第19話 未遂じゃなくなった日
棚橋修也
白球が乾いた音を立てて、ミットに吸い込まれる。
その音が鳴るたび、胸の奥に小さな亀裂が走るように痛んだ。
「ナイスピッチ!」
先輩や同級生の声の先で、陸斗が笑っていた。
無駄のないフォーム。
どれだけ打たれても焦らず、すぐ修正してくる冷静さ。
失敗しても、なぜか笑っていられる強さ。
その笑顔が、僕には眩しすぎた。
部活が終わり、部室へ戻ろうとした時だった。
「空谷は打撃もいいから、3年間ずっと先発で起用しよう。
他のピッチャー陣には悪いが、空谷が怪我をしないように、控えてもらうか。」
監督室から聞こえた声が、胸の奥に突き刺さる。
息が、うまくできない。
気づけば僕は扉を殴りつけ、そのまま走り去っていた。
「棚橋!」
監督の声が背中に刺さったが、振り返れなかった。
涙を噛みしめ、部室へ駆け込む。
――その日からだ。
僕の中に、黒い影がゆっくりと積もり始めたのは。
――七月某日。
紅白戦。
打者は陸斗。
今日、二度目の対決。前の打席では長打を打たれている。
手に、力が入る。
キャッチャーのサインは見えていた。
それでも、決めきれなかった。
視界の端に、涼しい顔で立つ陸斗が入る。
――なんで、そんな顔できるんだよ。
気づけば、サインを無視していた。
大きく振りかぶり、力任せに腕を振る。
《パァン》
乾いた音が、グラウンドに弾けた。
次の瞬間、時間が遅くなった。
陸斗が崩れる。
周りの声が、一斉に遠くなる。
誰かが叫んでいる。
みんなが駆け寄っていく。
でも――
僕の足は、動かなかった。
笑ったつもりはなかった。
けれど、口角が少し動いた…
自分が、どんな顔をしているのか分からない。
やがて陸斗は立ち上がり、何事もなかったように一塁へ歩いていく。
その背中を見たとき、胸の奥が広がった。
――今なら、まだ戻れる。
そう思った。
帽子を脱ぎ、僕は一塁へ駆け寄った。
放課後
陸斗が教室へ忘れ物を取りに行くのを見て、
僕は無意識のまま後を追っていた。
――謝ろう。
そのはずだった。
夕日に染まる階段の踊り場で、立ち止まる。
やがて、弁当袋を手にした陸斗が降りてきた。
「んっ、修也。お疲れ。お前も忘れ物か?
じゃあな。」
軽い声。
軽い足取り。
何も背負っていないみたいな顔で、通り過ぎようとする。
「おい、陸斗!」
自分でも驚くほど荒れた声だった。
「どうした?修也?」
いつも通りの優しい声。
――その優しさが、許せなかった。
「なんで……なんでお前はいつも余裕なんだよ!」
気づけば胸ぐらを掴んでいた。
陸斗は驚きもせず、ゆっくりと手をほどく。
「修也。何があったんだよ。落ち着けって。」
その落ち着きが、火に油を注いだ。
――違う。こんなんじゃない。
言うはずだった言葉が、どこにも見つからない。
一瞬、手を引こうとした。
でも――
止まらなかった。
気づいたときには、体が先に動いていた。
「あっ――」
鈍い音が、階段の下から響いた。
世界が、一瞬で白く消えた。
数時間後
陸斗は意識を取り戻したと聞き、病院へ向かった。
廊下では、小学生の弟がしゃがみ込み、泣きじゃくっていた。
診察室の中で、医師が静かに口を開く。
「陸斗君の下半身に力が入りません。
今後、歩くのは……正直、かなり難しいかもしれません。」
その言葉が、胸の奥で何かを砕いた。
僕は、その場から逃げ出していた。
その後、野球部は活動停止。
SNSには、知らない人間の言葉が延々と流れ続けた。
≪暴力なんて最低≫
≪同じ部員の未来を奪ったのか≫
≪信じられない。人としてどうなん?≫
直接言われているわけじゃない。
それでも、全部が自分に向けられている気がした。
名前と一緒に、容赦なく流れていく。
先輩からは、毎日のように呼び出され、殴られ、謝らされ……
学校に行くことも、息をすることさえ苦しくなった。
数日後の朝。
僕は、先輩たちから受けていることを、すべてSNSに書いた。
これで、少しは楽になれると思った。
放課後。
マネージャーであり彼女の優愛と歩いていた。
優愛は、いつも通り明るく話しかけてくれる。
その声が、遠い。
気づけばまた、携帯を開いていた。
≪被害者面するな≫
≪自分が何したか忘れた?≫
≪正直…見てられん≫
手が震える。
心臓も、呼吸も、全部が震えていた。
「……もう、限界だ」
携帯を投げ捨て、僕は走り出した。
どこへ向かうのかも分からずに。
優愛の声が背中に届いた気がした。
それでも、振り返れなかった。
あの瞬間から、何かが壊れていた。
――そう思わないと、立っていられなかった。
車の窓に映った自分を見て、
少しだけ、目を逸らした。




