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約束のデートの朝、王都の空はあいにくの低い曇り天だった。今にも泣き出しそうな雲が垂れ込め、空気はひんやりと湿っている。
一般的な貴族の令嬢であれば、「せっかくのお出かけなのに、ドレスの裾が汚れてしまうわ」と憂鬱になるところだろう。けれど、私はむしろ、少しワクワクとした気持ちで迎えの馬車を待っていた。
「アイリス嬢、お待たせしたね」
ヴァレンタイン邸の玄関先に現れたギルバート様は、いつもの厳格な騎士服ではなく、上質なウールで作られた深緑色のコートに、仕立ての良いトラウザーズという、貴族としてはかなり動きやすい服装をされていた。それでも、持ち前の均整の取れた体躯と、気品あふれる佇まいを携えた彼は、まるで物語から抜け出してきた、旅の若き王様のように見えるのだから、天は二物を与えすぎていると思う。
「いいえ、今ちょうど準備が調ったところです、ギルバート様。……その服装、とても素敵ですね。動きやすそうで、実用的で」
「ありがとう。今日は君と街を歩く予定だからね。自分が着たい服を、着てきたんだ。君のその装いも、実に見事だ」
ギルバート様は私を見て、満足そうに目を細めた。
私が今日選んだのは、過剰なレースやパニエを廃した、すっきりとした仕立てのワンピースドレスだった。裾も地面に擦らないよう少し短めに仕立て直してもらい、何より、コルセットを限界まで緩めてある。もちろんオシャレは忘れないが、やりたくもない見栄の為に、着たくもない窮屈な服を着るなんて、デートを心から楽しめない。
「お腹いっぱい美味しいものを食べても苦しくない」という、普通のことが、私にとっての絶対条件を満たしている。
「ええ。過度な、お洒落も素敵ですけれど、お腹が締め付けられて呼吸が浅くなると、それだけで楽しいお出かけの体力が半分削られてしまいますから。これなら一日中歩いても平気です」
「はは、やはり君は面白い。普通の令嬢なら、少しでもウエストを細く見せようと、侍女に紐を限界まで引かせるものだがな」
「そんなことをしたら、美味しい食事を目の前にして涙を呑むことになりますわ。それは今日のデートの損失です」
私がそう答えると、ギルバート様は嬉しそうに声を上げて笑い、私の手を引いて馬車へとエスコートしてくれた。
馬車が向かったのは、王都の職人街の片隅にある、年季の入った佇まいの工房だった。
看板には、小さくルフェーヴル侯爵家の紋章が刻まれている。ここが、ギルバート様の手紙にあった、王都一流の靴職人が営む工房らしい。
中に入ると、独特の匂いが鼻をくすぐった。
使い込まれた革の匂い、オイルの匂い、そして木を削る香ばしい樹木の香り。お世辞にもきらびやかとは言えない空間だけれど、棚に整然と並べられた道具や、職人たちの真剣な眼差しから、ここが「本物」を仕立てる場所なのだと肌で理解できた。
「ギルバート閣下、お待ちしておりました」
奥から出てきたのは、白髪混じりの髭を蓄えた、頑固そうな初老の男性だった。彼がこの工房の主であり、数々の高位貴族の靴を手がけてきた巨匠・ロランさんだ。
ロランさんは私を一瞥すると、職人特有の鋭い目で、私の足元を値踏みするように見つめた。
「こちらが、閣下の新しい婚約者様ですな。……して、お嬢様。本日はどのような靴をご所望で? やはり、夜会で人目を引くような、細かな刺繍や宝石を散りばめた、華奢なヒールの靴ですかな?」
その問いかけには、どこか試すような響きが含まれていた。貴族の令嬢たちが、見た目の華やかさばかりを求め、歩きやすさや靴としての機能を軽視することに対する、職人としての小さな反発かもしれない。
私はロランさんの前に進み出ると、少しだけ腰を屈めて、自分の靴の好みを素直に伝えた。
「ロランさん。私が一番欲しいのは、夕方になっても足の裏がジンジンと痛くならない、地面をしっかり踏みしめられる靴底の靴です。いくら刺繍が綺麗で宝石がついていても、歩くたびに指先が圧迫されて爪が痛むような靴は、飾っておくには良くても、一緒に旅をする相棒にはなれませんから。見た目はシンプルで構いません。ただ、履いていることを忘れてしまうくらい、足に馴染むものがいいです。お願いできますか?」
私の言葉を聞いた瞬間、ロランさんは大きく目を見開いた。
それから、隣に立つギルバート様の顔を見て、不敵な笑みを浮かべた。
「閣下……なるほど、こいつは驚いた。閣下がわざわざ『面白いご令嬢』をお連れになった理由が、今ので分かりましたよ。見た目の飾りじゃなく、靴の『中身』を希望するご令嬢なんて、長い職人人生でも中々出会えない」
ロランさんは腕をまくると、嬉しそうに採寸用の道具を取り出した。
「よし、アイリス様。あんたの足に完璧に馴染む、世界で一番歩きやすい最高の一足を仕立てますとも」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
採寸が始まると、ロランさんは私の足の形や歩き方の癖をじっくりと観察しながら、丁寧に数値を測っていった。
「右足の方が、ほんの少しだけ横幅が広いな」「歩く時に、少し外側に体重がかかる癖がある」など、自分でも気づかなかった特徴を指摘され、なんだか自分の身体の取扱説明書を読んでもらっているような、不思議な感覚があった。前世で言うところの、国一のビスポーク職人なわけだ。
その様子を、ギルバート様は少し離れた椅子に腰掛け、頬杖を突きながら、ずっと優しげな眼差しで見守っていた。
採寸が終わり、工房を後にする頃には、心配していた雨がポツポツと降り始めていた。
しかし、それは激しい豪雨ではなく、街全体を優しく包み込むような、しっとりとした霧雨だった。
「あいにくの雨になってしまったね。どこか雨宿りができる場所に移動しようか」
ギルバート様が心配そうに私に傘を差し掛けてくれる。
私はその傘の柄を一緒に少しだけ持ちながら、ふう、と深く息を吸い込んだ。
「ギルバート様、急がなくても大丈夫ですよ。私は、この雨上がりの……いえ、雨が降り始めたばかりの、この雨の匂いって、なんだかすごく落ち着いて、好きなんです」
「雨の匂い、か」
「ええ。アスファルト……ではなくて、石畳の隙間から香る、大地の匂いと言いましょうか。乾いていた地面が水分を含んで、世界がしっとりと落ち着きを取り戻すような、あの独特の穏やかな香りです。家の中庭で、雨の日に窓を開けて読書をしている時の感覚を思い出して、なんだか安心するんです」
ギルバート様は私の言葉を聞くと、足を止め、自身も静かに目を閉じて深く息を吸い込んだ。
少しの間、周囲を行き交う人々の足音と、傘を叩くささやかな雨音だけが響く。
やがて目を開けたギルバート様は、驚いたような、そして何とも愛おしそうな表情で私を見つめた。
「……確かに、言われてみれば、雨の日というのは独特だな。普段は雨が降れば『濡れて不快なもの』としか思わず、足早に通り過ぎるのを忙しく待つだけだった。こうして君の言葉を聞き、意識してみると……この少し冷ややかで、瑞々しい大地の香りは、驚くほど心を穏やかにしてくれる。今まで何度も経験してきたはずの雨なのに、こうして君と世界を眺めていると、全く新しい世界を見ているような気分になる」
「それは、ギルバート様が私の拙い世間話に、真剣に耳を傾けてくださるからですよ。前の婚約者様には、『誰が土の匂いの話など求めた!』と、いつも怒られてしまいましたから」
私がクスリと笑うと、ギルバート様は少しだけ不機嫌そうに眉を寄せた。
「その男は、あまりにも見る目がなかったのだな。飾り立てた宝石の輝きしか愛せない者は、夜が明ければその価値を見失う。だが、君が見せてくれる日常の輝きは、太陽が沈もうが雨が降ろうが、いつでもそこにある。……私にとっては、こちらの方がよほど価値がある」
ギルバート様の言葉は、どこまでも真っ直ぐで、熱を帯びていた。
私の「可愛げのない本音」を、彼はただ受け入れるだけでなく、彼自身の感性で咀嚼し、共有しようとしてくれる。その事実が、私の胸の奥をじんわりと満たしていく。
「さて、せっかく歩きやすい格好をしてきたんだ。少しお腹も空いてきただろう? 職人街の近くに、地元の人々に愛されている、美味いパンを出す店があるんだが……行ってみないかい?」
「パンですか? それは是非行ってみたいです」
私たちは一つの傘の下、寄り添うようにして歩き出した。
少し歩くと、職人街の賑やかな市場が見えてきた。そこには、貴族の夜会にあるような、洗練された、美しく盛り付けられたフルコースなどは存在しない。
代わりに、大きな鉄板でじゅうじゅうと音を立てて焼かれる肉の匂いや、甘い蜂蜜と小麦粉が焦げる香ばしい匂いが、立ち込める湯気とともに空気中に満ち溢れていた。
「ここだよ」
ギルバート様が足を止めたのは、年配の女性が営む、パンの店だった。
売られていたのは、生地の中に、卵や野菜が詰められ、ふわふわに焼き上げた、パンだった。まさか異世界でも、こんなフワフワなパンが食べられるなんて。
「二つ、貰えるかい」
ギルバート様が流れるような動作でコインを支払う。近衛騎士団の副団長ともあろうお方が、街頭の露店で買い食いをする姿など、社交界の人間が見たら卒倒するかもしれない。けれど、彼は全く周囲の目を気にすることなく、温かい紙包みを一つ、私に手渡してくれた。
「おっと、焼き立てだ。火傷をしないように気をつけて」
「ありがとうございます! わぁ、本当に熱々ですね」
紙包み越しにも伝わってくる、確かな温もり。
私は端っこの、少し焼き目の強いカリカリした部分を、お行儀悪く小さく口に運んだ。
「……! 美味しい……! ギルバート様、これ、この生地凄く柔らかくて美味しいですよ! 具の詰まった部分が、とても香ばしくて最高です」
私が幸せな気持ちでそう言うと、ギルバート様も自分のパンを一口齧り、ふっと目元を和らげた。
「本当だ。中の具も美味いが、この生地のフワフワした部分は、なんだか少し得をしたような、ささやかな喜びがあるね」
「なんだか昔、味わった、日常の小さなしあわせを感じられて、嬉しくなってしまいます」
雨が降る街角、小さな傘の下で、私たちは温かい焼き菓子を頬張る。
高級なサロンも、高価な調度品も、お互いを品定めするような飾り言葉も、ここには何一つない。
ただ、焼き立てのお菓子が温かくて美味しいということ。雨上がりの匂いが心地よいということ。
そんな、誰もが日常の中で「そうだよね」と感じる当たり前のことを、同じ温度で共有できる。その時間が、私にとってどれほど新しく、そして心地よいものであるかを、私は噛み締めていた。
「アイリス。私はやはり、君と出会えて良かった」
ギルバート様は、口元についた小さなパンの粉を、私が贈られたのと同じあのリネンのハンカチでそっと拭いながら、真っ直ぐに私を見つめた。
「君の隣にいると、私の『ルフェーヴル侯爵家』という重い鎧が、自然と外れていくのが分かる。ただの、一人の男として、世界を楽しめている気がするんだ。……この手を、これからもずっと、離さないでいてくれるかい?」
彼の言葉には、貴族の義務としての婚姻ではなく、一人の人間としての、切実な願いが込められていた。
私は、彼の持つ傘の柄を、今度は自分の手でしっかりと握り返した。
「ええ、喜んで、ギルバート様。……でも、まずは温かいうちに、このパンを全部食べてしまいましょう。冷めてしまうと、このフワフワした食感が損なわれてしまいますから」
「はは、そうだね。まずは目の前の『小さなしあわせ』を堪能するとしよう」
雨の街に、二人の飾らない笑い声が静かに溶けていく。
周りがどれだけ騒ごうとも、私たちは私たちのペースで、この中身の詰まった、等身大の日常を歩んでいくのだと、私は確信していた。




