大変な朝と古傷の影
小鳥たちの囀が響く爽やかな朝の静寂は、我が家の分厚い木の扉を激しく打ち付ける、おぞましい音によって破られた。
ドンドンドンドンドンドン!!
「マリア様! マリア様、いらっしゃいますか!? 起きてください、マリア様!」
それは、普段の穏やかな村の日常からは決して聞こえてくるはずのない、切迫した叫び声だった。私はベッドから跳ね起き、すぐさま手近にあった古い上着を羽織る。今年で六十になる身体が、急激な動きに驚いて悲鳴を上げたが、それを無視して玄関へと急いだ。
鍵を開けて扉を引くと、そこには数人の村人たちが、血相を変えて立ち尽くしていた。先頭にいるのは、トトリ村の現村長であるトーマスさんだ。彼は、私がむかし、この村を流行り病から救った当時の老村長の息子であり、今は父親の跡を継いで村を立派にまとめている、昔と同じ誠実な人だ。
しかし、今のトーマスさんの顔には、誠実さの代わりに、底知れない恐怖と焦燥が張り付いている。後ろに控える若い農夫たちも、まるで背後から何かに追われているかのように、何度も怯えた目で森のほうを振り返っていた。
「トーマスさん、一体どうしたというの? そんなに息を切らせて、ただ事ではないわね」
私の姿を見るなり、トーマスさんは縋るように私の両肩を掴みそうになり、ハッとして手を引いた。
「マリア様……! 申し訳ありません、朝早くから驚かせてしまって。ですが、大変なことが起きたのです。村の北側にある『清流の泉』に……当時と同じ、まったく同じ呪いの兆候が出始めました!」
「な……なんですって?」
私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「間違いありません。今朝、水を汲みに行ったレントが気づいたのです。泉の水が油を流したようにドス黒く淀み、周囲の美しい草花が一瞬にして萎びてしまったと。それだけではありません。森の奥で、狩人のレオナルドが『見てはならない異形のもの』を目撃したのです。人とも獣ともつかない、不気味な悪魔の姿を……。皆、あの悪夢がまた始まったと、パニックを起こしかけています。私じゃ、もう彼らを抑えきれなくて……。それで、当時のすべてを知るマリア様の元へ、助けを求めに参ったのです」
トーマスさんは一気にまくし立てると、苦しそうに天を仰いだ。
昔のあの流行り病。多くの村人が倒れ、あと数日対処が遅れていれば、トトリ村という存在そのものが地図から消えていたはずの、あの忌まわしい記憶。当時の恐怖が、時を超えて再び彼らの心を支配しようとしているのだ。
私は深く息を吸い、まずは彼らの興奮を鎮めるために、あえてゆっくりと、落ち着いた声を意識して言葉を返した。
「トーマスさん、まずは深呼吸をして。今のところ、村の中に病人が出たり、誰かが怪我をしたりといった、直接的な被害は出た?」
「あ……いえ、今のところは、泉の周辺の植物が不自然に赤黒く枯れただけで、人や家畜には実害は出ていません。ですが、時間の問題かと……」
「分かったわ。兆候が出ているのは、今のところその泉の周囲だけね。なら、まだ対処の仕様はあるわ。……ところで、ロアの街の大聖堂には連絡を入れたの?」
(こういう時こそ、現役の力を借りなければ)
私の問いに、トーマスさんはさらに顔を曇らせ、絶望的な響きを含んだ声で言った。
「それが……、その、新しく来た聖女のフィオナ様なら、今朝早くにこの村へいらしていたのですが、昨日のマリア様のお話を聞いて、村の様子を見に来てくださったようで……ですが、泉の異変と悪魔の噂を聞くや否や、彼女は顔色を変えて、一人でその悪魔の元へ向かってしまわれました」
「一人で!? どこへ向かったの?」
「使われていない、裏山の『古い廃坑』です。私たちは止めました! 一人で行くのはあまりにも危険だと、大聖堂から応援を呼ぶべきだと言ったのでが、フィオナ様は……『ロアのガーディアン・セイントであるディレイナ大聖女様は、現在、王都の建国祭に出席するため遠出されているとか。他の聖女様たちも、隣領の騒動や聖堂の行事で出払っており、数日は戻らないとも。今、動ける聖女は私しかいないと言って、ロア領を守る聖女として、すぐに向かうと言い残し、まるで取り憑かれたような足取りで、廃坑へ向かってしまわれてしまったのです……!」
(ああ、なんて無鉄砲なことを……!)
私は奥歯を噛み締めた。
フィオナ様の責任感の強さが、今回は完全に裏目に出てしまったのだ。彼女は昨日、私と出会ったことで「民衆に寄り添う聖女でありたい」と強く願うようになったのだろう。そして、同時に「早く一人前として認められたい」「大聖堂の期待に応えたい」という、若さゆえの焦りもあったに違いない。ガーディアン・セイントのディレイナ様という、圧倒的な後ろ盾が不在の今、彼女は自分の力だけでこの村を救い、己の存在価値を証明しようとしたのだ。
しかし、四十年前のあの呪いの根源は、聖女学校を出たばかりの少女が一人で太刀打ちできるほど、甘いものではない。
「……トーマスさん、聞きなさい」
私は一瞬にして、普段の「トトリ村のおばあちゃん」から、かつて数々の苦難を乗り越えてきた「元聖女・マリア」の顔へと戻した。その声の響きに含まれる、絶対的な拒絶の許さなさに、トーマスさんたち村人は思わず背筋を伸ばした。
「私はこれから、廃坑へフィオナ様を追いかけます。あなたたちは今すぐロアの大聖堂へ早馬を出し、聖騎士団へ救援を要請しなさい。それから、村の男たちを集めて、清流の泉の周囲に柵を設け、人や家畜が絶対に近づかないよう隔離すること。いいわね?」
「は、はい! わかりました!」
「何より大切なのは、あなたたちが冷静でいることよ。パニックは、どんな呪いよりも早く、人の心を蝕む毒となるわ。私が必ず原因を突き止め、フィオナ様を連れて戻るから。あなたたちは村を守りなさい」
「マリア様……。感謝いたします。どうか、ご無事で……!」
トーマスさんたちは、私の凛とした佇まいに救われたように、その瞳に微かな安堵の光を取り戻し、それぞれの役割を果たすために一斉に走り出していった。
村人たちの後ろ姿を見送りながら、私は家の奥へと戻り、棚の奥深くにしまってあった、一本の古い木製の杖を手に取った。引退後、一度も使うことのなかった、私の現役時代の相棒だ。
「まさか、またこれを持つ日が来るなんて……」
私は小さく呟くと、エプロンを脱ぎ捨て、泥にまみれても良い古い外套を羽織り、トトリ村の裏山へと向かって、力強く一歩を踏み出した。
────
山道へと足を踏み入れると、周囲の空気が、高度を上げるにつれて目に見えて変化していくのが分かった。
いつものトトリ村の森なら、朝の光を浴びて木々が青々と輝き、心地よい小鳥のさえずりや、踏み締める土の柔らかな匂いが満ちているはずだった。しかし、廃坑へと続くこの古いけもの道は、進めば進むほど、不気味な静寂に包まれていく。鳥の鳴き声ひとつせず、風の音さえも、まるで何かに怯えるようにピタリと止んでいた。
(……間違いないわ。この嫌な、肌にまとわりつくような空気。四十年前のあの時と同じ)
私の肌が、大気中に満ちる微かな「呪詛」の気配を感知して、チリチリと痛んだ。
それは、かつて私がこの地で遭遇し、辛うじて退けた『下級悪魔』の残滓、あるいはその同類の気配だった。あの時は、村を一つ救うのが精一杯だった。教会の本隊が来るのを待つ余裕などなく、私は自分の持てるすべての魔力を絞り出して、その呪いの根源をこの廃坑の奥へと封じ込めたはずだった。そして確かに、その後浄化が行われた。
四十年の月日が流れ、一体なにが起きているのか。まさか浄化が不十分だった可能性も。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
山道の傾斜が厳しくなるにつれ、私の呼吸は激しく乱れ始めた。
頭では分かっていても、六十の肉体は残酷なほどに言うことを聞かない。心臓が早鐘のように脈打ち、膝の関節が悲鳴を上げ、足元が縺れそうになる。現役時代なら、身体能力を強化する『聖なる加護』を自らにかけ、風のように駆け抜けることができた。しかし今の私には、そんな魔法を維持するだけの余裕はない。もしここで魔力を無駄遣いすれば、廃坑に辿り着いた時、フィオナ様を守るための力が残らなくなってしまう。
「がんばりなさい、私の身体……。まだ、あの子を死なせるわけにはいかないのよ」
私は古い木製の杖を地面に強く突き立て、それを支えにしながら、必死に老体を前へと進めた。
不気味に変貌していく森が、まるで私を拒絶するように、黒く歪んだ枝を伸ばして行く手を阻もうとする。しかし、私の足が止まることはなかった。
───
しばらくして、生い茂る木々の隙間から、ついに目的の場所が見えてきた。
そこは、周囲の木々が完全に生気を失い、まるで灰色の骨のように鬱蒼と枯れ果てている、異様な空間だった。地面の土は不自然にひび割れ、そこから赤黒い霧のようなものが、地を這うように ゆるゆると 湧き出している。
その枯れ木の中心に、ぽっかりと不気味な暗黒の口を開けているのが、かつて使われていた古い廃坑の入り口だった。
そして、その廃坑の入り口の手前、荒涼とした地面の上に、真っ白な聖衣を着た人影がぽつんと取り残されているのが見えた。
「フィオナ様!」
私は残された力を振り絞り、枯れ木を押し分けて彼女の元へと駆け寄った。
フィオナ様は、地面に両膝をつき、放心状態でうつむいていた。
彼女の宝物であったはずの大きな皮調本の聖典は、泥の中に無造作に落ちており、彼女の細い肩は、過呼吸を起こしたように激しく上下している。
「フィオナ様! 大丈夫!? 怪我はないの!?」
私は彼女の傍らに膝をつき、その華奢な肩を強く揺さぶった。
私の声に、フィオナ様は弾かれたように顔を上げた。その瞳は、恐怖のあまり完全に瞳孔が開いており、涙と泥で顔中がぐしゃぐしゃになっていた。幸いにも、目立った外傷はなく、意識もしっかりしている。しかし、彼女の魂は、目の前にある「何か」によって、完全にへし折られてしまっているようだった。
「ま……マリア様……? ああ、なぜ、なぜここに……。逃げて、ください……。早く、ここから、逃げて……っ」
フィオナ様は、私の外套の袖を、ちぎれんばかりの力で掴みながら、ガタガタと全身を震わせた。
「落ち着きなさい、フィオナ。私は大丈夫よ。一体何があったの? あなたの強力な光の魔法があれば、下級悪魔くらい、退けられたはずでしょう?」
私の問いに、フィオナ様は絶望に満ちた首を激しく横に振った。
「駄目なのです……。何一つ、通用しなかった……。私の『破邪』も、『聖鉄槌』も……あいつには、掠り傷一つ、つけられなかった……。神の光が、まるで虚空に吸い込まれるように、すべて消されてしまったのです。あんなの……あんなの、私の知っている悪魔じゃありません……!」
彼女は廃坑の奥を指差したまま、怯えた小動物のように私の背中に隠れて縮こまってしまった。
神学校を次席で卒業した逸材の少女が、自らの誇る最高峰の聖魔法をすべて放ち、それでもなお、傷一つつけられなかったという絶望。現役の聖女として、これ以上の恐怖はないだろう。
私は彼女を背中に庇いながら、ゆっくりと立ち上がり、古い杖を構えて廃坑の入り口へと視線を向けた。
「……っ」
一歩踏み出した瞬間、私の全身の毛穴が、本能的な恐怖で一斉に開くのを感じた。
廃坑の入り口、その暗黒の闇の手前の空間が、まるで真夏の蜃気楼のように、不自然に、そして ぐにゃりと 熱に浮かされたように歪んでいた。大気そのものが、その存在の重圧に耐えかねて悲鳴を上げているかのような、圧倒的な異質感。
闇の中から、それは静かに、しかし確かな足取りで這い出てきた。
人型をしており、通常の人間よりも遥かに高い、二メートルをゆうに超える高身長。
そのシルエットは、驚くほど細く、どこか貴族のような優美ささえ感じさせる独特の佇まい(たたずまい)を持っていた。
しかし、その容姿は、おぞましくも美しい「古傷」そのものだった。
頭部には、漆黒の捻じれた角が冠のようにそびえ立ち、その顔面には目も鼻もなく、ただ冷徹な仮面のような白い皮膚が広がっている。そして、その背後――彼の背中からは、まるで孔雀がその美しい羽を広げるかのように、極彩色に輝く不気味な光の触手が、扇状に美しく、そして禍々(まがまが)しく広がっていた。
青、緑、紫、そして血のような赤。それらの色彩が、悪魔の背後で怪しく明滅し、周囲の枯れ木を不気味に照らし出している。
その佇まいは、下級悪魔という生易しいものでは決してなかった。四十年前、私が退けた存在とは、格が違いすぎる。でも。
孔雀のような容姿をした悪魔は、目がないはずの顔で、じっと私たち――いや、私を見ている。まさかとは思うけれど。
空間が、さらに深く、歪んでいく。
六十の引退聖女と、絶望に暮れる若き聖女。私たちの前に、四十年前の過去を抉るように、本当の『危機』が、その圧倒的な姿を現した瞬間だった。




