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【完結】村一つ救っただけの『元聖女』ですが、定年退職したので思い出の地で隠居します。 ☀  作者: 逆立ちハムスター


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7/12

幻のハーブと地獄の料理人

六十の肉体にとって、昨日の廃坑への道のりと、呪いや悪魔との対峙は、あまりにも過酷だったらしい。


翌朝、私は全身を鉛で満たされたような重苦しい疲労感とともに目を覚ました。ベッドから身体を起こそうとするだけで、腰から背中にかけて鈍い痛みが走る。

「ふう……っ、情けないわね」

小さく独りごちて、なんとかベッドの端に腰を下ろした、その時だった。


カチャ、コトコト……。トントン、トントン……。


静まり返った家の中、寝室のドアの向こう側――キッチンの方角から、規則的な物音が聞こえてきた。

トトリ村の朝は早いが、村人が勝手に上がり込んでくることは決してない。昨日の今日だ、もしかすると廃坑から漏れ出した呪いの残滓が、何かよからぬものをこの家に呼び寄せてしまったのだろうか。


私は息を潜め、ベッドの脇に立てかけてあった古い木製の杖をしっかりと握りしめた。痛む足を引きずりながら、音を立てないようにゆっくりと寝室のドアに手を伸ばし、少しだけ隙間を開ける。


しかし、そこに広がっていたのは、悪魔の瘴気などではなかった。


「……えっ?」


鼻腔をくすぐったのは、香ばしく焼けたバターの匂いと、新鮮な野菜が煮込まれる甘い香り、そして、私の心を芯から解きほぐすような、深く清冽なハーブの芳香だった。


杖を構えたままキッチンへと顔を出した私は、目の前の光景に完全に呆気に取られてしまった。


「やあ、おはよう、マリア。随分とぐっすり眠っていたね」


我が家のこぢんまりとしたキッチンの中央で、群青色の羽を揺らしながら振り返ったのは、レギストールだった。

驚くべきは彼の姿ではない。彼の手元――いや、彼から放たれた極彩色の魔力の糸によって、空中に浮かび上がった無数の調理器具たちだ。


包丁が自律してまな板の上のトマトを芸術的な薄さにスライスし、小鍋の中では木べらがふわりと宙を舞いながらスープをかき混ぜている。さらに隣では、フライパンが勝手に火から離れてリズミカルに宙返りし、ふっくらとしたオムレツの形を整えていた。まるで、魔法使いの料理パフォーマンスの舞台に入り込んでしまったかのような、見事な厨房のオーケストラ。


「レギストール……あなた、一体、ここで何をしているの?」


私が杖を下ろして尋ねると、彼は大げさに肩をすくめてみせた。


「見ての通り、朝食の準備だよ。ほら、この身体は美しい羽毛に覆われているだろう? 直接手を使って料理をすると、どうしても羽が食材に入り込んでしまう危険があるからね。魔力で器具を直接操ったほうが、衛生的にも問題がないのさ」


彼は得意げにそう言うと、空中に浮かんでいたティーポットを傾け、二つの木製のカップに琥珀色の液体を注ぎ入れた。


「そういう意味じゃ……」


「もうすぐ料理も完成する。君はまだ疲れが残っているだろうから、そこに座って、まずはお茶でも飲んでいてくれ」


言われるがままに、私はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。目の前に置かれたカップからは、湯気とともに、これまで嗅いだことのないほど高貴で、心を洗われるような香りが立ち上っている。


一口、ゆっくりと口に含む。

――その瞬間、全身の細胞が歓喜に打ち震えるのを感じた。深い森の朝露を思わせる爽やかさと、ほんのりとした甘み。それが胃の腑に落ちた途端、昨日の激しい疲労と筋肉の痛みが、まるで嘘のようにふっと軽くなったのだ。


「これ……あなたが淹れたの?」


「ああ。美味しいだろう? 今日の料理の味付けの隠し味にも使ってみたんだ。とっておきさ」


私はカップの中の琥珀色の液体をまじまじと見つめ、自らの記憶の引き出しを必死に探った。薬草学を修め、十年も植物と向き合ってきた私の知識が、一つの信じられない答えを導き出す。


「まさか……これ、『シルフィウム』じゃないの……?」


「おや、さすがは元聖女様だ。正解だよ」


レギストールは感心したように目を細めた。

私は思わず立ち上がりそうになった。シルフィウムといえば、古代の書物にのみ名が記されている『幻のハーブ』だ。万病を癒やし、魂を浄化するとされるその草は、今や地上にはほぼ存在せず、教会の頂点に立つ教皇様でさえ、どんなに求めても手に入れることは不可能と言われている代物なのだ。


「こんな途方もないほど珍しいもの、どうやって手に入れたの!?」


「簡単なことさ。この草は元々、神の一柱であるガイアードの領域にしか自生していないものなんだけどね。地獄に、無類のハーブ好きの悪魔がいて。彼がこっそり神の領域に配下を送っては希少ハーブを刈り取り、裏で売り捌くというビジネスをやっているんだ。だから、意外かもしれないけれど、地獄には結構な在庫があるのさ」


原初神と言われるガイアード様の領域から密猟する悪魔のビジネス。なんともバチ当たりのような、スケールの大きい話である。


「昔から、君は植物やハーブの研究が大好きだっただろう? だから、久しぶりに君に会いに行く手土産として、これなら絶対に喜ぶだろうと思って持ってきたんだ」


レギストールが指を鳴らすと、空中に浮かんでいたお皿たちが、テーブルの上へと行儀よく着陸した。

並べられたのは、私が昔から大好物なものばかりだった。先ほどのハーブが香る濃厚なミネストローネに、外はカリッと中はふわふわのチーズオムレツ、そして新鮮なサラダ。


「さあ、冷めないうちに食べてくれ。私なりの労いさ」


「……ありがとう、レギストール。有り難くいただくわね」


私はスプーンを手に取り、スープを一口飲んだ。

――美味しい。涙が出そうなくらい、美味しい。

よくあるメニューなのに、いつもと違う味付け。地獄の味付けというべきか。または、このシルフィウムの独特な風味なのかもしれない。私の心と身体にはずっと優しく染み渡った。


私が無我夢中で料理を平らげていくのを見て、レギストールは向かいの席に座り、自らもハーブティーを啜りながら、本当に嬉しそうに頭を揺らしていた。


「美味しいかい?」


「ええ、とても。あなたがこんなに料理上手だなんて、四十年前には想像もつかなかったわ」


「地獄の監理官は定時で帰れるからね、暇な時間は料理の腕を磨いていたのさ」


そんな軽口を叩き合いながら、私たちは穏やかな朝食の時間を共有した。

やがて食事が一段落し、食後のハーブティーを楽しんでいた時だった。ふと、レギストールがカップをテーブルに置き、真面目な声色で私に問いかけてきた。


「なあ、マリア。再会した時から、ずっと聞きたかったんだが……どうして君は、教会を離れたんだい?」


彼の瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。


「君のあの強靭な精神力と、その聡明さがあれば、教会の中でどれだけ高い地位にでも上り詰められたはずだ。枢機卿の座だって、夢じゃなかっただろうに。どうして、すべての栄誉を捨てて、この村で、ただの一般人として暮らしているんだ?」


私はカップの両手で包み込み、その温もりを感じながら、少しだけ視線を落とした。


「素直に答えるわ。……まず、私にそんな力はなかった。あれから必死に努力したけど、力には限界があったのよ。それに私はね、教会の『数字』と『権力』に疲れてしまった」


「ふむ」


「聖堂にいる時間が長ければ長いほど、救うべき民が『ただの数字』になっていくように感じるの。より多くの人を救った者が偉い。より大きな奇跡を起こした者が正義。枢機卿たちは、政治的な影響力ばかりを気にして、目の前で今日を生きるのに必死な民たちの小さな痛みには、見向きもしなくなる。……私は、いずれ自分がそうなるんじゃないかって……それが、たまらなく苦しかったの」


私は窓の外に目を向けた。朝日に照らされ、黄金色に輝き始めたトトリ村の小麦畑が見える。


「世界を救うような巨大な奇跡の夢は、私には向いていなかった。私はただ、手を伸ばせば届く距離にいる人たちの、小さな涙を拭ってあげたかっただけなの。だから、あの窮屈な場所から、逃げ出したのよ。私は決して、貴方が思うように強くはない」


レギストールは静かに相槌を打ち、それから優しく問いかけた。


「後悔は、ないのかい?」


「全然」


私はきっぱりと答え、彼に向かって心からの微笑みを向けた。


「ここにはね、私のすべてがあるわ。ハンスさんが毎朝届けてくれる新鮮な野菜、リリちゃんと一緒に直してあげた子羊のお腹の痛み、エルザさんがお裾分けしてくれる甘い無花果のジャム。誰かが怪我をすれば、私が裏庭の薬草で手当てをしてあげる。肩書きなんてなくても……この村の穏やかな日々の中で、みんなと笑い合って生きていくこと。それが、私が一生をかけて見つけた、本当の『聖女』としての居場所なの」


私の言葉を、レギストールは目を細め、まるですごく美しい音楽でも聴いているかのように、静かに聞いていた。


「そうか。……本当に、君は君のままだ。君が幸せそうで、私も嬉しいよ」


地獄の悪魔と、引退した元聖女。

相容れないはずの二人が、幻のハーブティーの香りに包まれながら、小さなキッチンで語り合う。

外ではまだ、廃坑に潜む呪いの問題がくすぶっているというのに、この瞬間だけは、信じられないほど穏やかで、満ち足りた朝の時間が流れていた。


きっと解決できる。根拠はないけれど、不思議な自信が心を満たしていた。

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