第11話 夢はお前に託す
陸斗が引き籠ってから、六年後の夏。
県大会を勝ち抜いた海斗は、
ついに――甲子園出場を決めた。
出発の前日。
ユニフォーム姿のまま、
いつもの時間に、兄の部屋の前へ座り込む。
冷たい床の感触が、じんわりと伝わる。
「兄ちゃん……」
いつもより、小さな声で呼びかけた。
「明日から、しばらく会話できないよ」
ドアを見つめたまま、言葉を続ける。
「だって、すぐ帰ってきたら……
夢が叶ってないってことだからさ」
ドアに当たって返ってきた言葉は、
廊下の空気を震わせた。
腕に振動が伝わった。
少しだけ、息を吐いた。
そのとき――
「……カチャ」
わずかな音。
ドアが、ほんの少しだけ開いた。
止まっていた空気が、ゆっくりと動いた。
隙間から、手が伸びてくる。
前よりも太く、
鍛え上げられた腕。
そして――
「海斗」
懐かしい声が、
直接触れるみたいに耳に届いた。
「……帽子、貸してくれないか?」
頭が真っ白になる。
無意識に、身体が動いた。
帽子を脱ぎ、
そっとその手の上に乗せた。
ドアは、音もなく閉まった。
「……え?」
現実が、遅れて追いついてくる。
さっきまでの空気が、嘘みたいに消えていた。
廊下の静けさだけが、残る。
廊下が、自分の部屋より広く感じた。
しばらくして――
もう一度、ドアが開いた。
差し出されたのは、帽子とグローブ。
見たことのないグローブだった。
受け取った瞬間、
またドアが閉まる。
戸惑いが視線を手元にやった。
その瞬間、
帽子が、するりと滑り落ちた。
慌てて拾い上げると、
つばの裏に文字。
Entrust your dream
「……兄ちゃん」
震える声が、ドアをノックする。
グローブに目をやると、青い糸が目についた。
«魂»
そのとき――
「エントラスト ユア ドリーム……」
ドアの向こうから、声が届く。
「夢はお前に託す」
少しだけ、照れた声。
「そのグローブ……
俺が高校で使ってたやつだ」
ちょっとした沈黙が、廊下を駆け回り、
陸斗の声を連れてきた。
「俺の魂……連れてってくれるか?」
その一言が、海斗を奮い立たせた。
海斗は帽子を被り、
グローブをはめる。
そして――
ドアノブに、手をかけた。
触れた瞬間、
指先がわずかに震える。
開けたら――
全部、変わる気がした。
それでも――
ゆっくりと、力を込める。
ドアが、わずかに軋んだ。
時間が、僅かに止まった。
そこには――
六年前と同じユニフォームを着た、陸斗が立っていた。
変わっていないようで、
確実に変わっている姿。
「お前が優勝して帰ってきたら、皆の前に出ようと思ってたんだけどな」
振り返って、少しだけ笑う。
「どうしても先に、お前に会いたくてな」
一歩、近づく。
また、一歩。
距離が、なくなる。
「どうだ」
半歩、後ろに下がった。
「……一緒に、写真撮らないか」
その言葉。
張りつめていた何かが、ほどけた。
抑えきれず、声が漏れた。
その声が、廊下を滑っていく。
階段の下で、気配がほどけた。
一瞬だけ、リビングに6年前の明るさが戻った。
いくつもの涙が、こぼれる。
静かな廊下に、呼吸が重なった。
海斗は、何度も頷いた。
シャッター音が、何度も響く。
笑いながら。
泣きながら。
止まっていた時間を、
少しずつ取り戻すみたいに。
話したいことは、山ほどあった。
でも――
今は、ただ。
ここにいる。
それだけで、よかった。
気がつけば、
日付が変わっていた。




