トマトラーメンと大事な話
家の扉を開けると、すでに夕食の準備が進められていた。匂いからして、母親自家製のトマトラーメンだとすぐにわかった。言わずもがな、これは友花莉の大好物だった。インスタントラーメン、出来れば塩味に、トマト缶にトマトジュースを入れ、最後にチーズとネギをトッピングすれば、小さい頃から食べているお馴染みの味の完成だ。友花莉は一瞬だが、今日あった出来事を忘れることができた。だが、すぐに友花莉の中で今日の出来事からさらに大きなトラウマまで引き寄せてしまっていた。
「おかえり、随分遅かったけど何してたの?」どうやら学校から連絡は来ていないようだった。
「ちょっといろいろあって。」
「なんか顔色悪いけどなんかあった?」
「ううん、大丈夫。」友花莉の返答に母親は腑に落ちていないことは、もちろん友花莉もわかった。
「てか、久しぶりだね。トマトラーメン何年振り?」
「何年振りだなんて大袈裟な。友花莉が好きだったと思ってね。」
「手抜きだからじゃなくて?」
「まぁ、それもあるけど・・・。」恐らく何か話があるのだろう。なぜなら、前回のトマトラーメンは、ここへ引っ越すっていう話をした時だった。いつからか母親は、何か友花莉に大事な話をするときは、決まってトマトラーメンを作るようになってしまっていた。もちろん友花莉も、それに気がついており、毎回その大事な話をいつ切り出すのか気が気ではなかった。そうこう話しているうちに、食卓には真っ赤でぐつぐつと音を立て、食欲をそそる匂いを充満させたどんぶりが二つと、有り合わせで作られたサラダが真ん中に置かれた。友花莉は冷蔵庫から、薄くスライスされた正方形のチーズを取り出し、適当に四枚ほどに切りわけて、真っ赤な丼の中に放り込んだ。丼の中は、チーズの控えめで香ばしい匂いが加わり、さらに食欲をそそった。
「いただきます。」友花莉はトマトラーメンのおかげで、すっかり食欲に頭を侵食されていた。箸の先を赤いトマトスープに浸しながら、麺を五本ほどの束で挟みあげ、息を吹きかけ熱を逃した。その時に立ち上る湯気が、さらに友花莉の期待値を上げ続け、待ちきれずに熱々の麺をいよいよ口に放り込んだ。麺は思った以上に冷ませていなかったが、それ以上に久しぶりの再会を果たした絶品の味に思わず笑みがこぼれた。
「美味しい?」分かりきった質問に対して、友花莉はただただうなずくのみで、すぐさま二口目を放り込んだ。
しばらく食卓では、二人の麺を啜る音がテンポ良く鳴り響いていた。友花莉は大事な話の事も、今日の学校での出来事も、この時だけはトマトラーメンのスープに溶け込んでいた。だが、友花莉がちょうどいい頃合いに溶けた原形をとどめきれないチーズに手をかけた時、急に母親から、重苦しい空気が舞い込んできた。
「わかってるよ?」友花莉は思わず恐怖に対して好奇心で立ち向かうことにした。母親は不思議そうな表情で箸をとめ、友花莉の顔を見た。
「これを作るってことは、何か話があるんでしょ?私も子供じゃないんだから、そのくらいわかるよ。」母親は驚いた表情から、すぐにどこか覚悟を決めたような表情に様変わりした。
「そうよね。友花莉はそう思うよね。」母親はそういうと、置いてあった水を少し飲んだ。
「実はね、あいつの弁護士から連絡があってね。」
「お父さん?」
「そう。」友花莉のちょっとした予測は当たっていた。
「なんだって?」
「あんたを引き取りたいんだって。」母親の言葉には、迷いがあった。友花莉が、どう思うか分かっていた。友花莉の体は震えていた。怒り、恐怖、なんだか分からなかった。だが、とにかく過去のトラウマから、その申し出に対しての拒否反応であることは一目瞭然だった。
「もちろん、私が嫌なら拒否出来るよね。」しかし、母親は渋い顔をしていた。
「できないの?なんで?なんでよ。どうして?」友花莉は母親に迫った。
「お金よ。養育費の問題よ。」
「そんなの払って当然でしょ?父親なんだから。」
「だから、引き取るって言ってるのよ。親権をこっちに譲らないなら、養育費は払わないってことよ。」
「何言っちゃってんの?暴力を振るったのはあっちじゃん。」
「あんたには振るってないじゃない。」
「私にじゃなくても、ママに振るったでしょうよ。」誰に振おうが、暴力は暴力。それに罪の差なんてものはなかった。
「でも、私も振るっちゃったのよ。あの人に・・・。」母親からは後悔の涙が浮かんでいた。
「だから、何?正当防衛じゃないの?」初めて聞いた事実に、少し戸惑いはしたが、友花莉は堂々と言い放った。しかし、母親は言いにくそうに目を泳がせていた。
「やり過ぎちゃったのよ。」
「やり過ぎたって?」友花莉の頭の中はゴミ屋敷のようにぐちゃぐちゃだった。
「とにかく向こうは、私が暴力で友花莉を支配して、嫌々私について行かせてるって主張しているらしいのよ。」
「何それ、バカみたい。でもそういう話し合いって、弁護士同士で解決させるんじゃないの?当事者が介入したら、いろいろ面倒な事になるからって聞いたよ?」
「そうなんだけど・・・。」またまた母親は、話づらそうに冷め始めたラーメンを啜った。
「友花莉の気持ちを大事に考えてね。嫌なら拒否権はあるんだからね。」
「何?話して。」母親は小さく息を吐いた。
「向こうの弁護士が友花莉と話したいって言ってきてるのよ。もちろん、こっちの弁護士も一緒にいるけど。それで、あんたがどっちに行くべきなのかちゃんと決めるべきじゃないかっていう申し出を、どうやら裁判所が受け入れたみたいなのよ。」
「ちょっと待って。私もう高校生なのよ?そんなこと大人に決められなくても、自分の意志で決められるわよ。」
「その判断も踏まえてらしいのよ。」友花莉は、ますますイライラしてきていた。父親に対してもそうだが、その話に取り巻く大人全員を憎んだ。
「これは私には、何もできない事なのよ。当日も私は同伴することができなくて、一人でやらなきゃいけない。だから、友花莉が決めて。」友花莉は等々笑い始めた。
「私が決めるって言ったって、行かなかったらパパについて行かなきゃいけないって事でしょ?そんなのありえない。行くに決まってるじゃん。」
「だけど、私のことは気にしないでね。友花莉の・・・。」
「気にするよ。だって・・・。大事なママだもん。今までずっと私の事守ってくれてたじゃん。パパが暴力を振るった時も。」友花莉は心に決めていた。ようやく母親に恩返しができる、その気持ちだけが友花莉の気持ちを鼓舞させた。「だから、やり過ぎちゃったんでしょ。私のためにしたことなんだから、今度は私がママを守らなきゃ。」友花莉は凛々しい顔つきだった。
「早く、弁護士に電話して。私、もう夏休みだからいつでもいけるよ。」母親は堪えていなきゃ溢れていたであろう、目に留まっている涙を手で拭って、「わかった。」と一言だけ発した。
「これで話は終わり?もう麺が伸びちゃってる。」
「ごめんね。美味しくなくなっちゃったね。」母親の声は少し上擦っていた。
「ううん、トマトラーメンは、冷めても伸びても美味しいのよ。」そう言いながら友花莉は、麺を大量に口に放り込んだ。それはもう冷めきっているからこそできる妙技だった。
「あんまり急いで食べたら、またお腹壊すよ。」母親の忠告を無視して友花莉は、どんどんと麺を口の中に放り込んだ。友花莉はそんな心配よりも、もっと大きな不安を隠そうとしていた。母親を守るため、恩返しをすると自分の心を奮い立たせたが、自分にできることなんて何があるのか。もしうまくいかなければ、自分は父親に引き取られるだけでなく、大好きな母親を一人にさせてしまう。あの父親のことなら、二度と母親と会わせないなんてことを言ってきてもおかしくなかった。考えれば考えるほど不安に襲われる。だが、今はそんな不安を明かすことができる相手など居ない。トマトラーメンが減るにつれて、だんだんと心細くなった。
夕食を終えた友花莉はそのまま、自分の部屋で過ごすことに決めた。作品作りも急ブレーキがかかってしまったことで、休んでいる暇がいよいよ無くなり焦る気持ちもあるが、かと言って机に向かったとしても時間だけがすぎていく気しかしなかった。だからと言って、リビングにいるよりかは、今自分ができることをする方が良いと思った。友花莉が自室の扉を開けると、いきなり前方から何かが胸に飛び込んできた。急なことに、友花莉は体制を崩し、倒れ込んでしまった。
「友花莉、大丈夫心配したんだから。」半べそをかいたノースフェイスちゃんの顔が、目の前に現れた。「どう?もう何ともない?」頭の上では、もふもふな何かが動いていた。すぐにのりおが、頭を撫でてくれていることがわかった。友花莉は安心した。安心しすぎて、一気に緊張の糸が切れ、いろんなものが溢れ出るかのようにノースフェイスちゃんの膝に泣き崩れた。
「ちょっと、なんで泣いてるの?のりおあんたなんかした?」のりおは全力で首を横に振った。ノースフェイスちゃんは戸惑いつつも、無心で泣き続ける友花莉の頭を撫でた。
「よしよし。」友花莉はしばらく泣いていた。そして泣き疲れて眠ってしまった。ノースフェイスちゃんとのりおは、そのまま起こさないように部屋の中に運んだ。
「可哀想に・・・。こんな小さな体で、いろんなことを抱えちゃってるんだね。」のりおも心配そうに友花莉を眺めていた。友花莉の泣き声は母親の耳にも入っていた。母親は溢れる涙を堪えながら、一人リビングで、静かな夜を物思いにふけながら過ごしていた。
「母親失格だな・・・。」




