小さな奇跡の処方箋
うららかな陽光が、並木道の葉を透過して、地面に不規則な水玉模様を描き出している。
私は、十数年前に誂えた古い旅用の外套を羽織り、使い慣れた藤蔓の籠を腕に下げて歩いていた。隣を歩くのは、ロアの街の現役聖女、フィオナ様。彼女のまとう純白の聖衣は、先ほど我が家のテラスで泥を払い、少しだけお直しをしたおかげで、ひとまずは聖女らしい威厳を取り戻している。
「マリア様、本当に私なんかについてきていただいて、よろしかったのですか? トトリ村の皆様も、あなた様を頼りにしておられるというのに……」
フィオナ様は、まだ少し気まずそうに、私の顔を横目でうかがいながら歩調を合わせる。若く、引き締まった彼女の足取りは実に軽やかだ。対する私は、坂道にさしかかるたびに「よいしょ」と小さく息を漏らさざるを得ない。六十一歳の膝というものは、本人が思っている以上に正直に、日々の年月を主張してくるものであった。
「いいのよ、フィオナ様。村のみんなも、私がいなくて寂しがるほどヤワじゃないわ。それにね、たまにはこうしてトトリ村の外の空気を吸うのも、おばあちゃんの良い気晴らしになるの」
私は立ち止まり、街道の脇、湿った岩肌の陰にひっそりと生えている、小さな紫色の花を指差した。
「見てごらんなさい。これは『紫煙草』。火にくべると煙が出て、嫌な蚊やアブを追い払ってくれるの。夏場の農作業には欠かせない知恵よ。それから、そのすぐ隣にある、ギザギザした葉っぱの草は分かるかしら?」
フィオナ様は腰を屈め、大きな聖典を落とさないように抱え直しながら、その草を凝視した。
「ええと……、神学校の薬草学で習いました。確か、苦味のある薬草で、名前は……」
「『蛇の目草』よ。教科書には『強い解毒作用を持つが、過剰に摂取すると胃を荒らす毒となる』なんて、恐ろしい書き方がされていたでしょう?」
「はい、その通りです! だから、実地での使用は極めて慎重に行うべし、と大司祭様からも厳しく叩き込まれました」
私はふふ、と声を立てて笑い、その葉を一枚、指先で器用に摘み取った。
「教会の教科書というものは、いつでも最悪の事態を想定して大袈裟に書くものだわ。でもね、現実は少し違うの。この葉を二枚、細かく刻んで、たっぷりの蜂蜜と一緒にお湯に溶かしてごらんなさい。毒になるどころか、夏の暑さでまいってしまったお年寄りの、弱った胃腸を優しく労わる最高の滋養強壮剤になるのよ」
「蜂蜜と……お湯、ですか? 魔法の触媒ではなく?」
フィオナ様は、信じられないといった様子で目を丸くした。
彼女たち中央の教育を受けた聖女にとって、病や怪我とは、聖なる魔力を流し込んで「消し去る」べき対象なのだろう。しかし、人間や家畜の身体は、決して魔力だけで動く機械ではない。日々の食事、自然の巡り、そしてほんの少しの草木の知恵が、傷ついた肉体をゆっくりと、けれど確実に元の形へと戻していくのだ。
「魔法は便利だけれど、人間の身体には少し強すぎることもあるの。特に、長年働いて擦り切れたお年寄りの身体にはね。私たちが神様から授かった力は、自然の恵みを『手助け』するための呼び水に過ぎない――そう考えると、少し気が楽にならないかしら?」
私の言葉を、フィオナ様は胸の中で反芻するように、じっと噛みしめていた。
彼女の持つ、生真面目すぎるがゆえの頑なさが、古い雪が春の陽気に溶かされるように、少しずつ解れていくのが分かった。並木道を抜ける風が、彼女の亜麻色の髪を優しく揺らし、先ほどまでの張り詰めた空気は、いつしか消え去っていた。
───
二時間をほどかけて歩き、ようやくロアの街の石造りの城門が見えてきた。
トトリ村に比べれば、ここは十分に大きな地方都市だ。石畳の街道には馬車が行き交い、道の両側には木造や石造りの商店がひしひしと軒を連ねている。市場からは、焼き立てのパンの匂い、干し魚の塩気を含んだ風、そして荷を運ぶ男たちの威勢の良い声が響いており、独特の活気に満ちあふれていた。
しかし、その活気の中に、どこか冷ややかな視線が混ざっているのを、私は敏感に察知した。
フィオナ様が市場の通りに足を踏み入れた瞬間、それまで賑やかに笑っていた商人や買い物客たちが、ピタリと言葉を止め、彼女に頭を下げた。それは敬意というよりも、どこか「触らぬ神に祟りなし」といった、余所余所しい、壁を感じさせる態度であった。
フィオナ様は、その視線に気づくと、無意識のうちに背筋を硬くし、冷徹な「聖女の仮面」を再び顔に張り付かせた。
(ああ、これでは街の人たちも気後れしてしまうわね……)
大聖堂から派遣されてきた、非の打ち所がないほど美しく、けれど冷たい氷のような若き聖女。民衆が求めているのは、神の完璧な代行者ではなく、自分たちの暮らしの愚痴を聞いてくれる、血の通った隣人なのだ。
大通りの一角にある、年季の入った靴職人の工房の前を通りかかった時のこと。
店先で革を叩いていた、白髪交じりの頑固そうな老職人が、激しい咳き込みとともに、手に持っていた金槌を床に落とした。彼はそのまま、自分の腰を摩りながら、苦しそうに顔を歪めて椅子に深く座り込んでしまった。
「……っ、う、うう……」
「おじいさん!」
フィオナ様が、弾かれたように駆け寄った。その素早さは、やはり彼女が優秀な聖女であることを物語っている。彼女は老職人の前に跪くと、すかさず右手を彼の腰へと翳した。
「神の御名において命じる。光よ、彼の痛みを、不浄なる患部を清め給え」
彼女の手のひらから、眩いばかりの白銀の光が放たれ、老職人の腰を包み込んだ。
市場の人々が、おぉ、と息を呑むのが聞こえる。確かにそれは、見事な魔法の顕現であった。光が収まると、老職人の顔から痛みの色が引き、彼は不思議そうに自分の腰を何度も触った。
「おお……、痛みが消えた。さすがは聖女様だ、ありがたい……」
「いいえ。神の恩寵に感謝を。これであなたの腰は治りました。ですが、あまり無理をしてはなりませんよ」
フィオナ様は胸を張り、毅然とした態度で言った。聖女として、完璧な職務の遂行。
しかし、老職人の表情は、感謝しているものの、どこか釈然としない様子で曇っていた。なぜなら、彼の腰の痛みは、長年の立ち仕事と冷えによって骨の芯まで染み付いたものであり、魔法で一瞬だけ神経を麻痺させたところで、根本的な解決にはならないことを、彼自身が一番よく知っているからだ。明日になれば、また同じ痛みが彼を襲うだろう。
私は、フィオナ様の後ろからそっと歩み寄り、老職人の前に腰を落とした。
「失礼、親方さん。少しだけ、そのお手を拝借してもよろしいかしら?」
「ああ? あんたは……?」
老職人は怪訝そうな顔をしたが、私の白髪と、着古したエプロン姿を見て、警戒を少し緩めた。私は彼のゴツゴツとした、長年の労働で変形した手のひらを優しく包み込み、親指の付け根のあたりを、じわじわと力を込めて押し揉んだ。
「……痛っ、痛ててて!」
「ふふ、やっぱりね。親方さん、腰が痛むのはね、この手のひらの筋肉と、ふくらはぎの筋肉が、長年の金槌仕事でカチカチに凝り固まっているからなのよ。そこに冷たい夜風が当たって、血の巡りが悪くなっているの。いくら聖女様の魔法で痛みを消しても、その凝りをほぐしてあげなきゃ、またすぐにぶり返してしまうわ」
「な……、なんでそんなことが分かるんだ?」
老職人は目を見開いた。
私は籠の中から、先ほど街道の脇で摘んできた『蛇の目草』の葉と、我が家の庭から持ってきた乾燥ラベンダーの包みを取り出し、彼の作業台の上にそっと置いた。
「この紫の乾燥したお花をね、今夜、大きめの桶にお湯を張って、その中に一掴み入れてごらんなさい。とても良い香りがして、身体の芯から温まるわ。そのお湯に足を浸しながら、この緑の葉っぱをすり潰して、オリーブの油と混ぜたものを腰に塗り込んで、奥様に優しくマッサージしてもらうの。三日も続ければ、朝起きる時の腰の重さが、嘘みたいに軽くなるわよ」
老職人は、私の差し出した素朴な草の包みと、隣で呆然と立ち尽くしているフィオナ様の顔を交互に見つめた。やがて、彼の顔に、先ほどの魔法を見た時とは全く違う、心からの安堵の笑みが浮かんだ。
「……なるほど、お湯に浸して、マッサージか。そいつはありがてえ。聖女様の光も凄かったが、あんたの言うことの方が、なんだか俺の身体にぴったりしっくりくる気がするよ」
「ふふ、お大事にね、親方さん。素敵な靴を、これからも長く作り続けてちょうだい」
私が微笑むと、老職人は「おうよ!」と元気よく答え、今度はフィオナ様に向き直って、深く頭を下げた。
「聖女様、俺のためにわざわざ駆けつけてくれて、ありがとうございました。お高くとまってるなんて言って、悪かった。あんた、本当は優しいお嬢ちゃんなんだな」
「え……、あ、は、はい……。お大事に……」
フィオナ様は、頬を微かに赤らめながら、小さな声で応じた。
その時の彼女の顔には、もう冷徹な仮面はなかった。一人の少女としての、戸惑いと、そして確かな喜びが混ざり合った、とても可愛らしい表情であった。
市場のあちこちから、それを見ていた民衆たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。
「おい、あの新しい聖女様、ちゃんと俺たちのことを見てくれてるじゃないか」
「あんたも凄いな、どこの薬草師だ?」
そんな温かいざわめきが、市場の空気を少しずつ変えていくのが分かった。
───
その後、私たちは大聖堂の裏手にある、小さな中庭のベンチに座っていた。
ロアの大聖堂は、さすがに立派な白亜の建物だったが、冷たい大理石の回廊は、どこか俗世を拒絶しているようでもあった。けれど、この中庭だけは、素朴なレンガの壁に囲まれ、赤や黄色のゼラニウムが咲き乱れていて、少しだけトトリ村の我が家に似た安心感があった。
フィオナ様は、ベンチの上で膝を抱え、自分の手を見つめていた。
「……私の魔法は、彼を救えていなかったのですね」
彼女の声には、先ほどの傲慢さは微塵もなく、ただ純粋な無力感と、学びへの渇望だけがあった。
「そんなことはないわ、フィオナ様。あなたの魔法が、彼の激しい痛みを一瞬で取り除いたのは事実よ。あの時、あの瞬間、彼は間違いなく救われたわ。ただね、魔法の後。その人が明日からも生きていく『生活』に、もう少しだけ寄り添ってあげる知恵があれば、もっと素敵だと思わない?」
私は、大聖堂の台所から借りてきたお湯を使って、持参したハーブティーを二つの木製のカップに淹れた。
湯気とともに、爽やかなシトラスの香りが中庭に広がる。
「大聖堂にいるとね、私たちはどうしても『神の代理人』として振る舞うことを求められるわ。けれど、民衆が本当に求めているのは、神様の奇跡そのものよりも、その奇跡を通じて自分たちを気遣ってくれる、あなたという『人』の温もりなのよ。完璧でなくていい。泥にまみれても、一緒に悩んで、一緒に笑ってあげる。それだけで、あなたはもう、立派な彼らの守り神だわ」
フィオナ様はカップを両手で受け取り、温かいお茶を一口、静かに飲み込んだ。
そして、私の顔をまっすぐに見つめ、深い確信を込めて言った。
「マリア様。あなた様は……、やはり、十年前の流行り病からトトリ村を救い、その後、教会のすべての栄誉を辞退して隠居された、伝説の元聖女様なのですね。大聖堂の古い記録で、お名前を拝見したことがあります」
私は、困ったように頭を掻いた。
「伝説だなんて、大袈裟だわ。私はただ、大聖堂の冷たいベッドや、枢機卿たちの政治の駆け引きに疲れて、逃げ出しただけのごく普通の人間よ。村を一つ救っただけの、引退聖女。それが私の本当の肩書きよ」
「いいえ」
フィオナ様は首を横に振った。その瞳には、かつて大聖堂で見たどの高位聖職者よりも、強い敬意の光が宿っていた。
「教会が用意するどの最高峰の席よりも、枢機卿の座よりも、聖女院の総院長の座よりも……、今のあなた様の生き方こそが、私にとっての、聖女の最高峰に見えます。私もいつか、あなた様のように、民衆の暮らしに溶け込み、心から愛される存在になりたいです」
「ふふ、それは嬉しいけれど、おばあちゃんになるには、まだ少し早すぎるわよ。あなたには、これから現役としての、輝かしい時間がたくさん待っているのだから。それにまだ未来を決めるには、早いわ」
私は彼女の頭を、我が子か初孫のように優しく撫でてあげた。
フィオナ様は、目を細めてその温もりを受け入れていた。
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夕暮れ時、空が燃えるような黄金色から、深い藍色へと移り変わる頃。
私はフィオナ様に何度も見送られながら、ロアの街を後にして、トトリ村への帰路についていた。
六十代の身体にとって、往復四時間の道のりは、さすがに骨が折れる。腰は少しだけ重い。けれど、私の心は、大聖堂を出た時のどんな祝祭の夜よりも、軽やかで満ち足りていた。
トトリ村の境界に差し掛かると、遠くから「マリア様ー!」と、ハンスさんの大声が聞こえてきた。
見れば、彼と村の若い衆が、松明を片手に街道まで迎えに来てくれているのが見えた。
「おいおい、マリア様! 帰りが遅いから、みんなで心配して探そうとしてたんだぜ! ロアの街まで行ったって、本当かい?」
「ごめんなさいね、ハンスさん。ちょっと可愛い迷子の小鳥のお世話をしていたら、長引いてしまって」
「あはは、マリア様のお節介は、街まで遠征するのかい。さあ、夜道は危ない、ウチの荷車に乗ってくれ。女房が美味いシチューを作って待ってるんだ」
ハンスさんの差し伸べてくれた、泥と土の匂いがする無骨な手を借りて、私は荷車の荷台へと腰掛けた。
ガタゴトと揺れる荷車の音を聞きながら、私は夜空を見上げた。満天の星々が、今日も変わらずに私を照らしている。
我が家に帰り着き、暖炉に火を入れ、使い込んだ日記帳を開く。
『七月四日。ロアの街へ。新しい聖女フィオナ様とともに歩く。彼女の純粋な心に触れ、昔の自分を思い出す。市場の靴職人ヨハンさんに、蛇の目草の処方箋を渡す。フィオナ様が、街の人々と少しだけ分かり合えたようで、本当に嬉しかった。私の小さな隠居生活は、どうやらこれからも、誰かの小さな光であり続けられそうだ。エルメデューラ様(平和の女神)、今日も穏やかな一日を、ありがとうございました……』
インクが乾くのを待ち、そっと日記帳を閉じる。
窓の外からは、トトリ村の静かな虫の声が、子守唄のように優しく響いていた。私はランプの火を吹き消し、心地よい身体の疲労感とともに、深い、穏やかな眠りへと落ちていくのだった。




