穏やかな引退生活
朝の光が古い木製の窓枠から滑り込み、私のまぶたを優しく叩く。
「ふう……、今日も良いお天気ね」
ベッドの中で小さく伸びをしてみたものの、今年で六十一歳になる身体は、若い頃のように羽のように軽いわけにはいかない。あちこちの関節が「お早う」と硬い音を立てるのを、どこか愛おしく思いながら床に足を下ろした。
窓を開ければ、澄んだ山の空気が部屋いっぱいに流れ込んでくる。視線の先に広がるのは、緑豊かなトトリ村の素朴な風景だ。緩やかな斜面に沿って並ぶ赤煉瓦の屋根、遠くで響く山羊の鳴き声、そして朝露に濡れて黄金色に輝く小麦畑。どこを切り取っても絵画のように静かで美しい、私の大好きな場所であった。
キッチンへ向かい、昨日ハンスさんが届けてくれた山羊のミルクを小鍋で温める。ふつふつと泡立つ白い液体に、庭から摘んできたばかりのミントの葉を数枚。香ばしい自家製のライ麦パンに、お隣のエルザさんからいただいた無花果のジャムをたっぷりと塗れば、私の一日の始まりだ。
「本当に、贅沢な朝食だわ」
一口噛みしめるたび、自然と頬が緩んでしまう。
手元にあるのは、教会から支給された高級な銀食器ではなく、村の木こりさんが私のために削ってくれた不格好な木の器。けれど、私にとっては、現役時代に大聖堂で口にしていたどんな豪奢な料理よりも、この質素な食卓の方がずっと美味しく、そして心を穏やかにしてくれるのだった。
──
私はかつて、中央神殿に籍を置く「聖女」の一人だった。
といっても、歴史の教科書に名が残るような、世界を破滅から救った大聖女様たちとは大違い。私が現役時代に成し遂げた最大の功績といえば、四十年前、このトトリ村を襲った原因不明の流行り病の原因を突き止め、魔獣の呪いを浄化したことくらいなのだ。確かに村を一つ救いはしたが、広大な世界全体から見れば、それはそれは小さな、取るに足らない出来事に過ぎない。
聖女という組織には、現役を退いた後の「セイント・キャリア」と呼ばれる厳格なポストが存在する。
世界規模の災いを払ったような、文字通りの英雄であるベテラン聖女たちには、最高の席が約束されていた。政治の世界で辣腕を振るい続ける『枢機卿』の座や、あるいは政治闘争を嫌う人格者であれば、後進の育成に励みながら莫大な名誉年金を受け取る『聖女院の総院長』の座。そこは教会の運営や国家外交といった「現世の権力」が渦巻く、きな臭くも華やかな世界でもある。
それより一回り小規模な、都市や国の一地方を救った中堅層の聖女たちには、その街の精神的支柱として君臨する『地方の守護聖女』という輝かしい役職が与えられた。彼女たちは赴任してきた現役の新人聖女達を裏から支え、民衆に圧倒的な安心感を与える、いわば街の守り神だ。
では、私のように「小さな村を一つ救っただけ」の、最下層の聖女はどうなるかと言いますと。
答えはシンプル。『役職なしの一般人』。これに尽きる。
教会が冷酷なわけではない。世界中に無数にある小さな村々、そこで生まれた小さな奇跡のすべてに、手当てや肩書きを出し続けるだけの資金も人手も、組織には最初から残されていないのだ。それは純然たる現実の限界であった。
手当ては一切なし、肩書きもなし。現役の若い聖女がいつかこの村に赴任してきた時、その邪魔にならないよう、私はただの「元聖女」として、静かに身を引く必要があった。
だから私は、十年前、五十の時にすべての衣装を教会に返上し、このトトリ村の片隅に小さな家を建てて隠居を始めたのである。教会からの支援がなくても、自分で畑を耕し、薬草を摘み、自給自足の生活を送れば十分に生きていける。何より、権力争いや大聖堂の冷たい石畳に疲れていた私にとって、この「忘れ去られた引退」こそが、何よりの救いだったのかもしれない。
「さて、お天気が良いうちに、裏庭の薬草を干してしまいましょうか」
エプロンの紐をきゅっと結び、私は籠を片手に青々とした庭へと踏み出した。
───
カモミールやラベンダー、怪我の止血に効くキンセンカ。色とりどりの草花が、朝の光を浴びて健気に咲き誇っている。それらを丁寧に摘み取っていると、生垣の向こうから賑やかな足音が近づいてきた。
「マリア様! お早うございます!」
麦わら帽子をかぶった恰幅の良い青年が、大きな木箱を抱えて手を振っている。小走りでこちらへやってきたのは、近所に住む農夫のハンスさんだ。
「お早うございます、ハンスさん。朝早くからどうしたの?」
「これ、今朝採れたてのトマトとキュウリです。ウチの女房が『マリア様に一番良いやつを新鮮なうちに持っていって』とうるさくて。あ、それから、裏の物置の屋根、少し歪んでるでしょう? 今度の週末、ウチの親父と一緒に直しに来ますから、触らないで置いておいてくださいね」
ハンスさんはそう言って、艶やかな野菜が詰まった箱を私の手元に置いた。みずみずしい土の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「まあ、いつもすまないわね。屋根のことまで気にかけてくれて……。ハンスさんには、頭が上がらないわ」
「何言ってるんですか! 俺たちが流行り病で途方に暮れていた時、着物の裾を泥だらけにして、寝る間も惜しんで看病してくれたのはマリア様じゃないですか。あの時、マリア様がこの村に残ってくれるって言ってくれたから、俺たちは今こうして笑って暮らせているんです」
ハンスさんは照れくさそうに頭を掻きながら、白い歯を見せた。その笑顔の眩しさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
教会は私のことを忘れてしまったが、この村の人たちは違う。「昔、ここを救ってくれた命の恩人」として、私を包み込むようにして暮らしてくれているのだ。恥ずかしいけれど、石碑も建てられていたのは、この村に再び訪れてから知ったことだった。
野菜を分けてもらい、家が傷めば直してもらい、代わりに私は薬草で皆の体調を整えたり、ちょっとした生活の知恵を貸したりする。ここには、教会の書類には決して書かれない、温かい草の根の絆があった。
「あ、そうだ。マリア様」
ハンスが思い出したように、声を少し潜めた。
「隣のロアの街にある大きな聖堂に、新しい現役の聖女様が赴任してきたそうですよ。なんでも、中央の聖女学院を出たばかりの、とても若いお嬢さんだとか」
「まあ、そうなのね。若い子がこんな遠い地方まで赴任されるなんて、良い時代になったわね。健気なことだわ」
「そうなんですけどね、街の奴らの噂じゃ、ちょっとお高くとまってて、民衆の相談にもあんまり乗ってくれないって不満が出てるらしくて。やっぱり、マリア様みたいに、親身になってくれる聖女様は滅多にいないんだなって、みんなで話してたんですよ」
「ふふ、私はもう現役じゃないわよ、ただのおばあちゃん。でも、その若い聖女様も、きっと慣れない土地で緊張していらっしゃるのよ。温かく見守ってあげなくてはね」
「マリア様は本当に優しいなあ。じゃあ、そろそろ畑に戻らないと。女房にどやされる。その野菜、たくさん食べてくださいね!」
元気よく去っていく彼の後ろ姿を見送りながら、私はふと、遠い昔の自分を思い出していた。
学校を出たばかりの頃は、私も右も左も分からず、ただ教会の教えを守ることに必死で、民衆の本当の痛みに目を向ける余裕がなかった。その若い聖女様も、今まさに、理想と現実の狭間で もがいている最中なのだろう。
「……まあ、私にできるのは、ここで美味しいお茶を淹れることくらいね」
私は小さく息を吐き、収穫した薬草を抱えて家の中へと戻った。
────
午後になると、私の家はすっかり「村の相談所」に早変わりする。
現役時代のような大仰な『聖なる祈り』や『奇跡の御業』を披露するわけではない。ただ、皆の話をじっくりと聞き、お茶を淹れ、少しばかりの経験からアドバイスをするだけ。けれど、これが驚くほど村の人たちの役に立っているようだった。
「マリアさん、こんにちは……」
トントン、と遠慮がちにドアが叩かれ、入ってきたのは十歳になる少女のリリちゃんだった。いつもは元気いっぱいに野山を駆け回っている子なのに、今日はうつむいて、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「あら、リリちゃん。いらっしゃい。どうしたの、そんなに悲しい顔をして。まずはここに座って、温かいクローバー茶でも飲みましょう」
私は彼女をロッキングチェアに座らせ、蜂蜜を少し多めに入れたハーブティーを差し出した。リリちゃんは、温かいカップを小さな両手で包み込み、その湯気を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あのね……、ウチで飼ってる子羊のモコが、昨日から何も食べてくれないの。お父さんは『よくあることだ』って言うけど、モコ、お腹を壊してるみたいで、ずっと苦しそうに鳴いてて……。私、モコが死んじゃったらどうしようって、怖くて……」
大粒の涙が、彼女の頬を伝ってカップの中に落ちていく。
子供にとって、小さなペットは家族そのものだ。その苦しみを目の当たりにして、胸が張り裂けそうになっているのだろう。
「それは心配だったわね。よく私に話しに来てくれたわ」
私はリリちゃんの横に膝をつき、その小さな手を優しく握りしめた。
「モコちゃんのお腹が痛いのね。大丈夫よ、ハンスさんのところの山羊たちも、時々同じような病気になるの。裏山に生えている『銀鈴草』の根っこをすり潰して、ぬるま湯に溶かして飲ませてあげれば、すぐに良くなるわ」
「本当……?」
「ええ、本当よ。ちょうど昨日、私が乾燥させておいた根っこがあるから、これを持っていきなさい。一日に三回、少しずつ飲ませてあげるのよ。それから、モコちゃんのお腹を、リリちゃんの温かい手で優しく撫でてあげて。『大丈夫だよ』って声をかけながらね」
「うん……! やってみる!」
私は紙に包んだ薬草をリリちゃんに手渡した。彼女の顔に、さっきまでの絶望したような陰りは消え、小さな希望の光が灯っている。
「マリアさん、ありがとう。私、モコを絶対に元気にするね!」
「ええ、リリちゃんなら大丈夫。もし明日になっても良くならなかったら、私が直接モコちゃんを見に行くから、心配しないでね」
リリちゃんはハーブティーを一気に飲み干すと、薬草の包みを愛おしそうに抱えて、元気に家を飛び出していった。
開いたままの扉から、爽やかな午後の風が吹き込み、私の白い髪を優しく揺らす。
「ふう……」
椅子に深く腰掛け、私は自分の分のハーブティーを口に含んだ。
特別な魔法を使ったわけではない。ただ、薬草の知識を教え、不安を取り除いてあげただけだ。けれど、去っていくリリちゃんの笑顔を見た時、私の胸には、現役時代に大きな魔獣を倒した時以上の、深い満足感が広がっていた。
大聖堂にいた頃の私は、常に「もっと大きな成果を」「もっと多くの人々を」と、組織の期待の重圧に押し潰されそうになっていた。こうして目の前の一人の子供を笑顔にすること、それこそが私が本当にやりたかった「聖女」の仕事だったのではないか。最近は、そんな風に思えてならない。
────
夕暮れ時、空が美しい茜色から深い紫色へと移り変わる頃。
私は一日の締めくくりとして、日記帳を開くのが日課となっている。
暖炉にパチパチと薪がはぜる音が、静かな部屋に心地よく響く。
ランプの灯りを頼りに、使い込んだ万年筆でインクを紙に走らせた。
『七月四日。今日もトトリ村は平和でした。ハンスさんが美味しい夏野菜を届けてくれた。物置の屋根を直してくれるとのこと、感謝。午後はリリちゃんが子羊のことで相談に来た。銀鈴草の根を渡す。明日の朝、様子を見に行ってみようと思う。隣のロアの街に新しい聖女様が来られたらしい。彼女の歩む道が、光に満ちたものでありますように……』
書き終えて息を吐き、そっと日記帳を閉じる。
肩書きもなく、贅沢な暮らしもありません。ここには私を必要としてくれる人々がいて、愛する自然があり、穏やかに流れる時間がある。六十になった今、私はこれ以上の幸せを知らない。
トトリ村の夜は、今日も静かに、そして優しく更けていく。
明日もまた、誰かの小さな悩みに耳を傾け、美味しいお茶を淹れる。そんな変わらない日常が待っていることを願いながら、私はランプの火を吹き消した。
暗闇の中、窓の外で輝く満天の星々が、私の静かな隠居生活を祝福するように、優しく瞬いていた。




