華やかな夜の宴と、勘違いの闖入者
王宮の裏に広がる大庭園。そこは今宵、貴族たちにとっての一大イベントの一つである『星降る夜の園遊会』の舞台となっていた。
見渡す限りの広大な芝生には、淡い光を放つ魔石のランタンが等間隔に並べられ、夜の闇を優しく照らし出している。長いテーブルには、王宮の料理長が腕を振るった豪華絢爛な料理の数々――艶やかに焼き上げられた丸鳥のロースト、宝石のように輝くフルーツのゼリー寄せ、濃厚なチーズと香草のパイなどが、所狭しと並べられていた。
「アイリス、足元は痛まないかい?」
隣を歩くギルバート様が、私を気遣うように声をかけてくれる。彼の漆黒の礼装は夜の闇によく映え、すれ違う令嬢たちが思わずため息を漏らすほど美しかった。
「はい、全く痛くありません。ロランさんに作っていただいたこの靴、本当に素晴らしいです。石畳でも芝生の上でも、まるでふかふかの絨毯の上を歩いているみたいで。これなら、広い庭園を隅から隅まで歩いて回れます」
私がドレスの裾から少しだけ覗く、装飾を抑えた革靴を見せて微笑むと、ギルバート様も満足そうに目を細めた。
「それは良かった。君が苦痛を感じることなく、この夜を楽しめることが私にとっての一番の喜びだからね」
そう言って私の手を引く彼のエスコートは、過剰に飾ったものではなく、私の歩幅に合わせたとても歩きやすいものだった。
園遊会の催しは、まさに王国の財力と権力を結集したような豪華なものばかりだ。
庭園の東側では、選ばれた近衛兵たちによる、模擬剣を使った剣闘士大会が行われている。鎧と鎧がぶつかり合う甲高い音と、鍛え上げられた騎士たちの気迫に、観客からは大きな歓声が上がっていた。
「見事な足捌きですね。あそこまで重い鎧を着て、あんなに素早く動けるようになるまで、どれほどの血の滲むような訓練を重ねたのでしょう。模擬剣とはいえ、当たれば相当痛そうですし……毎日生傷が絶えないお仕事ですね」
私が素直な感想をこぼすと、近衛騎士団の副団長であるギルバート様は、嬉しそうに頷いた。
「その通りだ。華やかに見える剣技も、泥臭い基礎訓練の積み重ねでしかない。君は騎士の戦いを見ても、上辺の勇ましさではなく、その裏にある努力と現実的な痛みに目を向けてくれるのだな。私の部下たちが聞いたら、泣いて喜ぶだろう」
さらに庭園の中央へ進むと、今度は一流の楽団による生演奏が始まっていた。
優雅な弦楽器の調べに合わせ、王宮お抱えの一流魔術師たちが光の幻影魔法を紡ぎ出す。
空中に撒かれた数え切れないほどの赤い薔薇の花びらが、ふわりと宙に浮いたかと思うと、光を帯びて無数の蝶の形へと姿を変え、一斉に夜空へと舞い上がった。蝶たちはやがて集まり、美しいドレスを纏った人の形を成して、音楽に合わせて優雅に踊り始める。
それと同時に、庭園のシンボルである大噴水が音楽のテンポに合わせて色彩を変え、水術魔法を操る魔術師たちによって、水柱がまるで生き物のように空中に複雑な幾何学模様を描き出す、圧巻のウォーターショーが繰り広げられている。
「すごいですね……。光と水の動きを、楽団の演奏にここまで完璧に合わせるなんて。魔術師の方々と楽団員の方々で、本番までに何度綿密な打ち合わせとリハーサルを繰り返したのでしょう。途中で息が合わなくて、何度もやり直した苦労が目に浮かぶようです」
「ふふ、アイリス。君にかかると、この幻想的な魔法のショーも、職人たちの汗と涙の結晶の舞台裏に見えてくるな。だが、君の言う通りだ。この数分の魔法のために、彼らは何ヶ月も前から徹夜で調整を続けていた。君は本当に、物事の本質を的確に突く」
「だって、これだけのことを、何の苦労もなく魔法でポンと出せるわけがありませんから。素晴らしいものには、相応の地道な労力がかかっている。私は、その現実的な頑張りの方に感動してしまうんです」
私たちが温かい料理の載った皿を手に、そんな飾らない会話を楽しみながらショーを見上げていた、その時だった。
「――ギルバート・ルフェーヴル閣下! それに、アイリス!」
不意に、背後から場違いに尖った声が響いた。
振り返ると、そこには顔を紅潮させ、肩で息をしているジュリアン・ケトラーの姿があった。
彼はなぜか、勝利を確信したような、ひどく得意げで傲慢な笑みを浮かべてこちらに近づいてきた。
「ケトラー子爵令息か。私と私の婚約者に、何か用だろうか。見ての通り、私たちは今、ショーと食事を楽しんでいる最中なのだが」
ギルバート様の声は、私に向けられていた温かなものから一転して、文字通り『氷の副団長』の異名にふさわしい、絶対零度の冷たさを帯びていた。
しかし、ジュリアンはその温度差に気づく様子もなく、大仰な身振りで話し始めた。
「閣下! 貴方のような高貴で立派な御方が、そのような女に騙されているのを見るに見かねて、真実をお伝えしに参りました! 私は、すべてを理解したのです!」
「……すべて、とは?」
「このアイリスという女の、恐ろしい策略のことです!」
ジュリアンは私をビシッと指差した。
「この女は、私との婚約期間中、わざと貴族らしからぬ発言を繰り返し、男のプライドを傷つけるような言動を取り続けました! そうして私を意図的に激怒させ、自ら『婚約破棄』を突きつけられるように仕向けたのです! すべては、より身分の高いルフェーヴル侯爵家である貴方に取り入るための、計算し尽くされた演技だったのです!」
ジュリアンの言葉に、私は思わず瞬きを繰り返してしまった。
えっと……つまり彼は、「私がギルバート様と結婚するために、わざとジュリアンに嫌われるような態度をとって婚約破棄を誘導した」と言っているのだろうか。
「閣下、目を覚ましてください! この女は、普段から特別な感性を持っているかのように振る舞っていますが、それもすべて、貴方のような『一風変わった女性に興味を持つ男性』を釣り上げるための虚飾です! 私に恥をかかせ、踏み台にした恐ろしい毒婦なのです!」
ジュリアンは自分の推理にすっかり酔いしれているようだった。
私は手元の取り皿にある、温かいローフを一口食べ、咀嚼して飲み込んでから、ごく普通に答えた。
「ジュリアン様。それは、ずいぶんと手の込んだ複雑な推測論ですね。もし私にそれほど緻密な演技力と、未来を予測して立ち回る体力があるのなら、もっと別のことに労力を使います。例えば、この美味しいお肉が冷めないうちに、どうやって効率よく全てのお料理を制覇するか、といったような、もっと人生を楽しく過ごすような計画に」
「ふん! まだそんな『素朴で飾らない令嬢』の演技を続けるつもりか! 私にはもう通用しないぞ!」
「いえ、演技も何も、私はただ、コルセットを緩めて美味しい食事を食べながら、ギルバート様とショーを楽しみたいだけなのですが……」
私が首を傾げていると、隣に立つギルバート様から、チリ、と肌を刺すような冷たい空気が放たれた。
見れば、ギルバート様のアイスブルーの瞳は、極寒の吹雪のように荒れ狂う怒りを宿し、ジュリアンを真っ直ぐに射抜いていた。
「……ケトラー子爵令息。お前は今、私の愛する婚約者を、己の虚栄心を満たすための道具だと、そう言ったか?」
「か、閣下……!?」
ジュリアンがようやく異常な気配に気づき、一歩後ずさる。
ギルバート様の声は低く、静かだったが、その奥には明確な殺気が込められていた。彼の腰元にある騎士の剣が、僅かにカチャリと音を立てる。
「お前がどれだけ愚かで、真実を見る目を持たない男かは知っていたが……まさか、自らの器の小ささを正当化するために、アイリスの素晴らしい信念と素直さを『演技』などと侮辱するとは。お前のその薄っぺらな妄想を、彼女の美しい現実に擦りつけるな」
「ひっ……!」
「彼女が私を騙しているだと? ふざけるな。私は彼女のその飾らない言葉に、本音に、心から救われているんだ。……私の目の前で、私の最も尊い宝を愚弄した罪、万死に値すると思え」
ギルバート様の周囲の大気が凍りつき、芝生に白い霜が降り始める。剣の柄に手がかけられ、周囲の温度が急激に下がっていく。これはいけない。いくら何でも、夜会の中心で流血沙汰になってしまう。
私は慌てて、ギルバート様の剣の柄に添えられた手に、両手でそっと触れた。
「ギルバート様、お待ちください!」
「アイリス……。止めるな。この男は、君を侮辱した。私のことはどう言われようと構わないが、君が根も葉もない妄想で貶められることだけは、絶対に許せない」
ギルバート様の私を見る目はひどく痛ましげで、本気で私のために怒ってくれているのが痛いほど伝わってきた。その不器用なほどの愛情は、とても嬉しい。
嬉しいけれど、ここで彼が暴れてしまっては困るのだ。
「嬉しいです、ギルバート様。でも、剣を抜くのはやめましょう。もしここで騒ぎを起こしてしまったら、ギルバート様の立場が。それに、あそこで懸命に演奏している楽団の方々の手も止まってしまいます。噴水の周りにいる水術の魔術師の方々が驚いて集中を切らしたら、空中の水が全部落ちてきて、せっかくの美味しいお料理も、私たちの服も、みんな水浸しになってしまいますよ」
「……」
「私は今日、ギルバート様と一緒に、この美味しいお料理と素晴らしいショーを最後まで楽しみたいんです。こんなことでお料理を冷ましてしまうのは、あまりにも勿体ないと思いませんか?」
私が極めて現実的で、フラットな理由を口にすると、ギルバート様は一瞬ぽかんとした顔になり――やがて、その瞳からスッと怒りの吹雪が消え去った。
彼から放たれていた冷気が収まり、いつもの優しい、少し呆れたような笑みが浮かぶ。
「……ああ、君には敵わないな。私がどれだけ怒りに我を忘れても、君はいつだって、目の前の温かい料理と、人々の苦労という『現実』に引き戻してくれる。……そうだな、君との大切なデートの時間を、こんな男のために台無しにするのは、確かに勿体ない。剣を抜く価値もない」
ギルバート様は剣から手を離し、ジュリアンを見下ろした。その目にはもう怒りすらなく、ただ路傍の石を見るような冷徹な無関心しかなかった。
「聞いただろう、ケトラー。私の婚約者が、料理が冷めるからあっちへ行けと言っている。だが今度、彼女を不敬な言葉で呼んだ時は、家門ごと潰し、王都から追放する。……分かったならとっとと失せろ」
「ヒィッ……!! あ、ああぁ……!!」
ギルバート様の放つ本物の威圧感と恐怖に当てられ、ジュリアンは腰を抜かしかけたまま、青ざめた顔で転がるようにして逃げ去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
「驚きました。ジュリアン様が、あんな突拍子もない勘違いをするなんて。人間の想像力って逞しいですね」
「君が気に病む必要は一切ない。あれは、自らの過ちを他人のせいにしなければ生きていけない、哀れな男の末路だ。……アイリス、嫌な思いをさせてすまなかったね」
ギルバート様が申し訳なさそうに私の頬にそっと触れる。彼の指先は少し冷たかったけれど、とても優しかった。
「いいえ。ギルバート様が私のためにあんなに怒ってくださったこと、とても嬉しかったです。でも、これからは怒る前に、まずお肉を食べてくださいね。怒るとエネルギーを使いますから」
「ふふっ、ああ、肝に銘じておこう。私の主治医よりも的確な忠告だ」
ギルバート様は心底楽しそうに笑うと、私の肩を抱き寄せた。
ちょうどその時、楽団の音楽がクライマックスを迎え、空中に舞っていた光の蝶たちが一斉に弾けて、無数の星屑のように夜空に降り注いだ。同時に、大噴水の水柱が最高潮に達し、虹色の光を反射してきらきらと輝く。
「綺麗ですね……。本当に、見事なショーです」
「ああ、綺麗だ。……だが、私の目には、この星屑の光を反射する君の横顔の方が、何百倍も美しく映っているよ」
甘い、とろけるような声で囁かれ、私は少しだけ驚いて彼を見上げた。
ギルバート様は真剣な眼差しで私を見つめ返し、そっと私の手に自分の手を重ねた。
「ギルバート様……それ、社交辞令ですか?」
私が冗談めかして尋ねると、彼は重ねた私の手を自身の口元へと運び、その指先に柔らかなキスを落とした。
「まさか。私が君に、心にもない飾り言葉を言うはずがないだろう? これは、これ以上ないほど心からの、私の本音だ」
彼のその言葉に、私は思わず頬が熱くなるのを感じた。
豪華なショーも、きらびやかな夜会も素敵だけれど。痛くない靴を履いて、美味しいものを食べて、そしてこんな風に、飾らない言葉で想いを伝えてくれる人が隣にいる。
このささやかで確かな現実の温もりが、私にとっては何よりも、最高の魔法のように思えた。




