迷子の小鳥
朝一番の空気には、夜の間に森が蓄えた深い緑の匂いが混ざり合っている。
私は軽くストレッチをしてから、昨日リリちゃんに約束した通り、子羊のモコの様子を見に行くために家を出た。六十代の身体にとって、朝露に濡れた草道を歩くのはちょっとした冒険のようなもの。それでも、一歩踏み出すたびに足の裏から伝わる大地の冷たさが、心地よく私を目覚めさせてくれる。
村の小道を歩いていると、あちこちの家から小気味よい音が聞こえてきた。薪を割る音、朝食の支度をする鍋の擦れる音、そして家畜たちの穏やかな鳴き声。
「マリアさん、おはよう! 今日も一段と元気そうだね」
「おはようございます、ピーターさん。奥様の腰の具合はいかが?」
「おかげさまでね、こないだ貰った湿布薬がよく効いて、今朝はもう庭掃除をしてるよ」
そんな短い言葉を交わしながら歩を進めるだけで、私の心は温かな色彩で満たされていく。大聖堂の長い回廊を、誰とも目を合わせずに厳かに歩いていた頃とは、まるで違う世界のようなのだ。
リリちゃんの家である小さな牧舎に到着すると、中から「あ、マリアさん!」という弾んだ声が響いた。
駆け寄ってきたリリちゃんの表情を見ただけで、すべてが上手くいったのだと分かった。彼女の瞳は、昨日の涙が嘘のようにキラキラと輝いている。
「見て、マリアさん! モコが、モコがね……!」
リリちゃんが指差す先、藁のベッドの上で、白い小さな子羊が頼りなげに、しかししっかりと四本の足で立ち上がっていた。私の姿を見ると、「メェ」と小さく可愛い声で鳴く。その口元には、緑色の薬草が混ざったぬるま湯の跡が少しだけ残っていた。
「まあ、よかったわねえ。本当にがんばったわね、モコちゃんも、リリちゃんも」
私は屈み込み、子羊の柔らかな頭をそっと撫でた。体温はすっかり平熱に戻り、お腹の張りも綺麗に引いている。
中央の大聖堂にいた頃なら、私はこの場面で『上級治癒』の呪文を唱え、一瞬で病を消し去っていたことだろう。それは確かに劇的で、奇跡と呼ぶにふさわしい光栄な行為だった。けれど、こうして自然の恵みである薬草を使い、一晩かけて少女が愛する家族を看病し、じわじわと命が回復していくのを待つ。この静かな時間の中にこそ、神様が用意してくれた本当の奇跡が隠されているような気がしてならない。
「これ、お母さんから。マリアさんにお礼だって」
リリちゃんが両手で差し出してきたのは、布に包まれた、まだほんのりと温かい生みたての卵が六個。
「ありがとう。今夜のオムレツにいただくわね」
私はその温もりを大切に籠へと収め、嬉しそうなリリちゃんに見送られながら、再び我が家への帰路についた。
────
トトリ村の境界に近い、古い並木道を歩いていた時のことだ。
いつもなら、この時間は村の羊飼いが通るくらいで、人通りはほとんどない。しかし、街道の脇にある大きな樫の木の根元に、場違いなほど真っ白で、きらびやかな衣装を纏った人影が小さく丸まっているのが見えた。
(あら……?)
目を凝らす。それは、金糸の刺繍が施された美しい聖衣だった。ただし、その裾は泥にまみれ、何かに引っ掛けたのか少し破れてしまっている。
そこに座り込んでいたのは、私よりもずっと若い、おそらく十代後半ほどの少女だった。輝くような亜麻色の髪をきっちりと結い上げ、膝の上に大きな皮調本の聖典を抱きしめている。
ハンスさんが昨日言っていた、隣のロアの街に赴任してきたという「新しい現役の聖女」――その人に違いなかった。
彼女はひどく疲弊しているようで、肩を小さく震わせながらうつむいている。
私は足音を忍ばせながら、ゆっくりと彼女に近づいた。
「……失礼、お嬢さん。お疲れのようだけれど、大丈夫かしら?」
声をかけると、少女は弾かれたように跳び起きた。その顔は青白く、目の下には薄い隈ができている。彼女は私を見るなり、ハッとしたように表情を引き締め、衣服の乱れを直そうと背筋を伸ばした。教会の学校で嫌というほど叩き込まれる、「聖女としての完璧な立ち居振る舞い」の癖が、彼女の身体に染み付いているのが見て取れた。
「あ……、は、はい。私はロアの大聖堂に赴任いたしました、聖女フィオナと申します。神の御加護があらんことを。私はただ……、その、巡回の途中で、少し道を……」
必死に気高さを保とうとする彼女の声は、かすかに震えていた。
その時、緊張の糸が途切れた隙間を縫うように、彼女のお腹が「ぐう……」と、静かな並木道に小さく響き渡った。
フィオナ様は一瞬で顔を真っ赤に染め、恥ずかしさのあまり聖典で顔を隠してしまった。その様子がなんとも初々しく、かつての自分を見ているようで、私は思わずクスクスと笑ってしまった。
「うふふ、神様のご加護も大切だけれど、空腹には勝てないわよね。私はこの先で小さな家を構えているマリアという者よ。よければ、温かいお茶でも飲んでいかないかしら? ちょうど、今朝採れたての卵もあるのよ」
「いえ、私は聖女ですから、民家にみだりに立ち入って施しを受けるわけには……」
頑なに拒もうとする彼女だったが、その瞳は私の籠の中にある卵や、私のエプロンから漂うであろう、朝の焼き立てパンの匂いに抗いきれないように揺れていた。
「いいのよ、これは施しではなく、ただのおばあちゃんからのお節介。さあ、行きましょう。女の子の足をそんな泥だらけのままにしておいたら、神様だって悲しまれるわ」
私は優しく彼女の手を取った。細くて、少し冷たい手。大聖堂の重圧に耐えている、小さな手だった。フィオナ様は戸惑いながらも、私の引き留める力に逆らうことなく、小さな足取りでついてきた。
───
我が家のテラス席は、午前中の木漏れ日が一番美しく差し込む特等席だ。
私はフィオナ様を木製の椅子に座らせると、まずは温かいお湯で濡らした上質なリネンのタオルを手渡した。
「さあ、まずはその手を拭いて、足を楽にしてくださいね。靴も脱いでしまって構わないわ」
「あ、ありがとうございます……」
彼女は恐る恐るタオルを受け取り、泥のついた手を拭った。その間に、私はキッチンへと入り、素早くお茶の仕度に取り掛かる。
今日のお茶は、心を落ち着かせるカモミールに、ほんの少しのリンデンと、甘い香りの乾燥リンゴをブレンドしたもの。そして、昨日焼いておいた大麦のスコーンをオーブンで少し温め、エルザさんの無花果ジャムを小皿にたっぷりと添えた。
テラスに戻り、ガラスのポットから黄金色のお茶を注ぐと、ふわりと甘く優しい湯気が二人の間に広がった。
「どうぞ、召し上がれ」
フィオナ様は、目の前に並べられた素朴なスコーンとハーブティーをじっと見つめていたが、やがて意を決したようにスコーンを一つ手に取った。小さなお口で一口、齧る。
「……おいしい」
ぽつりと、彼女の口から本音が漏れた。
大聖堂の冷淡な料理とは違う、小麦の素朴な甘みとジャムの濃厚な果実味が、彼女の緊張を心の底から解きほぐしていったのだろう。彼女はそれから、まるでお腹を空かせた小鳥のように、一生懸命にスコーンを食べ進め、温かいお茶を嬉しそうに喉へと流し込んだ。
彼女の顔に少しだけ赤みが戻ったのを見届けてから、私は優しく問いかけた。
「ロアの街での生活は、少し大変なようね」
その言葉に、フィオナ様の手がピタリと止まった。彼女はカップをテーブルに置くと、再びうつむき、今度は悲しげな、そしてどこか憤慨したような表情を浮かべた。
「……聞いていた話と、全然違うのです」
彼女の声は、堰を切ったように溢れ出し始めた。
「私は中央の神聖学校を次席で卒業しました。魔獣を討ち払い、深刻な呪いを浄化し、神の偉大なる威光を民に示すために、血のにじむような修行を重ねてきたのです。なのに……なのに、ロアの街の人たちが私に求めるのは、そんな高潔な奇跡ではありません」
「どんなことを求められるの?」
「水路の水が少し濁っているから見て欲しいとか、夫婦喧嘩を収めるために神の教えを説いて欲しいとか、今朝から家畜の元気が無いから呪いなのではないか見て欲しい……! そんな、くだらない、いえ、日常の些細な雑務ばかりを私に押し付けようとするのです。聖女の神聖な力を、そんな便利屋のように使われては困るとお断りしたら……、街の人たちは私を『お高くとまっている』と冷たい目で見るようになりました」
フィオナ様の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ、テーブルを濡らしていく。
「私は、神様のために正しく在りたいだけなのに。どうして誰も、私の言葉を理解してくれないのでしょう……。今日は、大聖堂の重圧に耐えかねて、気づいたら街を飛び出して走っていました。私は、聖女失格です……」
彼女は両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。
私は何も言わず、ただ彼女の背中を優しく撫で続けた。
その背中の小ささに、胸が締め付けられる。ああ、本当に、昔の私と同じだわ、と。
学校では、聖女は「選ばれた特別な存在」として教育される。神の正義、大いなる奇跡、華々しい戦果。それだけが価値があると教え込まれるのだ。しかし、地方の現場に赴任してみれば、そこに待っているのは英雄譚ではなく、泥臭い民衆の「生活」そのものである。そのギャップに苦しみ、孤立していく若い聖女は、これまでにも数え切れないほどいたはずだ。
泣き止むのを待ち、私は新しいお茶を彼女のカップに注ぎ足した。
「フィオナ様。一つ、おばあちゃんのお話を聞いてくれるかしら」
彼女は涙を拭い、潤んだ瞳で私を見つめた。
「神様の威光というのはね、金色の豪華な大聖堂の祭壇にだけあるものではないのよ。むしろ、民衆のささやかな暮らしの、すぐ隣に転がっているものなの」
「暮らしの、隣……?」
「ええ。井戸の水が濁れば、その日の飲み水に困るわ。夫婦が喧嘩をすれば、その家の子供が悲しい思いをする。牛が病気になれば、その家族は冬を越せないかもしれない。民衆にとって、それは魔獣の襲来と同じくらい、切実で恐ろしい『世界の危機』なのよ。彼らはね、あなたを便利屋だと思っているわけじゃないわ。あなたの持つ聖なる力と、その優しい心に、自分たちの小さな世界を救ってほしいと、心から縋っているの」
フィオナ様は、目を見開いたまま固まっていた。そんな風に考えたことは、一度もなかったのだろう。
「偉大な奇跡を起こすことだけが聖女の仕事ではないわ。目の前の一人の、小さな涙を拭ってあげること。それこそが、神様が私たちに力を分け与えてくださった、一番の理由だと私は思うのよ」
私が微笑みながらそう言うと、フィオナ様は私の顔をじっと凝視し、それから彼女が抱えていた聖典の表紙、そこに刻まれた古い紋章と、私の家の壁にかけられた古い木製の十字架を見比べた。
「……マリア、様。あなた、もしかして……」
彼女の言葉を遮るように、庭のほうから「マリア様ー!」と賑やかな声が響いた。
見れば、ハンスさんが数人の村人を連れて、木材や工具を担いでやってくるのが見えた。週末に約束していた、物置の屋根の修理に、わざわざ仲間を集めて早めに来てくれたらしい。
「おや、お客さんかい? 邪魔しちまったかな」
ハンスさんはテラスのフィオナ様を見て、その高貴な聖衣に一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの人懐っこい笑顔になった。
「いやあ、マリア様。今朝リリから聞いたよ。モコのやつ、マリア様がくれた薬草のおかげで、すっかり元気になって飛び回ってるってさ! さすがは俺たちのマリア様だ。街の偉い聖女様なんかより、ずっと頼りになる!」
「これ、ハンスさん。滅多なことを言うものではありませんよ」
私は苦笑しながら彼を嗜めたが、ハンスさんたちは「がはは」と笑いながら、楽しそうに裏庭へと向かっていった。
その様子を、フィオナ様は信じられないものを見るような目で眺めていた。教会からの手当てや肩書きを持たない一人の老女が、これほどまでに民衆から愛され、信頼され、そして彼らの精神的支柱となっている。その光景は、彼女が中央で学んだどの教科書にも載っていない、「聖女」の究極の完成形のように見えたのかもしれない。
「マリア様……。あなた様は、かつてこの村を救われた……」
「今はただの、話好きのおばあちゃんよ」
私は人差し指を口元に当て、いたずらっぽくウインクしてみせた。
「さて、お茶のお代わりはいかが? それとも、少し元気が出たなら、ロアの街までのお散歩に、私も一緒についていきましょうか。道端に咲いている、お腹の痛みに効く薬草の場所でも教えながらね」
フィオナ様は、まだ少し戸惑ったような表情をしていたけれど、やがてその口元に、今日初めての、年齢相応の小さく美しい微笑みが浮かんだ。
「はい……。ぜひ、教えていただきたいです、先輩」
木漏れ日の下、爽やかな風が私たちの間を吹き抜けていく。
どうやら私の静かな隠居生活に、少しだけ賑やかな風が紛れ込んできたようだ。けれど、それも悪くない。美味しいお茶と、少しの知恵なら、いくらでも分けてあげられるのだから。
トトリ村の午前は、今日も穏やかに、そして確かな温もりを伴って過ぎていくのだった。




