聖騎士(仮)の帰還と穏やかな食卓
廃坑の入り口に吹き抜ける風は、昨日までのじめじめとした嫌な気配がすっかり抜け落ち、山本来の爽やかな土と緑の匂いを取り戻していた。
「さてと。浄化の魔道具は……っと」
レギストールは、虚空に手を突っ込むような仕草をしたかと思うと、どこからともなく小さなガラス細工のようなランタンを取り出した。中には青白い光の粒が蛍のようにふわりと浮遊している。
彼はそれを廃坑の入り口の傍らにある平らな岩の上に置き、指先で軽く魔力を流し込んだ。すると、ランタンは微かな羽音のような駆動音を立て始め、周囲の大気に残っていた薄暗い瘴気を、掃除機のようにゆっくりと吸い込み始めた。
「よし、これで完璧だ。一、二週間もすれば、この山の空気も水も、完全に元通りになるよ」
「本当に、あっという間だったわね。お疲れ様、レギストール。とても手際がいいのね、助かったわ」
「君に言われると、照れるな〜」
私が労いの言葉をかけると、彼は自慢の孔雀の羽を嬉しそうに揺らした。
「マリア様! レギストール!」
ふと、山の小道を駆け上がってくる足音とともに、元気な声が響いた。パトロールに出ていたフィオナ様だ。彼女は両手で聖典をしっかりと抱え、息を切らしながら私たちの元へとやってきた。
「はぁ、はぁ……っ。今日も周辺の森をくまなく歩きましたが、やはり呪いの気配は一切ありませんでした! ……あ、あら? お二人とも、なんだかすごくスッキリしたお顔をされていますが……」
「ええ、フィオナ様も、ご苦労様」
私は微笑みながら、彼女の乱れた修道服の襟を直してあげた。
「実はね、呪いの問題はもう解決したのよ。地下深くに大昔のドワーフの機械が埋まっていて、それが壊れて毒を吐き出していただけだったの。レギストールがパパッと直してくれたわ」
「えっ? ドワーフの機械……? 悪魔の呪いではなく?」
フィオナ様はポカンと口を開け、私とレギストールの顔を交互に見比べた。神学校で学んだ『邪悪な悪魔との死闘』とはあまりにもかけ離れた結末に、彼女の頭の中は再び小さな混乱の渦に巻き込まれているようだった。
「世の中、こういう事もあるさ、お嬢ちゃん」
レギストールが少しかがみ、フィオナ様と目線を合わせて優しく言った。
「悪魔が陰険で残忍なのは否定できないが、全員が全員、世界を滅ぼそうと企んでいるわけじゃない。そして、すべての災厄が悪魔の仕業ってわけでもないんだ。……でも、君が一生懸命見回りをしてくれたおかげで、私たちは安心してこの作業に集中できた。ありがとう、フィオナ聖女」
フィオナ様は一瞬ビクッとしたものの、すぐに顔を真っ赤にして「そ、それほどでも!」と照れ隠しのように俯いた。
その様子を見て、私は思わずクスクスと笑い声を漏らした。昨日までは悪魔を前に腰を抜かしていたというのに、若者の適応力というのは本当に素晴らしい。
─
山を下り、村の居住区へと戻る頃には、太陽は西の空へと傾き、トトリ村は温かな黄金色に包まれていた。
「おお、マリア様! フィオナ様、それに聖騎士様も!」
村の広場を通りかかると、農作業を終えたハンスさんが、泥だらけの長靴のまま満面の笑みで駆け寄ってきた。彼の手には、採れたてで土のついた立派なキャベツとニンジンが抱えられている。
「いやぁ、今日は朝から村の空気が一段と澄んでいる気がしてね! きっとマリア様とフィオナ様、そして教会の立派な聖騎士様、三人がお祈りをしてくださったおかげだ。これ、つまらないものですが、夕飯にでも食べてくださいな!」
「あらハンスさん、いつもありがとう。立派なお野菜ね」
私が受け取ろうとするより早く、レギストールが一歩前に出て、見事な騎士の礼をとって、野菜を受け取った。
「感謝する、心優しき村人よ。この村の平和は、我々がしかと守り抜こう」
レギストールが低く威厳のある声でそう言うと、ハンスさんは「おおぉ……!」と感激の声を上げ、何度も頭を下げて去っていった。
「……あなた、本当に天の威厳があるわね」
私がジト目で見ると、レギストールは悪戯っぽく片目をウインクしてみせた。
「これも修行の醍醐味さ。人間との異文化交流は楽しいからね」
そんなやり取りをしながら我が家へ辿り着く頃には、すっかり夕暮れの帳が下り始めていた。
──
「今日は、私が夕食を作ります!」
キッチンに入るなり、フィオナ様が勢いよく手を挙げた。
修道服の袖を捲り上げ、やる気満々の表情だ。
「あら、いいの? 疲れているでしょうに」
「とんでもありません! マリア様とレギストールには、昨日からお世話になりっぱなしです。せめてお料理くらい、私にさせてください!」
彼女の強い申し出に甘えることにし、私とレギストールはダイニングテーブルの席について、お茶を飲みながら彼女の奮闘を見守ることにした。
トントン、トントン……と、少し不器用だが丁寧な包丁の音が響く。
レギストールはハーブティーの入ったカップを傾けながら、とてもリラックスした様子でその音に耳を傾けていた。
「他者が自らの為に料理を作ってくれる音というのは、なんとも言い難い、心地よいものだね。地獄の食堂とは大違いだ」
「ふふ、地獄にも食堂があるのね。メニューは何が出されるのかしら?」
「定番は『マグマ煮込みの激火竜肉』かな。美味しいけれど、必ず胃もたれするんだ。胃が弱くてね。だから私みたいに自炊をする悪魔いるのさ」
私たちがそんな世間話をしていると、コンロの前で鍋をかき混ぜていたフィオナ様が、ふとこちらを振り返って尋ねてきた。
「あの……レギストール。地獄の、その『監理官』のお仕事というのは、やっぱり大変なのですか?」
悪魔に対する好奇心が、ついに恐怖を上回ったらしい。
レギストールは「よくぞ聞いてくれた」とばかりに身を乗り出した。
「大変も大変さ! 何せ、世界中から送られてくる小さな魂のリストと、実際の到着数を毎日毎日、延々と確認するんだ。少しでも数が合わないと、上から嫌味を言われる。おまけに、部門間の書類の申請には、五か所も違う役人の印をもらわないといけないんだ。全く、地獄の官僚主義は疲れるよ」
すると、フィオナ様が目を丸くして、強く同意するように頷いた。
「わ、分かります! 教会も似たようなものです! 祈祷書を一冊新調するだけで、司祭様、司教様、大司教様の御三方の署名が必要で……しかも大司教様はいつも公務でご不在で、手続きに一ヶ月もかかる事もあるんです!」
「だろう!? どこも上の連中は、現場の苦労を分かっていないんだ!」
「はいっ! まったく本当にその通りです!」
天使希望の悪魔と教会の新任聖女が、まさかの「お役所仕事の愚痴」で意気投合している。
私は可笑しくてたまらず、手で口元を覆いながらクスクスと笑い続けた。世界はこんなにもシンプルで、どこまでも不思議で、そして温かい。
やがて、フィオナ様特製の野菜たっぷりのポトフと、ハンスさんにもらったキャベツベースのサラダがテーブルに並べられた。素朴だけれど、素材の味がしっかりといきた、とても優しい味だった。
「おお、んん、ほお! これが聖なる味か! この味付け加減。地獄ではまずないな。美味しいよ、フィオナ。君はいいシェフにもなれる」
レギストールが褒めると、フィオナ様は照れくさそうに笑った。
「私の有給休暇も残りわずかだ。明日には地獄のデスクに戻って、書類の山と格闘しなきゃならない」
食後のハーブティーを飲みながら、レギストールが少しだけ寂しそうに言った。
「またいつでもいらっしゃいな。今度は、村の秋祭りの時期にね。美味しい特産カボチャのスープを作って待っているから」
「ああ、約束しよう。必ずまた来るよ、マリア」
窓の外からは、秋の虫たちの穏やかな鳴き声が聞こえてくる。
村を覆っていた得体の知れなかった不安は消え去り、そこにはいつも通りの、私が心から愛する「トトリ村の日常」が戻ってきていた。
古い友人、新任聖女、そして引退聖女。
種族も年齢も立場も違う三人が囲む、小さな木造りの家の食卓。
六十の元聖女にとって、これ以上の幸せは、きっと世界のどこを探しても見つからないだろう。
私は温かいティーカップを両手で包み込みながら、静かに、そして深く、神様……だけではなく、目の前にいる優しい悪魔と理解ある聖女に、心からの感謝を捧げたのだった。




