小さな住人と追憶の空
白銀の指輪から放たれた淡い光が地表に触れ、いくつかの光の粒子へと弾ける。その中心から、ぽんと頼りなげに転がり出てきたのは、禍々しい魔獣でも、呪いを振りまく凶悪な怪異でもなかった。
「……きゅ、きゅー?」
ひっくり返った状態で短い手足をばたつかせ、ようやく起き上がったのは、体長三十センチメートルほどのごく小さな生き物だった。
コウモリのような形の小さな羽を背中に生やし、頭部には申し訳程度の一対の角。全体的にふくよかで、紫色のスモモのような質感を思わせるその姿は、教会の教科書においても最下層に分類される下級悪魔――『インプ』そのものであった。
あまりの拍子抜けな光景に、私とフィオナ様は同時に声を失い、ただ目の前の小さな生き物を見つめるしかなかった。当のインプは、自分がどこにいるのか分からないといった様子で、つぶらな黄色い瞳をきょろきょろと輝かせている。
「インプ……? これが、廃坑の奥にいた呪いの根源……なのですか?」
フィオナ様が、まるで狐につままれたような顔で呟く。彼女が中央の神学校で学んだ知識が、目の前の現実と激しく衝突しているのが分かった。
それもそのはずだ。インプといえば、せいぜい農家の台所に入り込んでミルクを舐め取ったり、旅人の靴紐を結び直していたずらを仕掛けたりする程度の、悪魔と呼ぶのすら躊躇われるほど無害な小動物に近い存在なのだから。当然、村一つを恐怖に陥れるようなドス黒い呪いを生成する力など、彼らの小さな身体のどこを探しても持ち合わせているはずがなかった。
「おや……? おかしいな」
レギストールさえも、自らの自慢の孔雀の首を幾度も傾げ、長い指先で顎を摩っている。彼にとっても、この結末は完全に想定外だったのだろう。
インプは、目の前にそびえ立つレギストールの巨大な姿に気づくと、「きゅ、きゅいー!」と情けない悲鳴を上げ、私の外套の裾へと潜り込んできた。私の古い靴の甲に小さな額を押し付け、ブルブルと震えている。その様子があまりにも健気で、私は思わず杖を傍らに置き、屈み込んでその紫色の背中を優しく撫でてあげた。
「よしよし、怖かったわねえ。もう大丈夫よ」
「ま、マリア様! 悪魔にそんなに近づいては危険です! 悪魔は悪魔です!」
フィオナ様が慌てて声を上げたが、私は首を横に振った。
「いいのよ、フィオナ様。この子が悪いことをしていないのは、その綺麗な瞳を見れば分かるわ。……レギストール、あなた、この子が本当に洞窟の奥で悪意を持って呪いを放っていたと思ったの?」
「いや……そのはずだったんだがね」
レギストールは長い羽毛をばさつかせ、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「インプという生き物は、強い呪念や毒素に対して、驚くほど敏感で臆病な性質を持っているの。身の危険を感じると、周囲にある一番頑丈で安全な『シェルター』に隠れる習性があるわ。今回は、たまたまあなたが持っていたその聖なる指輪が、この子にとって最高の隠れ家に見えたのね」
私はインプを両手でそっと掬い上げ、その温もりを感じながら言葉を続けた。
「おそらくこの子は、元々地獄の遺物管理室にいた頃から、周囲の凶悪な悪魔たちの恐ろしい気配に怯えていたのよ。だから、その指輪の中にずっと引きこもっていた。そして、あなたがそれを現世に持ち出し、この廃坑へ持ってきたものだから、指輪の隙間から外へ飛び出して、また呪いに怯えてまた入ったのね」
私の推察を聞き、レギストールは「あ……」と声を漏らし、ポンと自分の額を叩いた。
「なるほど、合点がいったよ。遺物管理室の棚の隅で、その指輪が妙に微動だにしていた理由がね。てっきり聖なる魔力の残滓が共鳴しているものとばかり思っていたが、このインプが中で震えていたわけか」
私はインプをフィオナ様の方へと優しく差し出してみせた。フィオナ様はびくっと肩を震わせたが、インプが「きゅぅ……」と小さく鳴いて愛らしく小首を傾げると、彼女の頬の緊張が少しだけ緩んだ。
「ねえ、レギストール」
私は立ち上がり、少し意地の悪い笑みを浮かべて古い友人を見上げた。
「あなた、この四十年の間に、地獄でずいぶんと高い魔力を身につけたようだけれど……。もしかして、実際の『実戦経験』やトラブルの対処に関しては、四十年前と一歩も変わっていないんじゃないかしら?」
その指摘は、レギストールの大柄な身体に見事な命中を誇ったようだった。彼は孔雀の羽毛を一本ずつ逆立てるようにして狼狽し、細い指先を泳がせた。
「い、痛いところを突くねえ、マリア。……まあ、君の言う通りさ。認めざるを得ないな。地獄での私の仕事は、さっきも言った通り『過怠魂魄監理官』だからね。毎日毎日、流れてくる魂の数を書類と照合し、パイプラインのバルブを調整するだけの完全なデスクワークさ。戦いや呪いの対処なんて、この四十年、ただの一度もやっていないんだよ」
彼はため息をつき、肩を落とした。二メートルを超える強力な悪魔が、事務仕事のブランクを言い訳にする姿は、なんとも奇妙で微笑ましい。
「私がこの廃坑に入ったあと、奥で急に黒い霧がブワッと溢れ出してきたものだからね。私はすっかり動転してしまって……。そこにたまたまこのインプが指輪から出入りしたものだから、『こいつが犯人に違いない!』と思い込んで、深く考えずに結果を言ってしまった。いやはや、恥ずかしい限りだ」
「ふふ、やっぱりね。相変わらずおっちょこちょいなんだから」
私はクスクスと笑った。けれど、笑ってばかりもいられない。インプが原因でないとするならば、村長たちが怯えていたあの「流行り病と同じ呪い」の正体は、一体何なのだろうか。
私たちは三人で、廃坑の入り口を囲むようにして頭を突き合わせた。フィオナ様も、今や悪魔への警戒を少し解き、熱心に議論に耳を傾けている。
「レギストール、あなたが洞窟の奥に入った時、呪いの様子はどうだった? 何か奇妙な点などはなかったかしら」
私が尋ねると、彼は真面目な顔になり、記憶を辿るように話し始めた。
「そうだな……。今思えば、非常に奇妙だったよ。誰か強力な術者が悪意を持って呪いを放射しているのなら、魔力の波形には必ず『中心』や『指向性』があるはずだ。しかし、あの洞窟の中は違った。まるで部屋の中に水が溜まっていくように、地形の低い場所に呪いが濃く溜まり、高い場所は薄い。ほぼ均等に、じわじわと大気へ染み出しているような分布だった」
その言葉を聞いた瞬間、私とレギストールの脳裏に、同時にある共通の結論が浮かび上がった。
私は彼と視線を合わせ、互いに頷き合った。
「それって……」
「ああ、恐らく間違いない。誰かが呪いをかけたわけじゃないんだろう」
「どこからか、あるいは何かの拍子に、元々あった呪いが『漏れ出している』のね」
しばらくの間、私とレギストールは腕を組み、沈黙の中で考え込んだ。
四十年前、私がこの地で解決したはずの呪いの残滓。それが、何らかの理由で結界に小さな亀裂が入り、地下水のように少しずつ地上へと滲み出てきている。実害がまだ出ていないのは、それが「漏洩」の初期段階だからだろう。しかし、このまま放置すれば、いずれ四十年前のあの悪夢のような大流行が、再びトトリ村を襲うことになる。
私たちが深刻な顔で黙り込んでしまったため、フィオナ様は居心地が悪そうに小さな足元をもぞもぞと動かしていた。彼女は何か自分にできることはないかと探すように、周囲の枯れ木を見渡した。
「あの……マリア様、レギストール様。私、このままここにいてもお邪魔でしょうし、万が一、他の魔物が近づいてこないか、周囲のパトロールに行ってまいります!」
「ええ、気をつけてね、フィオナ様。あまり遠くへは行かないのよ」
私が優しく声をかけると、彼女は「はい」と力強く答え、聖典を抱え直して、少しだけ誇らしげに周囲の森の奥へと歩いていった。先ほどまでの絶望から立ち直り、前を向こうとする彼女の姿は、実に健気で眩しかった。
───
私は近くにあった古く大きな切り株へと、ゆっくりと腰を下ろした。往復の歩行と、ここまでの緊張のせいで、私の膝は笑う一歩手前だった。やはり、この肉体にとって、最前線での、一線級聖女の真似事は、少しばかり荷が重い。
私が一息つくと、レギストールがその巨体を小さく丸めるようにして、私の隣、切り株のすぐ横の地面へと静かに座り込んだ。孔雀の長い尾羽が、灰色の土の上に扇状に広がる。
「あの新人の彼女は……大丈夫なのかい?」
レギストールが、去っていったフィオナ様の方向を気遣わしげに見つめながら、静かな声で問いかけてきた。その声には、先ほどまでのふざけた調子は一切なく、一人の大人の、そしてかつて理を見てきた者としての深い思慮が含まれていた。
「ええ、大丈夫よ」
私は外套の襟を少しだけ正し、遠くの木々を見つめた。
「ただ、少し刺激が強すぎたことは認めるわ。学校を出たばかりの彼女にとって、世界は『正しい教会』と『邪悪な悪魔』の二つだけでできていたはずだから。悲しいけれど、遅かれ早かれ、彼女はいつかこの複雑な世界の在り方を知らなければならなかった。その時が、少しだけ早く来たというだけ。結果的に見れば、今ここで知ることができて、本当に良かったと思っているわ」
私は隣のレギストールを振り返り、その群青色の美しい頭部を見つめた。
「今回は、あなただったから良かったのよ、レギストール。あなたには、私達の言葉が通じるし、人の心を理解しようとする理性が最初からあった。……でも、もしここへ最初に来たのが、他の、命を何とも思わない凶暴な悪魔だったら、あの子は今頃、本当に取り返しのつかない酷い目に遭っていたかもしれない」
私の言葉に、レギストールは深く共感するように、孔雀の頭を縦に振った。
「確かにね。私の経験から言っても、地獄の同胞たちの多くは、極めてプライドが高く、短気だ。人間に攻撃されたという事実だけで憤慨し、相手の事情などお構いなしに酷い目に合わせるような奴ばかりだからね。君の言う通り、条件が悪ければ、非常に危険な状況だった」
彼は背中の光の羽を小さく揺らし、言葉を紡ぐ。
「あの聖女は、とても良いポテンシャルを秘めているよ。魔力の質も高く、芯が強い。……それでも、今の彼女の『力』と『心の在り方』のままでは、もし本物の下級悪魔と対峙した時、相手を倒しきれずにただ逆上させるだけの結果になっていただろう。戦いとは、ただ強い光をぶつければ勝てるというものではないから」
「ふふ、手厳しいわね。あの子の名誉のために言っておくけれど、私の若い頃に比べれば、フィオナ様の方がずっと強い魔力を持っているのよ。私はあんなに強い魔法は使えなかったわ」
私がそう言うと、レギストールはどこか遠い目をしながら、小さく笑った。
「もし……もしも四十年前、私が初めて地上に現れたあの日にね、マリア。君が彼女と同じ力を持っていて、あの強力な光の攻撃を私にぶつけていたら……。私は間違いなく大怪我をしていただろうし、それと同時に、人間のことが大嫌いになって、へそを曲げて本当の『悪魔』になっていたかもしれない。そして、地獄へ帰ることもなく、トラウマを抱えたまま、この地上を徹底的に破壊し尽くす事を考えていたかもしれない」
彼はそこで言葉を切り、切れ長の瞳で私をまっすぐに見つめた。
「だからこそ、私は今でも君に感謝しているんだよ、マリア。あの時、戦う前に、私をただの邪悪な存在として切り捨てる前に……まず『言葉』を交わしてくれたことに」
「まずは話をしてくれてありがとう」――レギストールの口から出たその言葉の重みに、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「当然のことをしたまでよ」
私は杖を両手で包み込み、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「それが、相手の真の力を見誤らないための、私なりの最善の方法だったの。もし私があなたの『悪魔』という肩書きだけに盲信し、ただ力でねじ伏せようとしていたら、私の小さな力ではあなたに敵わず、このトトリ村もろとも、すべてを危険に晒してしまっていたに違いないわ。言葉を交わすことは、弱者である私が生き残るための、そして大切なものを守るための、最大の武器だった」
「相変わらず、賢くて強い女性だ。君は変わらないね、マリア」
「ンフフ、すっかりおばあちゃんよ。あちこち体が痛くて敵わないわ」
私たちは顔を見合わせ、声を揃えて小さく笑った。
───
ふと視線を上げると、山の端の向こう側へと、太陽が完全に沈みきったところだった。極夜の季節が近く、もうすぐ太陽が昇らなくなる、どこか幻想的な季節が訪れる。
空は今、息を呑むほどに美しい『逢魔が時』の色彩に染まっている。地平線に近い部分は燃えるような残照の茜色、それが上方に向かって鮮やかな橙色、紫色のグラデーションを描き、天頂近くはすでに星々が瞬き始めた深い群青色へと溶け込んでいた。
山の冷たい夜風が、私たちの間をすうっと吹き抜けていく。枯れ木だらけの不気味な廃坑の前であるはずなのに、今の私たちの周囲だけは、まるで時間の流れが切り取られたかのように、不思議な静寂と温もりに満たされていた。
私たちはしばらくの間、言葉を発することを止め、ただその美しい夕映えの空を眺めていた。
目の前には、まだ解決していない「漏れ出した呪い」という深刻な問題が横たわっている。この後も、明日も、また村の人々のために知恵を絞り、泥にまみれて呪いと戦わなければならないかもしれない。けれど、ほんの少しの間だけ、私たちはその重責を忘れ、かつて共に過ごした若き日の思い出と、目の前で静かに移り変わる世界の美しさに、そっと心を委ね、感傷に浸るのだった。
遠くの藪から、警戒を終えたフィオナ様が「マリア様。何も異常はありませんでした」と元気に駆けてくる声が聞こえるまで、私たちは『古い友人』として、静かに並んで座っていた。




