父の記憶
友花莉が眠ってしまってから、数時間後にはすぐに目を覚ました。部屋を見渡して、ノースフェイスちゃんとのりおの姿がまだある事に安堵した。
「大丈夫?」ノースフェイスちゃんは友花莉の顔を覗き込んだ。
「うん、まぁなんとか?」
「それで、何があったの?」友花莉は、どこから説明していいか分からなかった。すると、突然、のりおがノースフェイスちゃんに何かを訴えかけ始めた。どうやらノースフェイスちゃんは、のりおの話している内容が理解できているようだった。彼女は、適宜頷きながら話を聞いていた。友花莉は、その様子をただただ見ながら、どうやって意思疎通をしているのか観察した。すると突然ノースフェイスちゃんが声を上げると、心配そうな目で友花莉を見た。
「そんなことがあったの?」友花莉がのりおに視線を向けると、どや顔とも取れる表情で頷いてきた。
「大変申し訳ないんだけど、私、まだのりおと意思疎通ができないんだよね・・・。」友花莉の言葉に、のりおはショックを受けた。しかし、ノースフェイスちゃんの中では、そんなことはどうでも良かった。今はとりあえず大変な思いをした友花莉を癒してあげることだけが、彼女の原動力となっていた。
「とりあえずおいで。」ノースフェイスちゃんは両手を大きく開けて胸の中に向かい入れてくれた。友花莉は、のりおがなんの話をノースフェイスちゃんにしていたのか分からなかったが、今は何も考えずにただ彼女に身を委ねていた。
「何があっても私とのりおがついてるからね。何か力になれる事があれば言ってね。」今の友花莉にとって、母親に頼れないからこそ、その言葉だけでも救われた。
「でも私よく分からないんだけど、友花莉のパパはなんで、嫌われてしまったの?」やはりのりおはリビングでの話をしていたと言うことがわかった。
「まぁ、いろいろとあるのよ・・・。」友花莉は不意に昔の嫌な記憶が、蘇ってきそうになり、反射的に考えるのをやめてしまった。だが、それはすぐに間違っているのではないかと自問自答した。今は昔の・・・、父親の話をされたところで、友花莉の中での無意識的なブレーキによって、何も思い出せない。もしそこに付け込まれてしまえば・・・。父親やその弁護士たちにいろいろと言いくるめられたら、友花莉にとって最悪の結末は免れない。今回の戦いに勝つためには、過去に向き合わなければ、勝機は見えなかった。友花莉はノースフェイスちゃんとのりおを見た。
「私にとってとても辛い過去なんだけど、聞いてくれる?」友花莉は大きく息を吐いた。ストレスからか、お腹に何か重いものがのしかかっている気分だった。もちろん二人は、大きく頷いていた。
「もちろん、私に話してみて。何かあればすぐに抱きしめてあげるわ。」
「ありがとう。」友花莉が思っていた以上に気持ちは楽だった。けれど怖いものは怖い。のりおは何かがあってもいいように、薬が入った巾着を持ってきてくれていた。友花莉は深呼吸をすると、頭の中に久しぶりの顔が浮かんでいた。意外にも父親の顔は優しい時の顔だった。次に声も聞こえてきた。優しくて低く響く声だった。小学生の頃はよくお出かけをしていた。近くのスーパーから始まり、レストラン、映画館、テーマパーク、旅行にも行ったことがあった。父親はソフトクリームが好きだった。二人でよくソフトクリームを食べていたのを覚えている。友花莉は、思っていた以上に楽しかった思い出があった事に驚いていた。でも、その時の母親の記憶がない。そういえば母親とどこかに行ったことはなかった。唯一行ったのは旅行。でも、確かあの時も母親は機嫌が悪くて、結局父親と二人で名所を回っていた。その頃から二人の関係は冷え切っていたのか?友花莉は、過去のトラウマに対する恐怖よりも、いつものように好奇心が勝っていた。そうなれば行けるところまで行くしかない。友花莉はそう思い、ノースフェイスちゃんに昔の話を続けていた。ノースフェイスちゃんも、のりおも、友花莉の言葉を一言一句聞き逃すまいという意志で真剣な眼差しで、話に聞き入っていた。
あの時だったのかもしれない。そう思えたのは、父親がクビになっていつもよりも早い時間に仕事から帰ってきた時の事だった。その時ばかりは激しい喧嘩だったのを覚えている。そして、その日からお出かけする事は無くなった。とはいえ、友花莉もそのあとすぐに中学生になり、絵に出会った事であまり気になる事ではなかったのかもしれない。でも、ふと友花莉は思い出した。その喧嘩の理由は、喧嘩になるようなことではないということに。なぜ二人は、あの時あんなに喧嘩したのか。仕事がクビになって辛いのは父親に違いない。そんな父親に母親が・・・。友花莉はあらぬ疑いを母親にかけそうになったのを必死で止めた。
ノースフェイスちゃんはなぜか涙目だった。
「なんでノースフェイスちゃんが泣くのよ。」
「だって、分からないんだもん。お父さんと仲が良かったのになんで友花莉は今、お父さんを憎んでしまっているの?」その答えはとても簡単だ。母親に手をあげたからだ。毎日、怒号に加え、食器や家具が飛び交っていた。そんなふうに父親が変わってしまったのは友花莉が高校生になってからだった。友花莉の中でも定かではないが、家にいない時間が増えたこともあり、何かしらの仕事をしていたに違いなかった。当の友花莉も学校の部活で忙しく家に帰るのも遅かったせいで詳細は分からないが、毎日家のドアを開けたら、怒号と荒れ果てた玄関が友花莉の眼前に広がった。友花莉は毎日泣きながら夫婦喧嘩に割って入り、二人を引き剥がした。その度に友花莉は父親から同じセリフを言われていた。
「女はすぐに群れやがって・・・。恩知らずが。」そのセリフが友花莉の頭の中で鳴り響き始めた。
「大丈夫?」ノースフェイスちゃんは、友花莉の異変を察知した。
「うん、ごめん。大丈夫。」
「少し休もうか。別に急ぐこともないしね。」
「いや、大丈夫続けるね。」
「無理しないでね。」ノースフェイスちゃんは、心配そうに友花莉を見つめた。友花莉の頭の中は、すでにあの日の状況が浮かんでいた。その日は、学校の定期試験も終わり、テスト勉強の鬱憤を晴らすために友達と遊びに出掛けていた。楽しい時間を過ごしている間に友花莉は、家に帰りたくない気持ちがつのっていき、友達を連れ回していた。だが、さすがに夜の九時を過ぎ、友達の携帯には親からの鬼電が鳴り続いていた。渋々家路についた友花莉はコンビニの雑誌コーナーで立ち読みをしたりしながら、家の敷居を跨いだのは、日付が変わって三十分経った頃だった。さすがにこの時間だったら、喧嘩も終わっているだろう。今思えばなんて浅はかな考えだったのだろうか。家に入るといつもの様に怒号が聞こえていた。だが、いつもと少し様子が違っていた。どこか様子がおかしい。友花莉は恐る恐るリビングの扉を開くと、そこには傷だらけの母親と馬乗りになって、暴力を振るっている父親の姿があった。友花莉はすぐに父親をどかそうとした。しかし、相手は成人男性。とても女子高生の力では刃が立たなかった。すると父親は笑いながら友花莉を見た。
「おかえり友花莉。お前が喧嘩を止めないから母さんはこんなに傷だらけになっちまったぞ。」
「あんたよくも友花莉にそんな事が言えるわね。」母親は消え入りそうな声で怒鳴りつけた。しかし、すぐに父親の平手打ちが一発入った。
「お前が悪いんだろ。お前が俺にあんな事を言わなければこうはならなかったんだよ。」父親は、さらに数回母親に手を挙げていた。
「仕方ないじゃない、事実は事実よ。あんたは所詮・・・。」その瞬間は母親は喋るのをやめて上に乗っている父親の視線と同じ方向を見た。するとそこには果物包丁を父親に向けて立っている友花莉がいた。
「友花莉、やめなさい。」友花莉には母親の声は届いていなかった。友花莉はもううんざりだった。毎日のように家に帰ってくるや否や始まる地獄みたいな日々に、終止符を打てるのであればなんでも良かった。自分が死のうが父親が死のうが、父親を殺して自分が刑務所に入ろうが、この先の人生が台無しになろうが、今、目の前で起きている地獄さえ終われば。
父親は我が子から向けられた刃を見て、不敵な笑みを浮かべていた。
「いいぞ。やってみろよ。殺せるものなら殺してみろ。」父親がたかをくくっているのは、一目瞭然だった。だが、友花莉はそのつもりだった。迷いも恐怖も何もなく、父親の言われるがまま、自分の思うがままに刃を父親に目掛けて進んだ。その瞬間、父親の目に恐怖心が浮かんでいたのを、友花莉は今でもはっきりと覚えていた。父親はすぐに友花莉を突き放して自分の身を守った。その瞬間に母親から離れたおかげで、母親を救出する事ができた。しかし、友花莉が持つナイフの矛先は、まだ父親をとらえていた。父親は震えていた。その瞬間、友花莉の背後から大きな何かが飛んできた。
「出て行け。二度とここに来るな。」何が飛んできていたのかいまだに分からなかったが、父親は余裕で吹き飛ばされていたほど大きな何かだった。
「何するんだよ。ここは俺の家だぞ。出て行くならそっちだろ。」そんなふうな言葉が、大きな何かの先から聞こえてきた。しかし今度は、父親の大事な荷物らしきものを母親は窓の外に投げ捨てだした。
「知るか。出て行け、出て行け、出て行け!」母親は気が狂った様に同じ言葉を絶叫していた。友花莉はあまりのストレスでそのまま気絶してしまい、この先のことは覚えていない。だが、次の日警察が家にきて、いろいろ調べていたのは覚えていた。深夜に大声を出していれば、警察に通報されても仕方がなかった。そのあとご近所でいろんな噂もたち、いつまた父親が戻ってくるか分からないというのもあり、引っ越す事を決め今に至る。
こんな壮絶な過去を思い出すのはかなりしんどかった。ノースフェイスちゃんやのりおがいなければ、ここまで過去を振り返ることはなかったに違いなかった。そして、ある事にも気が付かなかったであろう。
「なんて悲しい話なの。」ノースフェイスは大号泣しながら声を震わせていた。
「なかなか壮絶だったでしょ?」
「でもお父さんもきっと何か理由があったのかもしれないわ。」ノースフェイスちゃんの言う通りだった。今思い出してみて、今だからこそ気になるところがあったのも事実だった。もちろんだからといって、父親のしたことを許すつもりもない。でもそこを無視して戦いを挑むのはかなり危険だ。友花莉は、大きくため息をついた。一体どうしたらこんな話を母親に切り出せるのか、友花莉の悩みはさらに大きくなっていった。




