飾らない言葉の価値
ジュリアンとの婚約が破棄されてから、わずか一週間。我がヴァレンタイン伯爵邸は、まるで建国記念祭の当日のような騒がしさに包まれていた。
それもそのはず、社交界の頂点に君臨するルフェーヴル侯爵家から申し込まれた縁談。その当事者であるギルバート・ルフェーヴル閣下が、本日、我が家へ「顔合わせ」のために直々にお越しになるからだ。
「アイリス! 頼むから今日だけは、本当に今日だけは余計なことを口にしないでくれ!」
応接室へ向かう廊下で、父は私の手を握り締め、まるで戦場に赴く兵士のような悲壮な顔で懇願してきた。
「あの方は『社交界の氷壁』と恐れられる御方だ。もしお前の妙な……その、平民のような発言であの方の気分を害されたら、我が家は婚約破棄どころか、社交界から文字通り抹消されかねん!」
「お父様、手を握る力が強すぎて痛いです。それに、そんなに緊張して息を詰めていると、いざお会いした時に声が裏返ってしまいますよ。深呼吸をして、まずは温かいお茶でも一杯飲んだと思って、肩の力を抜いてください」
「お前はどうしてそんなに落ち着いていられるんだ!?」
父は絶望したように頭を抱えたが、私は本当にいつも通りだった。
今日のために新調させられた淡いブルーのドレスは、生地が上質なのは分かるけれど、レースが多すぎて少しチクチクしている。前世の記憶にある「おろしたてのウールのセーターが首元に当たって痒い時の感じ」にそっくりで、早く用事を済ませて、いつもの着慣れた部屋着に着替えたいな、とつくづく考えていた。
やがて、重厚な扉が開かれ、私たちは応接室へと足を踏み入れた。
そこに佇んでいたのは、噂に違わぬ、息を呑むほどに美しい男性だった。
流れるようなプラチナブロンドの髪に、凍てつく冬の湖を思わせる冷徹なアイスブルーの瞳。仕立ての良い上着に包まれた体躯は、近衛騎士団の副団長らしく、一切の無駄なく引き締まっている。彼はソファーから音もなく立ち上がると、完璧な所作で一礼した。
その姿は、まるで一流の職人が大理石から切り出した彫刻のようで、室内の空気が一瞬で数度下がったかのような錯覚さえ覚える。
「お初にお目にかかります、ヴァレンタイン伯爵。そして、アイリス嬢。ルフェーヴル侯爵家が嫡男、ギルバート・ルフェーヴルです」
低く、心地よく響く声。しかし、その響きには一切の感情が乗っていなかった。
父と母はガチガチに緊張しながら挨拶を返し、簡単な紹介を終えると、まるで逃げ出すようにして「若いお二人で、どうぞごゆっくり……」と言わんばかりに、私たちを二人きりにして退室していった。扉が閉まる音が、妙に重たく室内に響く。
広い応接室に、私とギルバート閣下の二人だけが残された。
対面に座る彼は、指先でティーカップを持ち上げ、優雅に口をつける。そして、私の顔をじっと見つめながら、流れるように言葉を紡ぎ出した。
「アイリス嬢。君の素晴らしい噂は、かねがね私の耳にも届いている。ヴァレンタイン家の至宝であり、その気品に満ちた佇まいと、慎み深く聡明な人柄は、我が社交界においても他に並ぶ者がいないほどだと。こうして本日、君という美しい大輪の薔薇を目の前にすることができ、私の心は言葉に尽くせぬほどの歓喜で満たされている。この度の縁談が、我がルフェーヴル家にとっても、私個人にとっても、至高の栄誉であることは疑いようもない」
耳が痛くなるほどの、磨き上げられた完璧な社交辞令だった。
一言一句に無駄がなく、美辞麗句で飾られた、貴族の「建前」そのもの。
私は、その言葉を静かに聞きながら、心の中で小さく溜息をついた。
あぁ、またこれだ、と思ってしまったのだ。
私には、前世で一般的な平民(会社員というものだった気がする)として生きていた記憶がある。その時も、ビジネスにある「いつも大変お世話になっております」や、時候の挨拶、あるいは行事のスピーチのような、形式だけの言葉を飽きるほど見て、聞いて、使ってきた。
そして今世でも、幼少期から社交界の夜会に足を運ぶたび、誰も本気でそう思っていないような「太陽の如き輝きをお持ちの~」といった、長々とした中身のないお世辞を嫌というほど聞かされてきた。
それはまるで、冬の寒い日の朝に、お互いが「今日、寒いですね」「そうですね、冷えますね」と言い合っている時のような感覚。
言わなければ座が持たないから言っているだけで、そこには何の感情も、新しい情報もない。お互いの顔の筋肉の運動としては素晴らしいけれど、ずっと付き合わされると、ただただ心身と肩が凝るだけの時間。
私は、首を少し傾げ、いつものように、自分の感覚を口にした。説教をするつもりも、彼を説き伏せるつもりもない。ただ、私は、『自分』として生きて行きたいのだ。
「ギルバート閣下。その素晴らしい御挨拶、とても流暢で、まるで聖典をめくる音を聴いているかのようでした。ですが……そういった心にもないお褒めの言葉は、なんだか少し、お互いの肩の凝り具合を確かめ合っているみたいで、ちょっと疲れてしまいませんか?」
ギルバート閣下のティーカップを置く手が、ピタリと止まった。
アイスブルーの瞳が、わずかに見開かれる。
私は構わずに言葉を続けた。
「目の前にいる私が、社交界の至宝でもなければ、大輪の薔薇でもないことは、閣下もよくご存じのはずです。何しろ私は、一週間前に『可愛げがない』という理由で婚約破棄されたばかりの、曰く付きの令嬢ですから。そんな私に対して『至高の栄誉』などと言わなければならないなんて、貴族の建前とはいえ、お仕事とはいえ、大変なお気遣いだと同情してしまいます。形式的な挨拶は、建前上必要なものですから分かりますけれど、私はいま、申し上げた通り、私は毅然と自らの意思で生きていくという、確固たる信念と、貴族ではなく、一人の人間としての誇りがあります。縁談の件を含め、ご期待には沿えないと思います。演技であなたに寄り添う人形など、あなたは端から求めていないはずですから。私ではなくとも、もっと、あなたに相応しいお相手が沢山いると思います」
言い終えてから、私は「早く縁談を取り消して」と内心で思った。
お父様にあれほど「余計なことを言うな」と釘を刺されていたけれど、私は自分を曲げてまで、もう一度生きて行きたいとは思わなかった。
ジュリアンでさえ激怒したのだ。社交界の頂点に立つ、あの気難しいと有名な『氷の副団長』が、こんな身も蓋もない発言をされて、許すはずがない。
(よし、これで間違いなく、この縁談は白紙に戻るわね。膝を突いて生きるより、立ったまま死ぬ方がいい。さあ、早く取り消しを)
私は心の中で、すっきりと結論を出しきった。
お父様とお母様にはもの凄く怒られるだろうけれど、それはその時に考えよう。それが私という人間の生き方だ。とりあえず、この重苦しいお見合いが終わったら、厨房にお願いして、あの端っこがカリカリした美味しいパイを焼いてもらおう。温かいココアでも淹れて、部屋のソファで読書をするんだ。そんなささやかな「計画」を頭の中で組み立て始めていた。
しかし――私の予想に反して、応接室を支配したのは、怒号ではなかった。
「……くっ、ふふ……」
低い、掠れたような声が聞こえた。
見れば、ギルバート閣下が片手で顔を覆い、肩を微かに震わせている。
冷酷な仮面が、ピキリと音を立てて割れたかのように、彼の唇の端が綺麗な弧を描いて持ち上がっていた。
「……驚いたな。まさか、初対面の席で、我がルフェーヴル家の挨拶を『聖典をめくる音』や『顔の筋肉の運動』と表現する者に出会うとは」
彼が顔から手を退けた時、そのアイスブルーの瞳には、先ほどまでの冷徹な光ではなく、まるで悪戯に成功した少年のような、生き生きとした輝きが宿っていた。
「失礼、アイリス嬢。君の言う通りだ。今の挨拶には、私の本心など一欠片も入っていなかった。ただの義務であり、君が言うところの『建前』だ。いや、実に見事だ。正直で的確で、曇り一つない信念を持っていて、胸がすっとしたよ」
「……閣下?」
「ギルバートでいい。社交辞令は、もう終わりにしよう」
彼はソファーの背もたれにゆったりと身体を預け、本当にリラックスしたような笑みを浮かべた。その表情は、社交界の誰も見たことがないほど、柔らかく、そして魅力的なものだった。
「私の周りにはね、アイリス。高名な学者や、国政を担う老練な閣僚たちがいくらでもいる。彼らは私に対し、国の行く末や、経済の動向、魔力の運用といった『重要な事柄』に関しては、実に見事な助言や進言をしてくれる。だが……誰も、日常の些細な本音までは言ってくれないのだ」
ギルバートは、どこか響きを帯びた声で語りかけてくる。
「誰もが私を『ルフェーヴル侯爵家の跡取り』としてしか見ず、機嫌を損ねまいと、中身の空っぽな美辞麗句ばかりを並べ立てる。雨が降れば『閣下の行く手を阻む忌々しき天の悪戯です』と大袈裟に嘆き、差し出された高級な料理には『流石は至高の一品』と、中身のない賛辞を送る。……反吐が出るほど退屈だった。そんな中、君の噂を聞いた」
彼は身を乗り出し、私を真っ直ぐに見つめた。
「前婚約者に『雨の日の外出は靴が濡れて気持ち悪いから、早く店に入ろう』と言い放ち、『高級な金糸の刺繍ハンカチは、鼻をかむ時に肌がチクチクして痛そう』と評した令嬢がいると。奴の醜い触れ込みだが、噂話も役に立った。私はそれらを耳にした時、生まれて初めて、社交界というものに感謝したよ。何という素晴らしい女性がいるのだろう、とね」
「わ、私はただ、誰もが心の中で一度は思ったことがあるような、普通の気持ちを口にしただけなのですが……」
「その『普通のこと』を、貴族の檻の中で、素直に口にできる人間がどれだけ珍しいか、君は分かっていない」
ギルバートは楽しそうに笑った。
「君のように、普段からのものの見方や捉え方が独特で、そして何より『面白い』女性は、この広い社交界を探しても他にどこにもいない。だから私は、君に惹かれたんだ。君となら、中身の詰まった、血の通った会話ができると思ってね。……これは、社交辞令抜きの、私のストレートな本心だよ」
予想外の、あまりにもストレートな告白だった。
気難しいどころか、彼は誰よりも、社会の建前という名の「お面」に窮屈さを感じ、飾らない「素顔の言葉」に飢えていたのだろう。
私は、手元に置かれたままのティーカップを見つめた。
紅茶はすっかり冷めてしまっている。けれど、その表面には、窓から差し込む柔らかな光が綺麗に反射していた。
「……ギルバート様。冷めてしまった紅茶って、淹れ立てのような華やかな香りはなくなってしまいますけれど、その分、茶葉本来の落ち着いた味がしっかり分かって、私は嫌いではないんです」
私はカップを持ち上げ、彼に向かって小さく掲げた。
「お互いに、綺麗な飾り言葉を剥ぎ取った、この『冷めた紅茶』のような時間。……私も、案外悪くないな、と思います。ほんの少しだけですが」
私の言葉に、ギルバートは一瞬だけ驚いたように目を見張った後、今日一番の、心からの晴れやかな笑顔を見せた。
「あぁ。最高の褒め言葉だ、アイリス。これから始まる私たちの日常が、今から楽しみで仕方がないよ」
周りの人たちがどれだけ騒ぎ立てようとも、私の世界は私のままだ。けれど、どうやら私の前に現れた新しい婚約者は、その嵐の真ん中で、私と一緒に「冷めた紅茶」を楽しんでくれる、少し変わった、でもどこか素敵な人のようでもあった。




