自分のものではないと気づくまで、少し時間がかかった。


……僕?


指先だけが、かすかに震えている。

その震えだけがやけに現実で、他のすべてが遠く感じた。

引き金にかかる感触だけが、妙に鮮明だった。

離さなきゃいけない。

そう分かっているのに、指が言うことをきかない。

頭の奥で叫んでいる。

でも、その声はどこか遠くて、現実の方がずっと近かった。


《パァン》


乾いた音が空気を裂いた瞬間、衝撃が頭の奥で弾けた。


――まるで、死球みたいに。


何も聞こえなくなる。

音のない世界で、心臓の音だけが遅れて鳴り始めた。

ドクン、ドクンと、やけに大きく――

やがて、それも壊れたみたいに消えた。

世界が揺れる。

匂いも分からない。

視界の奥で、何かがほどけていく。

――ああ。

この天井、知ってる。

白い天井に、まるで虫が食ったかのような模様。

交番の天井だ。


そのとき、頭の奥で声が弾けた。


――思い出したか。


金色に光るような、不思議な声だった。


――この日が来たぞ。


視界が、消えた。



三月某日。


夕日が河原を赤く染めていた。

僕は「1」と書かれた背番号を握りしめていた。

ピッチャー。

そしてキャプテン。

ほんの少しだけ――兄に近づけた気がした。

僕、空谷海斗。

四月から小学六年生になる。

四つ上の兄、陸斗は、中学生の頃から世間に注目されている野球選手で、ずっと僕の憧れだった。

そんな兄と、家の庭でボールを投げ合う時間が、何より好きだった。


「なあ、海斗。」


ボールを投げながら、兄が言う。

いつもと同じ声。

聞き慣れているはずなのに、その日はなぜか少しだけ引っかかった。


「俺とお前がプロ野球選手になってさ。父さんと母さんを球場に呼んで、ニュースになる試合、やろうぜ。」


それが、兄の口癖だった。

何度も聞いたはずなのに、そのたびに胸が熱くなる。


「兄ちゃんはなれるだろうけど……僕なんかが、本当に野球選手になれるのかな。」


言ったあとで、いつも少しだけ後悔していた。

兄は笑って、軽く僕の頭を叩いた。


「なれるよ。」


迷いのない、即答だった。


「お前、ずっと野球のこと考えてるだろ。そういうやつが一番強いんだよ。」


その言葉が、まっすぐ胸に入ってくる。

理由なんてなかった。

ただ、その一言だけで十分だった。



家へ向かって、夕日と競争するみたいにペダルを踏む。

風が気持ちよくて、さっきの言葉が何度も頭の中で繰り返される。


――なれるよ。


庭に着くと、兄はベンチに腰を下ろしていた。

僕はユニフォームを掲げる。


「見て!」


兄は目を細めて笑った。


「おめでとう、海斗。やったな」


そう言って、優しく抱きしめてくれた。

その温もりが、いつもより少しだけ長く感じた。


「フォーム見せてくれよ。俺のグローブ使っていいからさ」


「いいの?!」


思わず声が弾む。


「ああ、いいよ」


当たり前みたいに言う兄に、少しだけくすぐったくなる。

兄のグローブは、思っていたより重かった。

でも、それが嬉しかった。

ゆっくりと腕を振る。

そのとき、ふっと空気が変わった気がした。


「……」


兄が何も言わない。

さっきまでの軽さが、少しだけ消えていた。

その視線に耐えきれず、思わず天を仰いだ、その時。


「海斗……深呼吸」


低い声だった。

言われるままに息を吸って、吐いて、ゆっくり首を回す。

もう一度フォームを作る。

しばらくして、兄が小さく笑った。


「完璧だな」


その一言で、張り詰めていた力が抜けた。

――よかった。

そう思った、次の瞬間。


「……でもな」


ほんの一瞬の間が、やけに長く感じた。


「これだけは覚えとけ」


優しいはずの声なのに、その奥に硬いものが混じっていた。


「これから先、何があっても――絶対に野球を辞めるな」


理由は分からない。

それでも、不安だけが胸の奥に広がっていった。


「俺がいなくなっても、だ」


その一言が、深く突き刺さった。


「俺を追い越せ。

 ――まあ、時間の問題だけどな」


笑っている。

なのに、どこか違った。


「無理だよ……」


自分でも分かるくらい、弱い声だった。

そのとき、兄は僕の額に自分の額をそっと合わせた。

近い。

逃げられない距離。


「……現実を見ろ」


低く、静かな声。


「これから起きる現実を、ちゃんと受け止めろ」


背中が冷たくなった。


「……お前ならできる」


その言葉だけが、兄のままだった。


「じゃあな」


そう言って、兄は家の中へ入っていった。

その背中は、いつも通りだった。

優しくて、頼もしくて、変わらないはずの背中。


――なのに。

ほんの少しだけ、違って見えた。

触れてはいけない何かを、抱えているみたいに。


夕食を終えて、二階へ上がる。


兄の部屋の前で、足が止まった。

ノックすればいい。

ただ、それだけなのに、手が動かない。

呼吸が乱れてくる。

理由も分からないのに、涙がこぼれた。

さっきまで、普通だったのに。

何でだろう。


自分の部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。

息が浅い。

心臓の音が、やけにうるさい。


耳をふさいで、布団の中に潜り込む。

真っ暗な中で目を開けると、視界の真ん中に、ドーナツみたいな白い光が浮かんでいた。


――そのとき、思った。


兄は、何かを隠している。

それも、ただの秘密じゃない。


もっと、取り返しのつかない何かを――

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