完璧な執務室と、柔らかなくつろぎの形
王宮の庭園で開かれた星降る夜の園遊会から、数日が過ぎた。
あの夜、私の前で大立ち回りを演じようとして見事に自滅したジュリアン様は、翌日には王都の社交界から完全に姿を消したらしい。風の噂によれば、ルフェーヴル侯爵家の逆鱗に触れたケトラー子爵家が、慌てて彼を遠方の領地へ謹慎という名目で送ったのだという。
周りの令嬢たちは「自業自得だわ」「あんな無礼な男、当然の報いよ」と騒いでいたけれど、私にとってはもう、遠い昔に読み終わった本を本棚の奥にしまったような、完全に終わった出来事だった。
それよりも今、私が直面しているのは、もっと現実的で、少しだけ緊張感のあるイベントである。
「アイリス嬢、長旅ご苦労だった。我がルフェーヴル侯爵家の本邸へようこそ」
目の前にそびえ立つのは、歴史を感じさせる重厚な石造りの大邸宅だった。王都の中心部から少し離れた、緑豊かな広大な敷地の中に建つその館は、まるで一つの小さなお城のようだ。
今日、私はギルバート様に招かれ、今後のために侯爵邸を見学させてもらうことになっていた。
「素晴らしいお屋敷ですね、ギルバート様。門から玄関までのこの長いアプローチも、手入れが行き届いていてとても綺麗です。……ただ、これだけ広いと、お掃除や庭木の手入れをする使用人の方々は、毎日ものすごい運動量になりますね。夏場などは特に、こまめな水分補給が欠かせないでしょうね」
私が玄関へ続く白亜の階段を上りながら素直な感想をこぼすと、隣を歩いていたギルバート様は、ふっと肩を揺らして笑った。
「やはり君の着眼点は面白いな。初めてこの館を訪れた令嬢は皆、『壮麗な建築』『神殿のようだ』と建物の装飾ばかりを褒めるが……君は建物の美しさよりも、そこで働く者たちを心配してくれるのだな」
「これだけの広さを維持するのは、魔法を使っても大変だろうな、と思っただけです。綺麗な空間は、誰かの地道な汗と努力の上に成り立っているものですから」
私たちが玄関の大きな扉をくぐると、そこには侯爵家に仕える大勢の使用人たちが、一糸乱れぬ動きで整列して出迎えてくれた。
最前列に立つ、白髪を綺麗に撫でつけた初老の執事が、深く一礼する。
「お帰りなさいませ、旦那様。そして、アイリス様。ルフェーヴル侯爵家へようこそおいでくださいました。家令のノーマンと申します。アイリス様の数々の素晴らしいお噂は、我々使用人の間でも聞き及んでおります」
ノーマンさんの言葉はとても丁寧だったけれど、その後ろに並ぶメイドや従者たちの顔には、明らかな緊張と、どこか恐れおののくような色が浮かんでいた。
無理もない。彼らにとってギルバート様は、一切の妥協を許さない『氷の副団長』だ。その主人がわざわざ選んだ婚約者となれば、「どれほど気位が高く、厳しい要求をしてくる完璧な淑女だろうか」と身構えるのが普通だろう。
私は、緊張で強張っている若いメイドとふと目が合ったので、にっこりと微笑みかけた。
「ご丁寧な挨拶をありがとうございます。あの、入ってすぐに気になったのですが……この玄関ホールの床の石材、ものすごくピカピカに磨き上げられていますね。窓からの光が反射して、とても綺麗です」
「は、はいっ! 恐れ入ります、アイリス様! 毎朝、専用のワックスで丹念に磨き上げておりますゆえ……!」
メイドが弾かれたように声を上ずらせて答える。
「そうですよね。これだけ綺麗に仕上げるのは、腰を屈めての長時間の作業で、本当に大変だと思います。……ただ、少し気になったのですけれど、これだけ表面が滑らかだと、雨の日や、靴底が濡れている時はツルッと滑ってしまいませんか? もし、熱いお茶の入ったポットを運んでいる時に転んでしまったら、火傷をしてしまって危ないですよね」
私の言葉に、玄関ホールが一瞬、しんと静まり返った。
メイドは目を丸くし、家令のノーマンさんもわずかに目を見開いている。
「あの……お気遣い、ありがとうございます。実は以前、雨の日に足を滑らせた者がおりまして……。ですが、主人の御前を美しく保つことが我々の使命ですので、多少の危険は……」
メイドがしどろもどろに答えるのを、私は不思議に思って首を傾げた。
「でも、怪我をしてお仕事ができなくなってしまったら、元も子もありませんよね。綺麗であることは大切ですけれど、それで安全が脅かされるなら、雨の日だけでも玄関口に吸水性の高いマットを敷くとか、少し摩擦のあるワックスに変えるとか、働く人が安全に動ける工夫をした方が良いのではないかと思います。怪我のない健康な身体があってこその、美しいお屋敷ですから」
私は誰を責めるわけでもなく、ただ純粋な「安全」の観点から、思ったことをそのまま口にした。
すると、横で聞いていたギルバート様が、ポンと手を打った。
「なるほど。全くその通りだ、アイリス。美しい床のために使用人が怪我の危険に怯えるなど、本末転倒も甚だしい。ノーマン、今のアイリスの言葉の通り、すぐに雨天用のマットを手配し、ワックスの成分も見直すように。皆が安全に、無駄な緊張を強いられずに働ける環境を最優先にしろ」
「か、閣下……! そして、アイリス様……!」
ノーマンさんは、震える声で深く頭を下げた。
その後ろにいる使用人たちの顔から、先ほどまでの「恐ろしい女主人が来たらどうしよう」という緊張感がスッと抜け落ち、代わりに、信じられないものを見るような、そして安堵と感謝の入り混じったような、温かい眼差しへと変わっていくのが分かった。
「アイリス様のお言葉、胸に刻み込みます。我々使用人の足元の安全まで気にかけてくださる方など……今までお一人もいらっしゃいませんでした。すぐに手配いたします!」
「ええ、よろしくお願いします。怪我には本当に気をつけてくださいね。関節や腰を一度痛めると、後々まで響きますから」
私がごく普通のトーンでそう言うと、使用人たちの間に、小さな、けれどとても温かい笑い声がさざ波のように広がった。
どうやら、彼らとの関係は最初から良好なものになりそうで、私はホッと胸を撫で下ろした。
その後、ノーマンさんの案内で、美しい客間や、陽の光がたっぷり入る温室、蔵書が壁一面に並ぶ図書室などを見学して回った。
どこも本当に見事で、お金と魔法の力がふんだんに使われているのが分かる空間だったけれど、私が一番興味を惹かれたのは、やはり厨房や、裏手の洗濯場といった「生活の拠点」だった。
風通しの良い干し場や、効率よく動けるように配置された調理台を見て、「これはすごく使いやすそうですね」と感心していると、最初は遠慮がちだった料理長やメイドたちも、嬉々として日々の工夫を説明してくれるようになった。
「さて、最後は私の執務室だ」
邸宅をぐるりと一周した後、ギルバート様は私を二階の奥にある、一際重厚な扉の前に案内した。
「普段、王宮での勤務がない日や、休日はここで領地の書類仕事をしている。あまり面白い場所ではないかもしれないが」
彼が扉を開けると、そこは壁一面が本棚で覆われ、中央には見事な彫刻が施された巨大なマホガニーの執務机が鎮座する、いかにも『高位貴族の当主の部屋』という威厳に満ちた空間だった。
窓には分厚いベルベットのカーテンが引かれ、部屋の明かりは、天井や壁に配置された高価な魔石のランプによって賄われている。
「どうぞ、座ってくれ。すぐにお茶を淹れさせよう」
ギルバート様は私を革張りのソファーに促すと、自身は執務机の前の重厚な椅子に腰掛けた。机の上には、未処理の書類がうず高く積まれている。
「休日も、ここでお仕事をされているのですね。お疲れ様です」
「ああ。領地の経営や、騎士団の書類決済など、やるべきことは山積みでね。どうしても根を詰めてしまうことが多い」
そう言って、ギルバート様は無意識のうちに、トントンと自分の首の後ろを軽く叩き、目頭を指で揉みほぐすような仕草をした。
私は出されたお茶を一口飲みながら、部屋の中をぐるりと見渡した。
そして、彼が疲れている原因が、仕事の量だけでなく、この部屋の『環境』そのものにあることに気がついた。
「……ギルバート様。少し、失礼してもよろしいでしょうか」
私は立ち上がると、彼の執務机の方へと近づいた。
彼は不思議そうに私を見上げた。
「どうしたんだい?」
「ギルバート様、今、首の後ろや肩のあたりが、ひどく張っていませんか? それに、目の奥が重たくて、乾燥しているような感覚はありませんか?」
私の問いかけに、ギルバート様は少し驚いたように目を見開いた。
「……なぜ分かるんだ? 確かに、最近はどうも肩の凝りが酷くてね。書類の文字も、夕方になると霞んで見えることがある。だが、これは日々の鍛錬と執務の疲れが蓄積しているだけで、騎士としては当然の……」
「いいえ、それは騎士の鍛錬のせいではなくて、この部屋のせいだと思います」
私は彼を遮って、フラットに告げた。
「まず、この魔石のランプですが……」
私は壁に取り付けられた、青白い光を放つ魔石を指差した。
「とても高価で、強い光を放つ素晴らしい魔法具だとは思います。ですが、書類の細かな文字を読む時に、このような青白くて強い光を至近距離で浴び続けると、目が不自然に緊張して、ひどく疲労してしまうんです。明るすぎる光は、集中力を高めるように感じますが、実際には目の筋肉に大きな負担をかけています」
「光の色が、疲労に関係している……?」
「はい。人間の目は、太陽の光に近い温かみのある色の方が、リラックスして物を見ることができる構造になっています。それに……」
私は次に、ギルバート様が座っている、背もたれに細かな彫刻が施された硬い木製の椅子に視線を向けた。
「そのお椅子、とても立派で美しい美術品のようなお品ですが……座面が硬く、背もたれも直角に近すぎます。そのような硬い椅子に長時間座り続けていれば、お尻や太ももの裏の血管が圧迫されて、血の巡りが悪くなります。血流が滞れば、当然、首や肩に疲労物質が溜まって、凝り固まってしまうんです」
「……この椅子は、ルフェーヴル家の歴代当主が使ってきた、由緒ある品なのだが。威厳を保つためには、多少の窮屈さは耐えるべきものだと教えられてきた」
ギルバート様は少し戸惑ったように椅子を見下ろした。
貴族というものは、本当に『見た目の威厳』のために、どれだけの身体的苦痛を我慢しているのだろう。私は小さく息を吐いた。
「威厳を保つために身体を痛めつけて、その結果、書類を読む効率が落ちたり、頭痛で判断力が鈍ったりしては、意味がないのではありませんか? 仕事をする場所は、自分の身体を一番労われる、快適な空間であるべきです。無理な我慢は、ただのエネルギーの無駄遣いです」
私はそう言うと、窓際に歩み寄り、分厚いベルベットのカーテンをシャーッと左右に大きく開け放った。
曇り空ではあったけれど、自然な外の光が部屋の中に満ちる。青白い魔石の光が中和され、部屋全体がふんわりと柔らかい明るさに包まれた。
さらに、窓を少しだけ開けて、新しい空気を入れる。
「部屋の空気がよどんでいると、呼吸が浅くなって、脳に酸素がいかなくなります。時々はこうして、新鮮な風を入れてあげてください」
そして、私は自分が座っていたソファーから、ふかふかの厚手のクッションを一つ持ち上げ、ギルバート様の元へと戻った。
「失礼します」
私は彼に少し腰を浮かせてもらい、その立派な木製の椅子の座面に、クッションを敷き詰めた。
「これで、もう一度座ってみてください」
ギルバート様は言われるがままに、クッションの上にゆっくりと腰を下ろした。
その瞬間、彼の身体からスッと力が抜け、強張っていた肩のラインが自然と下がるのが分かった。
「……これは」
「どうですか? 太ももの裏の圧迫感がなくなって、少し楽になったでしょう。それに、窓からの自然な光のおかげで、紙の上の文字も、先ほどより柔らかく見えるはずです」
ギルバート様は、積まれた書類と、窓から入る微風、そして自分が座っている柔らかい感覚を、信じられないような顔で交互に見つめた。
「ああ……全く違う。いつもは、この椅子に座ると『よし、戦場に向かうぞ』と身体中に力が入っていた。だが今は……不思議なほど、身体が軽い。目の奥のチカチカするような痛みも、和らいでいる気がする」
「仕事は戦いかもしれませんけれど、執務室まで戦場にする必要はありません。一番長い時間を過ごす場所なのですから、もっと自分を甘やかして、快適に過ごす工夫をしてくださいね」
私がにっこりと微笑むと、ギルバート様はしばらく私をじっと見つめ……やがて、片手で顔を覆って、低く、心底おかしそうに笑い声を上げた。
「くっ……ふははっ! アイリス、君は本当に……君という人は!」
彼は笑いながら立ち上がると、そのまま真っ直ぐに私の元へと歩み寄り、私の両肩をそっと両手で包み込んだ。
至近距離で見上げる彼のアイスブルーの瞳は、青白い魔石の光の下で見た時のような冷たさは微塵もなく、まるで春の湖のように穏やかで、温かな光を湛えていた。
「私の周りにいる誰もが、この部屋に入ると『さすがは侯爵家の執務室、素晴らしい威厳だ』と、この不便で硬い椅子や、目を刺すような明かりを褒め称えた。誰一人として、私がそこでどれほど身体を痛めているかなど、気にも留めなかったというのに」
ギルバート様の手が、私の肩からスッと背中へと回り、私を彼の大柄な身体へと優しく引き寄せた。
「君だけだ。威厳や伝統といった虚飾の皮を軽々と剥ぎ取って、ただの『ギルバート』という一人の人間の身体の痛みに、こんなにも真っ直ぐに向き合ってくれるのは。……君のその飾らない言葉と、現実的な優しさが、私にはどうしようもなく心地良い」
抱きしめられた彼の胸板からは、トクトクと力強い心音が聞こえてくる。
高級な香水の匂いではなく、石鹸と、少しのインクの匂いが混ざった、生活感のある落ち着く香りだった。
「優しさだなんて、そんな大層なものではありません。ただ、ギルバート様が肩を回して辛そうにしているのを見て、クッションを敷けば楽になるのに、と思っただけですから。物理的な問題は、物理的に解決するのが一番手っ取り早いです」
私が彼の胸に顔を埋めたまま、いつも通りのフラットなトーンで答えると、ギルバート様は私の頭の上に顎を乗せ、嬉しそうに息を吐いた。
「ああ、その通りだ。君のその身も蓋もない現実主義が、私の凍りついた心を、こんなにも柔らかく溶かしてくれる」
私たちはしばらくの間、開け放たれた窓から吹き込む爽やかな風を感じながら、静かに抱きしめ合っていた。
お互いの体温がじんわりと伝わり合い、部屋の空気は、先ほどまでの重苦しい威厳に満ちたものから、まるで陽だまりのような温かなものへと変わっていた。
「アイリス」
頭上から、甘く低い声が降ってくる。
「はい」
「君がこの館の女主人となってくれる日が、今から待ち遠しくてたまらないよ。君が来てくれれば、この冷たい石造りの館も、きっと世界で一番居心地の良い場所に変わるだろう」
「そうですね。まずは、あのお風呂場の大理石の床です。冬場は絶対に足が冷たくて風邪を引いてしまうので、温かい木のスノコを敷くところから始めましょうか」
「ははっ、全く色気のない提案だ。だが……最高に素晴らしいアイデアだ。君の言う通りにしよう」
ギルバート様は私をそっと離すと、愛おしくてたまらないというように私の髪を撫で、それから、テーブルの上に冷めかけていたお茶のカップを手に取った。
「さて、私の凝り固まった身体もほぐれたことだし……君が淹れてくれたこの『冷めた紅茶』を、二人でゆっくり楽しむとしようか」
「はい。茶葉の甘みがしっかり出ていて、美味しいですよ」
過剰な装飾も、心にもないお世辞も、不要な我慢もない。
ただ、お互いが一番リラックスできる状態を共有し合えるこの時間が、私にとっての何よりの宝物になっていく。
王都の喧騒から離れた静かな執務室で、私たちは柔らかなクッションの感触と、優しい自然光に包まれながら、飾らない二人の日常を、また一つ積み重ねていった。




