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【完結】婚約破棄ですか? 別に構いませんけど? 【↗】  作者: 逆立ちハムスター


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ギルバート・ルフェーヴル閣下との「顔合わせ」を終えた後。

我がヴァレンタイン伯爵邸は、先日とは打って変わって、奇妙な静けさに包まれていた。


「アイリス……あの氷の副団長と、いったい何を話したんだ?」

朝食の席で、父が恐る恐る私に尋ねてきた。目の下には、くっきりとクマができている。あの顔合わせの後、ギルバートが笑顔で(しかも、誰も見たことがないほど清々しい表情で)帰っていったことが、父にとっては逆に得体の知れない恐怖だったらしい。


「普段通り、普通のお話をしましたよ。社交辞令は疲れるから、顔の筋肉を休めましょう、とか、冷めた紅茶も悪くないですよね、とか。ありのままを」

私がカリカリに焼かれたベーコンを囓りながら答えると、父は「ひっ」と小さな悲鳴を上げて頭を抱えた。


「そ、そんな身の毛もよだつような無礼を……! なぜだ、なぜ我が家はまだ抗議を受けないんだ……!」


「お父様、食事が冷めてしまいますよ」

私が指摘しても、父はぶつぶつと「奇跡だ、ルフェーヴル家の気まぐれだ。何かの策略だ」と念仏のように唱え続けていた。


「お父様、もしもの時は、私が地方で小さなお店でも開いて、お二人を養いますから安心してください。前世の、いえ、私の知っている知識を使えば、誰もがちょっと食べたくなるような、素朴な家庭料理の店くらいは出せます」


「お前が言っていることは、一ミリも慰めになっていない」


「お父様。人間、何者かになれと迫るこの世界の中で、自分らしく、善く生きることの方が、ずっと大切だと思いませんか? 私は自分自身に誇りを持って生きています。そんな私を、お父様にも誇りに思ってもらいたいんです」


「あぁ……どこで間違えたんだ……」


父の悲痛な叫びが応接室に響き渡り、その日の顔合わせは、我が家の完全な「お通夜モード」の中で幕を閉じたのだった。


――しかし、事態はまたしても、周囲の予想を真逆に裏切ることになる。


翌日の午前中。ヴァレンタイン邸の門前に、ルフェーヴル侯爵家の紋章が入った豪奢な馬車が到着した。

届けられたのは、一通の正式な書状と、私宛の小さな木箱だった。


書状を開いた父は、そこに書かれた内容を目にした瞬間、昨夜の事が嘘だったかのように、嬉しさのあまり本当に白目を剥いて倒れそうになり、執事のセバスチャンに間一髪で支えられた。

そこには、昨日の顔合わせを経て、ギルバート・ルフェーヴル閣下が私との縁談を「正式に締結したい」と強く希望している旨が、侯爵家の公式な捺印とともに記されていたのだ。


「し、信じられん……。あの、お前の無礼極まりない話の後で、なぜ婚姻を望むのだ……。やはり、到底理解できん……」


父は狐につままれたような顔で、何度も書状を読み返している。

一方の私は、父の隣で、届けられた私宛ての木箱を見つめていた。


高級な紫色のベルベットのリボンがかけられた、手のひらサイズの小さな箱。

貴族が贈るプレゼントといえば、これでもかというほど豪華な装飾が施された箱の中に、さらに薄紙が何重にも巻かれ、その中心にようやく小さな宝石が一つ鎮座している、というような過剰な包装ラッピングが一般的だ。

前世の記憶を持つ私としては、あの過剰包装を見るたびに、「開ける時はちょっとワクワクするけれど、後で分別して捨てる時に、少しの罪悪感とゴミが嵩張るのが好きじゃない……」と、感じてしまっていた。


けれど、ギルバート様から届いたその木箱は、驚くほどシンプルだった。

リボンを解いて蓋を開けると、中には過剰な薄紙など一枚も入っていなかった。ただ、綺麗に畳まれた二枚のハンカチと、一通の手紙、そして見慣れない小さな金属製の鍵が入っているだけだった。


私はまず、手紙を開いた。

そこに書かれていたのは、やはり貴族らしい飾り立てた文字ではなく、実用的で、一文字一文字が力強く、非常に読みやすい男らしい筆跡だった。


『親愛なるアイリスへ。

昨日は、実に有意義で、私の「退屈な日々」を忘れるにふさわしい素晴らしい時間をありがとう。君との会話は、とても上質な時間だった。

さて、君との正式な婚約が決まったことを記念し、ささやかな贈り物を送る。噂によれば、君は以前「高級な金糸の刺繍入りハンカチは、実用性に欠け、鼻をかむ時に肌がチクチクして痛そう」と、身も蓋もない事を口にしたそうだね。

そこで、私からは実用性を最優先したものを贈らせてもらう。

同封したハンカチは、我が領地で採れる最高級の亜麻リネンを、職人が一切の刺繍を排して織り上げたものだ。吸水性に優れ、肌触りは驚くほど柔らかい。これなら、君の美しい人生の邪魔にならないと確信している』


手紙を読みながら、私は思わず「ふふっ」と小さな笑みを漏らしてしまった。

箱の中からハンカチを取り出してみる。確かに、触れた瞬間に指先が喜ぶような、じんわりと柔らかい最高の質感だった。飾り気は一切ないけれど、道具としてこれ以上ないほど完璧に「機能」している。

気を遣わずに、嘘を言う必要もなく、愛用できそうなほどだ。


ギルバート様は、噂で流れていた私の「可愛げのない発言」を、怒るどころか完全に面白がり、むしろそれに寄り添ったものを選んでくれたのだ。


手紙には、続きがあった。


『鍵は、我がルフェーヴル家が懇意にしている、王都の一流靴職人の工房の特別室の鍵だ。

君は「雨の日の外出は靴が濡れて足元が気持ち悪くなるから嫌だ」とも言っていたそうだね。確かに、令嬢たちが履く薄い革の靴や、無駄にヒールの高い靴は、歩きにくい上に水が染み込みやすい。

その工房の職人に、君の足の形に完璧に合わせた「どれだけ歩いても疲れない、かつ防水加工を施した特製の歩行用靴」を作らせるよう手配してある。来週、お忍びで私と一緒にその工房へ足を運び、採寸をさせてほしい。

その後は、お互い新調した靴を履いて、王都でも気楽に散策しないかい? 君が教えてくれた生き方というものを、私も一度、君の隣で静かに味わってみたい。

それでは、来週のデートを楽しみにしている。 ――ギルバート・ルフェーヴル』


手紙を読み終え、私はそっとそれを胸元に引き寄せた。

胸が高鳴る、というのとは少し違う。ただ、お腹のあたりが、じんわりと温かくなっていくような感覚だった。

冬の寒い日に、温かいココアを一口飲んだ時の、あのホッとする感じにとてもよく似ている。


「アイリス……? その、閣下からは一体、何が贈られてきたのだ? もしかして、我が家に策略を仕掛ける恐ろしい物ではないだろうな……」


恐る恐る覗き込んできた父に、私はハンカチを見せた。


「いえ、とっても肌触りの良い、実用的なハンカチです。それから、来週、一緒に歩きやすい靴を作りに行きましょう、というお誘いでした」


「ハンカチと……靴……? あの侯爵家からの最初の贈り物が、宝石でもドレスでもなく、そんな小さい布の塊なのか……? 遠回しに貶しているのやもしれんな」


父は完全に理解のキャパシティを超えたようで、幽体離脱でもしそうな顔でぶつぶつと呟きながら、書斎へと戻っていった。


数日後、この知らせを聞きつけた友人たちが、再び我が家に怒涛の勢いで押し寄せてきたのは、言うまでもない。


「アイリス――!! 正式に婚約が決まったって、本当なの!?」

クロエが、お茶会のために用意されたクッキーをお皿から落としそうになりながら叫んだ。


「しかも、あのギルバート閣下が、アイリスのために特製の『ハンカチ』をプレゼントしてくださるなんて……! そんな奇妙な話、聞いたことないわよ!」

セリアも、興奮のあまり扇をバタバタと扇いでいる。


「みんな、落ち着いて。クッキーが粉々になってしまうわ。……でも、本当に不思議な方よね。靴の件も、普通の貴族の男性なら、女性には小さくて華奢な、歩きにくい靴を履かせて、自分の腕を頼らせたがるものなのに。あの方は、私に『自分の足でしっかり歩け』と言って、そのための最高の道具を用意してくださるんだもの」


私は、新しく新調したリネンのハンカチで、指先についたお菓子の屑をそっと拭いながら言った。


「でもね、私、それがとっても嬉しかったの。だって、どれだけ綺麗なドレスを着ていても、足元が痛かったり、靴の中に水が染み込んできたりしたら、どんな美しい景色を見ても心の底から『綺麗だな』って楽しめないでしょう? ギルバート様は、そういう私の、身も蓋もない現実を、ちゃんと『そうだね』って受け止めてくださるのよ」


クロエとセリアは、私の言葉を聞いて、しばらく呆然としたようにお互いの顔を見合わせていた。

やがて、クロエがくすくすと笑い出した。


「ふふ……本当に、アイリスったら。あなたにかかると、あの『社交界の氷壁』の閣下まで、なんだかすごく、護衛の騎士程度みたいに思えてくるわね」


「そうね。でも、あんなに容姿端麗で完璧な方が、アイリスのそういう『面白い性格』に合わせてくれるなんて……。なんだか、本当に素敵なお二人だわ」


友人たちは、私の「些細な幸せ」を、今度はからかうこともなく、温かい笑顔で祝福してくれた。

ジュリアンの時のように、高貴な令嬢を演じる必要もなければ、親族たちのように、家の利益のために自分を押し殺す必要もない。私はただ、私のままで、私の感覚のままで、次の日常へと歩き出せばいいのだ。


来週のデートの日。王都は、あいにくの曇り空だった。

でも、私の心は少しも沈んでいなかった。だって、もし雨が降ってきたら、ギルバート様ならきっと「靴が濡れる前に、あそこの美味しそうなカフェに避難しよう」と、私と同じように提案をしてくれるに違いないと思えるから。


新しく始まる、飾らない日々の続きを楽しみにしながら、今日もぐっすりと眠るのであった。

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