岩屋城の戦い④
◇◇
七月二十七日。卯の刻(午前四時頃)。まだ太陽が顔を出すまでには時間があり、空は紫色をしている。あたりがすっかり寝静まった中で島津軍の作戦は実行されようとしていた。
黒いうねりが音もなく岩屋城を囲っていく。
そうして空が白みはじめる手前で総大将の島津忠長の采配が振られた。
低いほら貝の音が幾重にも重なりながら空に溶けていくと同時に、地鳴りのような喚声が沸き起こる。
「全軍、突撃ぃぃぃ!」
忠長の号令が響く。前回までの総攻撃で攻略した曲輪を一斉によじ登っていく島津軍。
それに対して砦を守る中務もからした声を必死に振り絞った。
「ぎりぎりまで引き付けよ! すぐ手前まできたら敵を射抜くのだ!」
既に鉄砲の弾は尽きており、矢がわずかに残るばかり。
一本すら無駄にできぬと紹運の兵たちは目を真っ赤にして慎重に狙いを定める。
「うてええええい!」
高楼の砦から矢が雨のように島津軍の頭上に降り注ぐ。
「ぐああああ!」
ぼろぼろと壁からはがされていく兵たち。だが「今日こそは!」と息巻く島津軍は怯むどころか、むしろ壁を登る足を早めている。
一の曲輪、二の曲輪と漆黒の軍勢に侵食され、ようやく太陽が地平線から顔を出した頃には、砦のすぐそばまで島津軍が迫ってきた。
「絶対にここを守るのだあああああ!」
「うおおおお!」
ついに中務は自ら槍を取って壁際に立つ。
懸命に手を伸ばしてくる敵兵を穂先で叩き落としていった。
そこに今度は島津軍から矢が飛んでくる。
「なんの!」
中務はとっさに横に立てかけてあった楯の背後に身を潜め、それをやり過ごすと、再び壁際にたって槍を繰り出した。
顔を真っ赤に染め、息を止めたまま必死に戦い続ける中務。脳に空気が回らず、頭がぼおっとする中、浮かんできたのはまだ元服前の我が子と若い妻の姿。
背後の城にはまだ彼らがいる。そしていつも自分を頼りにしてくれた愛すべき主君がいる。
「……負けらない。負けられないのだああああ!」
上を向き、心のままに叫ぶ。一筋の雲が流れているのが目に入った。
わが願いをどうか天まで届けてくれ――。
そう祈りをこめたその時だった。
――パァァン。
短い破裂音が耳をつんざいたかと思うと、右肩に激痛が走る。
槍が手から離れ、何が起こったのか理解するために棒立ちになった。
その両足に伸びてきた敵兵の手。
「おのれっ!」
短いうめき声をあげるのがやっとだった。体は壁の下へ引きずり降ろされ、無数の刃が彼の首とひたいを貫いたのである。
「砦の守将、屋山中務、討ち取ったりぃぃぃ!!」
島津軍から「うわああああっ!」という大歓声があがり、高橋軍は意気消沈した。
そんな中、二の丸の大手門の守りに奔走していた紹運だけは冷静に味方に指示を飛ばす。
「かくなるうえは本丸で守るのだ! 二の丸は捨てよ! ひけ! ひくのだ!」
すでに七百六十三人のうち三百人は討たれている。残り五百人足らずを、二の丸の門が開かれる前に本丸へ続く切通しへと誘導する。
さらに紹運は二の丸の侍屋敷に残った女や子どもたちに「一刻も早く城から離れろ!」と促した。いざという時のために用意した隠し通路へ萩尾大学に誘導させる。
だがそんな中、人の流れに逆らおうとする若者が一人。
屋山中務の嫡男、太郎次郎だった。
「行ってはいけません!」
必死に少年の袖をつかむ母。だが彼の決意は鉄のようにかたかった。
「離してくだされ、母上! これは意地なのです! 一分なのです! 父を討たれ、主君を残して城から逃げたとなれば千代の恥! これは屋山の名を誇りにするか、恥にするか、その大一番なのです!」
理屈ではない。母としての本能が勝り、彼女は持った袖を手放さなかった。
太郎次郎は腰に差すのを父から許されていた短刀を取り出すと、母のつかんでいる袖をびりびりと切った。
「おやめなされ! 太郎次郎!」
母の魂の叫びもむなしく袖だけが母の手元に残り、太郎次郎は敵軍の中に甲冑もつけずに突撃していく。
「うああああああ!」
声変わり前の高い声を不審に思った島津軍の兵たちは、はじめ様子を見ていたが、太郎次郎の鬼気迫る玉砕攻撃に、いっさい手を抜かずに戦った。
一撃、二撃と剣を振り下ろす太郎次郎。屈強な薩摩隼人が一人、二人と倒される。
――父上から教わったこの剣で敵を討ち果たしました!
彼は目から流れる涙に熱い思いを託し、なおも足と手を動かす。だがこれ以上は体の方がついていかなかった。足をもつらせて前のめりに転がる太郎次郎。島津兵は躊躇なく彼の首筋に刃を突き立てた。
「いやあああああ!」
息子の死を遠くに見た母が泣き崩れる。その両肩を高橋家の小姓たちが支えながら、彼女を城の外へと誘っていったのだった。
太郎次郎の母は遺された片腕の袖を生涯肌身離さず持ち続け、悲涙にくれたと言われております。
そしてこの「白麻地、藍文」の遺袖は子孫によって大事に秘蔵されているとのことです。




