古き友人
私の古い木製の杖が、大気中に満ちる濃密な魔力に共鳴して、微かに震えを帯びる。背中に隠れたフィオナ様の荒い呼吸を感じながら、私は正面に佇む、極彩色の光を放つ異形を見据えていた。
その時、空間の歪みの中心にいた悪魔が、目鼻のない仮面へと、細長い指先を添えた。
生き物のような精巧な磁器のようだったその仮面が、不意に ぱきり と軽い音を立てて外される。
「やあ、聖女マリア。久しぶりだな。――いや、今は元聖女と言うべきなのかな?」
硬質だが、どこか鈴の音のように澄んだ、そして酷く懐かしい声が枯れ木の中に響き渡った。
現れたのは、息を呑むほどに美しい、深い群青色と金色の羽毛に覆われた孔雀の頭部だった。切れ長の気品ある瞳が、まるで古い友人に街角で出くわしたかのように、優しく、穏やかに私を見つめている。
「……レギストール……?」
私の口から、四十年間、一度も呼ぶことのなかった名前が自然と溢れ出していた。
一瞬、背筋に冷たいものが走る。それは過去の闘争による恐怖の古傷というよりも、あまりにも予想外の再会がもたらした、現実感の欠如による不安だった。けれど、その独特の優美な佇まい、軽やかな声音、そして禍々しいはずなのにどこかお調子者の気配をはらんだ魔力は、間違いなく私の記憶にある彼そのものだった。
レギストール。
四十年前、このトトリ村に原因不明の流行り病と呪いを撒き散らした、張本人の悪魔である。
あの時、私は命がけで彼と対峙した。しかし戦いの中で分かったのは、彼が悪意を持って村を滅ぼそうとしたわけではない、ということだった。彼はただ、人々から信仰を集めるという一心だった。、無知と好奇心の結果、呪いが蔓延し、水が汚れ、村人に病が広がってしまった。
私が「あなたのせいで人が死にかけている」と必死に説得したとき、彼は「そんなつもりはなかったんだ」と酷く狼狽し、素直に謝罪して、地獄へと這い帰っていった。
その後、中央から遅れてやってきた教会の本隊は、その悪魔を討伐したと聞いた。
「あなた、あの時、教会に殺されたんじゃなかったの? 地獄で蘇って、またこの村に呪いをかけにきたの?」
私は半信半疑のまま、杖を構え直して問い詰めた。
「心外だなあ、マリア」
レギストールは、大袈裟に両手を広げて肩をすくめてみせた。翼は広げていない。その仕草は、二メートルを超える巨体でありながら、不思議とユーモラスで憎めない。
「あいつら、私が自発的に帰ろうとしていたところに後ろから光の矢を撃ち込んできたんだよ。まあ、ちょっと背中の羽が焦げたから、入院する羽目にはなったけれど。死んでなんかいないさ。悪魔に死なんてない。よく知ってるだろ。それに、また呪いをかけにきただって? とんでもない誤解だ!」
彼は背中の羽をパタパタと動かし、軽快な調子で笑った。
「むしろ逆だ。私はね、この村の呪いを『解きに』来たんだよ」
「冗談」
あまりの言葉に、私が呆気にとられていると、背後から「ひ、ぅ……」という情けない声が聞こえてきた。
完全に置いてけぼりを食らっているフィオナ様だ。彼女は涙で濡れた顔を上げ、私と悪魔のやり取りを、まるで天と地がひっくり返ったかのような目で見つめている。
「マ、マリア様……? あの悪魔と、知り合い……なのですか? 呪いを解く、だなんて……あれは、世界を滅ぼすほどの悍ましい存在のはず……」
「大丈夫よ、フィオナ様」
私は腰を落とし、彼女の泥だらけの小さな手を握って、優しく微笑みかけた。
「この悪魔は、レギストール。私の古い……そうね、ちょっと困った知り合いってところよ。見ての通り、見た目はちょっぴり、おどろおどろしいけれど、根っからの悪魔ってわけじゃないの。だから、もう大丈夫よ」
私がハンカチで彼女の涙を拭ってあげると、フィオナ様はまだ「はひ……」と、呆けたような返事をするのが精一杯のようだった。
私は再びレギストールに向き直り、腰に手を当てて言った。
「それで? 呪いを解きに来たって、どういうことなの? 四十年前、最後にあなたと交わした会話を覚えているかしら。あなたはあの時、ずいぶんと大きな夢を語っていたじゃない」
レギストールは、孔雀の顔を少しだけ気恥ずかしそうに傾けた。
「もちろん覚えているさ。お互いにまだ若かった、四十年前の、あの日のことだろう? 私が『本気で天使になるつもりだ』と言ったら、君はひどく呆れた顔をしていたね。まるで、その新前聖女のように」
「当然でしょう? 悪魔が天使になるなんて、教会の聖典のどこを読んでも書いていなかったわよ。今も昔も」
「だけど、私は本気だったんだ。今も変わらないさ。堕天使がいるなら、その逆の『昇天使』だって不可能じゃないはずだろう。何より、私には最初から、こんなに立派な美しい翼があるんだからな。後は、白か黄色に塗ればいいだけだ」
彼は背中の翼を自慢げに誇示してみせた。
四十年前、私がまだ新米の聖女として駆け出しだった頃、偶然遭遇した彼と交わした、他愛のない会話。あの頃の彼は、悪魔でありながら光に憧れる、奇妙な変わり者だった。
「それで、その高潔な夢は叶ったの? 今は地獄で、どんな大層な仕事をさせられてるの?」
私の少し意地の悪い問いかけに、レギストールは胸を張った。
「ああ、聞いて驚くなよ。今の私の役職はな、『過怠魂魄監理官』だ」
「かたいこん……なんだか難しそうな役職ね。聖録官じゃないから詳しくないの。具体的にはどういう仕事なの?」
「簡単に言えば、地獄に運ばれた魂のライン管理さ。種族の魂ではなく、不揃いな小さい魂――つまり、動物の魂の管理だな」
「まあ……」
私は思わず、手に持っていた杖の先を地面に下ろした。
思っていたよりも、彼らしい仕事だったからだ。
「素晴らしい……仕事じゃない」
「あーあーあー、分かっているよ。言わんとしている事が。地味だろう?」
レギストールは、どこか照れくさそうに頭の角を掻いた。
「地獄の連中はみな、人間の魂をいたぶったり、地上に災いを撒き散らしたりする派手な仕事ばかりやりたがる。神や天使も似たようなものだよな。まあ、君と私は違うが。こういう地味な管理職は誰もやりたがらないのさ。だから、地味なだけで、待遇はすこぶる良いんだ」
地獄に「良い職場」という言葉があるのかどうかは兎も角、彼の元気そうな様子を見て、胸の奥の仕えがすっと消えていくのを感じた。
レギストールは、両手(翼の先)を合わせ、ゆっくりと歩いては振り返り、同じ場所を行き来する。
「ここは私にとっても、色々と反省の多い思い出の場所でね。ある意味、スタート地点でもある」
レギストールは、廃坑の入り口を見つめながら、声を少し低くした。
「今回の休暇を使って、元々は、四十年前の不始末……この村に残ってしまっていた微かな呪いの残滓を綺麗に掃除して、それを手土産にして、教会にいる……君に会いに行く予定だったんだが。まさか、君がすべての栄誉を捨てて、この村に隠居しているなんて思ってもみなかったから、私が一番驚いているよ。でも……うん、やっぱりここは、とても良い場所だよな」
「ありがとう。私も、この村が一番好きなの」
私は微笑み、それから真剣な表情で廃坑の奥を指差した。
「それで、本題よ。ハンスさんやトーマス……えっと、村人の話では、泉の水が濁って、四十年前と全く同じ不気味な兆候が出ているというの。それは、あなたの同類の仕事の範疇なのかしら?」
「いや、これは悪魔の仕業じゃない」
レギストールの孔雀の瞳が、鋭く細められた。
「それに、この廃坑の奥深くから、妙な魔力が漏れ出している。実に妙だ」
「じゃあ、何にしても中に入ってそれを止めなきゃ……」
私が一歩踏み出そうとすると、レギストールは長い腕を伸ばして私を遮った。
「やめておけ、マリア。知っているだろうが、ここはもう、今にも崩れそうなほど地盤が緩んでいる。人間の、それも今の君の身体で入るには危険すぎる。現役のそっちのお嬢ちゃんも、さっきの挨拶で魔力を使い果たして、腰が抜けているようだしね」
「……それは分かってるけど、行かなきゃ」
「安心しろ。私が行ってくる。君はそこで、その軟な後輩の面倒を見ていてくれ」
彼はそう言うと、翻って、暗黒の口を開ける廃坑の奥へと、躊躇うことなく足を踏み入れていった。レギストールが暗闇の奥へと消えていく。
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「あの……、マリア様……」
レギストールが廃坑の中へ消えた後、静まり返った枯れ木の中で、フィオナ様が震える声で私を呼んだ。彼女は私の外套の裾を掴んだまま、まだ混乱の渦中にいるようだった。
「本当に……本当に行ってしまったのですか? あの悪魔が、村のために、行ってくれているのですか? 本気ですか? 相手は悪魔。嘘をつきで、卑劣で、残虐。私たちを欺く邪悪な存在なのに……。マリア様、あなたは、もしかして……」
私は彼女の隣に腰を下ろし、その肩を優しく抱き寄せた。
「フィオナ様。誤解しないで聞いて。教会の教えは、物事を分かりやすくするために、時々世界を白と黒だけで分けてしまうの。でもね、現実の世界はもっと曖昧で、複雑な色をした世界よ。悪魔の中にも、約束を守る律儀な者もいれば、その逆も……。彼のように、地味な仕事に誇りを持っている者だっているから。大切なのは、相手の『本質』を自分の目で見極めることよ」
フィオナ様は、私の言葉を一生懸命に理解しようとするように、何度も小さく頷いた。彼女の瞳からは、先ほどまでの絶望の光は消え、代わりに新しい「学び」への強い意思が宿り始めていた。しかし、当然ながら、私への疑念も残っているようだった。
しばらくして、廃坑の奥から、ズズズ……と地響きのような音が聞こえ、数秒の後、何かが弾けるような軽い音が響いた。
「お待たせ。大したことはなかったよ」
暗闇から、レギストールが何食わぬ顔で戻ってきた。その手には、一つの古い、しかし見事なカッティングが施された、白銀の指輪が握られていた。
「中にいた奴は、暴れると面倒だから、この指輪の中に一時的に封印して連れてきた。リスクがあるから、一気に封じ込めたんだ。よく確認しようとして、不意打ちを食らう間抜けがいるよな」
それを見た瞬間、フィオナ様が今日一番の驚愕の声を上げた。
「な……ッ!? その指輪は……『ルチアの祈り環』!? 教会の歴史書に、三百年前に紛失したと記されている、伝説の『聖なる指輪』!? なぜ、それを、悪魔であるあなたが持っているのですか!?」
彼女のあまりの剣幕に、レギストールは一瞬面食らったように孔雀の首を傾げ、それから「あはは!」と軽快に笑い声を上げた。
「いやあ、本当に昔のマリアを見ているようだ。無垢なところまでそっくりだ。地獄の遺物管理庫には、こういう教会の忘れ物を含めて、色々な物が山ほど転がっているんだ。一つや二つ、重要でないものが紛失しても、誰も気に留めない。それに、悪魔が聖なる道具を使ってはいけないなんて、法もないからね」
「そんな……こんなことって……」
フィオナ様は頭を抱えてしまったが、その表情には、もう恐怖の色はなかった。代わりに、困惑の色が宿っていた。昔の私のように。
「それで……レギストール」
私は腕を組み、彼の持つ白銀の指輪をじっと見つめた。
「中には、一体何がいたのかしら? 四十年前の呪いの残滓が変異した魔物とか? それとも、もっと悪いもの?」
「さあね。一緒に見てみようと思って」
レギストールは悪戯っぽく微笑むと、指輪の宝石部分を地面へと向けた。
彼が指輪に魔力を込めると、白銀の光とともに、指輪の中から『中身』が ぽんと地面へと転がり出た。




