第20話 届かなかった手
岩谷優愛
野球部のマネージャーになってから、
私の視線の先には、いつも修也がいた。
誰よりも練習に打ち込み、
誰よりも悔しがり、
誰よりも努力を続ける姿。
その背中を見ているうちに、
胸の奥で何かが静かに灯っていた。
――練習後のグラウンド
彼はいつものように一人残り、
ネットに向かって黙々とボールを投げていた。
その姿が、どうしようもなく眩しくて、
気づけば声をかけていた。
「今日はいつまで投げるの?
もうすぐ暗くなっちゃうよ。」
夕日を背にした彼が、
ボールと一緒に言葉を投げる。
「いつも待たなくていいよ。先に帰れよ。」
私は唇を噛み、うつむいたまま呟いた。
「だって……」
「だって何だよ?戸締りは俺がやるから。」
胸が苦しくて。
でも、それでも言葉がこぼれた。
「私ね……修也のことが好きなんだ……」
ボールを投げる手が止まる。
彼はゆっくり振り向いた。
「……俺なんかでいいの?」
私は首を横に振った。
「修也じゃなきゃ、ダメなの……」
彼は少しだけ困った顔で笑って、
照れくさそうに頷いた。
その瞬間、世界が少しだけ明るくなった気がした。
――ずっと、そばにいられる。
そう、信じていた。
あの事件が起きるまでは。
――あの日のことを、私は忘れない。
練習が終わってしばらくした頃、
校舎の奥から鈍い音が響いた。
「岡田、見てきてくれ。」
監督の声。
戻ってきた岡田君の顔は、青ざめていた。
「監督!空谷が!」
全員が走り出す。
階段の下に、空谷君が倒れていた。
私は、ゆっくりと視線を上げた。
そこに――修也が立っていた。
顔は真っ白で、唇が震えていた。
「修也!どうしたの?!何があったの?!」
呼んでも、彼は何も答えなかった。
救急車のサイレンが近づく音が、冷たく響いた。
その日を境に、修也の笑顔は消えた。
数日後。
校内には、重たい空気が流れていた。
聞こえてくる言葉は、どれも同じだった。
――棚橋がやったらしい。
――最低だ。
――三年生が可哀そう。
スマホの画面にも、同じ言葉が並ぶ。
文字が、修也を削っていくのが分かった。
理由なんて、誰も知らない。
それでも、皆が彼を責めていた。
日にちはかかっても、いつかきっと…。
放課後。
窓の外からは、もう野球部の掛け声は聞こえない。
「修也。一緒に帰ろ。」
声をかけると、彼は小さく頷いた。
並んで歩く。
また、新しい傷が増えていた…
アスファルトに落ちる影は二つ。
けれど、その距離は少しずつ離れていく。
何を話せばいいのか分からない。
手を繋いでも、
その手はどこか他人みたいに冷たかった。
やがて、彼はそっと手をほどいた。
携帯を取り出す。
「ねぇ、修也。もう見ない方がいいよ……」
私は言葉を探しながら続けた。
「皆、理由も知らないくせに……」
彼は画面から目を離さないまま、呟いた。
「優愛は……俺の味方?」
「当たり前でしょ。」
その言葉は、思っていたより軽かった。
彼の口角が、少し動いた。
でも、それは笑顔じゃなかった。
「ありがとう……」
「でも……もう、限界だ……」
その声に、背筋が冷えた。
知らない人の声みたいだった。
次の瞬間――
携帯が地面に叩きつけられた。
乾いた音。
彼は、そのまま走り出した。
「修也!」
追いかける。
必死に、追いかける。
でも――
途中で、足が止まった。
ほんの一瞬だけ。
彼は、振り返りかけた気がした。
でも、違った。
そのまま、彼の背中は夜に溶けていった。
公園のベンチに座り込み、
両手を強く握りしめる。
何を言えばよかったのか、分からない。
どうすればよかったのかも、分からない。
ただ一つだけ、分かることがあった。
私は――
修也に届いていなかった。
「お願い……戻ってきて……」
その声は、誰にも届かなかった。
遠くで、サイレンの音が鳴っていた。
街の光が滲んで見えた。
両手をギュッと握りしめた。
「手を…
繋いでよ……」




