第1巻 第8話 最初の一歩
静かな月の下の怪物
第1巻 第8話 最初の一歩
冷たい朝の風が、村の通りを吹き抜けていった。
昨夜の雨で地面はまだ湿っていた。すでに一日の仕事を始めている村人もいれば、ケイルが村へ連れてきた奇妙な生き物を、疑わしげな目で見続けている者たちもいた。
レンは石柱のそばに座っていた。
彼の視線は、目の前の地面に向けられていた。自分の前足を見下ろし、ゆっくりと動かしてみる。あるときは爪が土に食い込み、またあるときは前足が不自然に横へ傾いた。
しばらく試し続けたあと、レンはとうとう長いため息をついた。
(すごいな。ほんの数日前まで、俺は二本足で歩いていたんだぞ。それが今じゃ、座り方や方向転換まで一から覚え直さなきゃならないなんて。)
「そんなに前足を見つめ続けていたら、そのうち勝手に動くようになるんじゃないか?」
レンは顔を上げた。
近くにはケイルが立っていた。その金色の瞳は、いつもと変わらず落ち着いている。
「朝っぱらから、人の悩みをからかうのが趣味なのか?」
「からかっているわけじゃない。あまりにも長い間、自分の前足を見つめているから、まるで裏切られたとでも思っているように見えただけだ」
レンは前足を下ろした。
「実際、裏切られたんだよ。前は二本足だったのに、今は四本足だ。それなのに、誰も使い方を教えておいてくれなかったらしい」
「誰かに教えてもらうまで待つ必要はなかっただろう。自分で試してみればよかったんだ」
「試してたよ」
「見ていた」
レンはしばらくケイルをじっと見つめた。
「なあ、お前の励まし方って、本当にひどいな」
「それでも、お前は話を聞いている」
レンは何も言い返せなかった。
ケイルは村の向こうに広がる森へ目を向けた。
「行くぞ。今日は役に立つことを覚えてもらう」
レンは疑わしげに彼を見た。
「どんな役に立つことだ?」
「まずは自分の体を思いどおりに動かせるようになること。そのあとで、エコーの訓練をする」
レンは少しだけ背筋を伸ばした。
「待て。俺を鍛えるつもりなのか?」
「お前がそう呼びたいなら、そうだな」
レンの顔に、かすかな安堵が浮かんだ。
ようやく誰かが、この奇妙な体でどう生きていけばいいのかを教えてくれるらしい。
だが、彼は昨夜の怪物を思い出した。
その表情が、少しずつ曇っていく。
「分かった。でも、一つだけ先に言っておく。もし訓練の内容が、ほかの怪物と戦うことだったら……今の俺には無理だからな」
ケイルは振り返り、歩き始めた。
「なら、早く覚えることだ」
「そう言うと思ったよ」
レンは立ち上がり、彼のあとを追った。
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最初の訓練
村を離れると、頭上には高い木々の枝が広がり、やがて開けた空を覆い隠していった。
朝日が葉の隙間から差し込み、森の地面にまだらな光を落としている。雨で柔らかくなった土の上には、小さな水たまりがいくつもできていた。
レンは歩きながら、自分の動きを注意深く確かめていた。
体の扱いには少し慣れてきたものの、方向を変えるのはまだ難しい。四本の足をうまく連動させるのは、思っていた以上に大変だった。前足を狙った場所に置けても、後ろ足がむき出しの木の根にぶつかることがある。
しばらく歩いたところで、足が滑った。
レンはよろめき、横向きに倒れそうになった。
ケイルが足を止めた。
「どうした?」
レンは何とか体勢を立て直した。
「見れば分かるだろ? 転ばないように頑張ってるんだよ」
「それなのに、一歩一歩に集中していても転びかけるんだな」
「どうしてお前の返事は、毎回こうも俺をイライラさせるんだ?」
「腹を立てる時間を減らして、練習する時間を増やせばいい」
レンはそっぽを向いた。
「いつか絶対、お前を同じくらいイライラさせてやるからな」
「楽しみにしている」
二人は再び歩き始めた。
しばらくすると、木々に囲まれた小さな空き地にたどり着いた。自由に動き回れるだけの広さがあり、地面も比較的平らだった。
ケイルはその中央で足を止めた。
「ここから始める」
レンは周囲を見回した。
「ここで? もっと特別な場所に連れていかれると思っていたんだけど」
「歩き方を覚えるのに、特別な場所は必要ない」
「俺はもう歩けるぞ」
ケイルが彼を見た。
レンはしばらく黙り込んだ。
「……分かったよ。この体での歩き方を覚えているところだ」
「そのほうが正確だな」
ケイルは数歩後ろへ下がった。
「最初の課題だ。あそこの木まで歩いて、戻ってこい」
レンは前方の木を見た。
それほど遠くはない。
「それだけか?」
「今のところはな」
レンは、これなら簡単そうだと思った。
彼は歩き始めた。
最初の数歩は順調だった。だが、途中で少し速度を上げようとした。前足がほとんど同時に前へ出る一方で、後ろ足がその動きについていけなかった。
次の瞬間、レンは顔から柔らかな土へ突っ込んだ。
しばらくの間、彼はそのまま横たわっていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
ケイルがこちらを見ていた。
「何か言いたいことでもあるのか?」とレンが尋ねた。
「いや」
「顔がそう言ってないぞ」
「どうしてまだ怪我をしていないのか、不思議に思っていただけだ」
レンは体を起こし、前足についた土を振り落とした。
「俺も同じことを考えてるよ」
彼はもう一度立ち上がった。
今度は急がず、自分の動きに意識を向ける。片方の前足を前に出し、次にもう片方を動かす。後ろ足も前足のリズムに合わせようとした。
数歩進むうちに、少しずつ体のバランスが取れてきた。
やがて、木のところまでたどり着いた。
問題は、そこからだった。
方向転換は、思っていた以上に難しかった。
急いで向きを変えようとした瞬間、体がぐらりと揺れる。
だが今回は、前足をしっかりと地面につけ、何とか体勢を立て直すことができた。
レンはゆっくりと来た道を戻った。
ケイルがうなずいた。
「さっきよりはいいな」
レンはほっと息を吐いた。
「やっと褒めてくれたな。お前にもそんなことができるんだ」
「だからといって、これで終わりではないぞ」
レンの安堵は、瞬く間に消え去った。
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自分の体を理解する
その後しばらく、ケイルはレンにさまざまな方向へ歩く練習をさせた。急に止まり、再び動き出すことも課題に加えられた。
走ることは許されなかった。
レンが少しでも速度を上げようとすると、ケイルは必ず減速するように言った。
「自分の体を制御できないのに、速く動いても意味はない。まずは速さよりもバランスを覚えろ」
ケイルがそう説明すると、今度はレンも言い返さなかった。
少しずつ疲れがたまってきていた。
この体は人間の体とは違う。自分の力をどう使えばいいのかさえ、まだ十分には分かっていなかった。
それでも、ほんの少しずつ上達していた。
一つひとつの足だけを気にするのではなく、体全体の動きに意識を向けられるようになってきたのだ。急に止まっても、以前ほど簡単にバランスを崩さなくなっていた。
レンはもう一度、前を向いた。
「少しは上達してきた気がする」
「実際、上達している」
ケイルは答えた。
「だが、危険が迫ったときに自分の身を守れるかどうかは、また別の話だ」
レンはうなずいた。
ケイルの言うとおりだった。
昨夜、怪物が襲いかかってきたとき、レンには考える余裕さえなかった。ただ必死に逃げようとしただけだ。
もしケイルが助けに入っていなければ、今ごろ自分はここに立っていなかったかもしれない。
居心地の悪い考えが頭をよぎった。
(もし、次に怪物が現れたとき、ケイルがそばにいなかったら……?)
レンは、その考えを無理に追い払おうとはしなかった。
この世界で生き延びなければならない。
そのためには、自分の身を守る方法を学ぶ必要があった。
「次は何をするんだ?」
レンが尋ねた。
ケイルは彼のほうを向いた。
「今度はエコーの訓練だ」
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理解できない力
ケイルは、木陰に座るようレンに合図した。
レンは地面に体を下ろした。今度は、以前よりもずっと楽に座ることができた。
ケイルは彼の前に立った。
「初めてエコーを感じたとき、何が起きた?」
レンは少し考えた。
「正確には覚えていない。体の中に温かさが広がることもあるし、青い光が見えることもある。それから……体の内側で何かが動いているように感じることもある」
「自分の意思で制御できるのか?」
「もしできるなら、今ここでお前の質問に答えていると思うか?」
ケイルはその皮肉を聞き流した。
「目を閉じろ」
レンは言われたとおりにした。
「自分の体に意識を向けろ。前足の感覚を確かめ、地面が体に触れている感覚を感じろ。冷たい空気や、自分の体のわずかな動きにも注意を向けるんだ」
レンは集中した。
最初に聞こえてきたのは、周囲の音だけだった。風に揺れる葉の音、遠くで鳴く鳥の声、そしてそよ風に揺れる枝の音。
しばらくすると、体の内側にある温かさに気づいた。
レンはその感覚に意識を集中させた。
しかし、何も起こらなかった。
もう一度試してみる。
今度は、胸の奥のどこかから、かすかな温かさの波が広がってくるように感じた。
だが、それはほとんど一瞬で消えてしまった。
それでも、確かに感じた。
レンは目を開けた。
「何かを感じたぞ」
ケイルがうなずいた。
「どんな感覚だった?」
「温かさ……だと思う。でも、すぐに消えてしまった」
「無理につかまえようとするな。まずは、それがどこから来るのかを理解しろ」
レンは目を細めた。
「つまり、ここに座って、ただ待っていればいいのか?」
「そんなことは言っていない。感覚に意識を向けろ。無理に引き出そうとするな」
レンはしばらくケイルを見つめた。
「簡単なことをわざと難しく説明しているんじゃないだろうな?」
「難しいことを、わざわざ難しくしようとしているのはお前のほうだと思うが」
レンは小さくため息をついた。
そして、再び目を閉じた。
今度は青い光を想像しようとはしなかった。自分の力を強くしようとも考えなかった。
ただ、体の内側にある感覚に意識を向けた。
しばらくの間、何も起こらなかった。
やがて、かすかな温かさが再び現れた。
レンはその感覚に集中した。すると、前足の周囲に細い青い光がちらついた。
それに気づいた瞬間、レンは光に意識を集中させようとした。
光は消えた。
レンは目を開けた。
「また消えた……」
「だが、今回は確かに感じただろう」とケイルが言った。
レンは自分の前足を見下ろした。
「これも上達したことになるのか?」
「ああ」
レンの顔に、小さな笑みが浮かんだ。
「よかった。少なくとも、今日は一つくらい学べたみたいだ」
「では、もう一度やってみろ」
レンの笑みは消えた。
「そう言われると思っていたよ」
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力だけでは解決できない
レンはその後も、何度もエコーを感じ取ろうと試みた。
かすかな温かさを感じることもあれば、何も起こらないこともあった。一度だけ前足の周囲に青い光が現れたが、何をしたのか理解する間もなく消えてしまった。
やがて、レンは苛立たしげに頭を下げた。
「分からないんだ」と彼は言った。「この力が自分の中にあるなら、どうして好きなときに使えないんだ?」
ケイルはしばらく黙っていた。
「自分の中に何かがあることと、それを理解していることは別だからだ」
レンは顔を上げた。
「じゃあ、理解できるまでどれくらいかかるんだ?」
「分からない」
レンは信じられないという顔で彼を見た。
「お前、本当に何も知らないんじゃないだろうな?」
「失敗するたびに諦めていたら、いつまでたっても覚えられない。それだけは分かっている」
レンは黙り込んだ。
この世界に来てからというもの、彼は次々と未知のものに直面してきた。
自分の体。エコー。この世界。そして、なぜか自分の名前を知っている人々。
何か一つでも、自分の思いどおりにできるものが欲しかった。
だが、これも時間をかけて学んでいくしかないのかもしれない。
レンは前足を地面につけ、再び目を閉じた。
今度は光を生み出そうとしなかった。
ただ、自分の体の内側にある感覚に意識を向けた。
数秒後、あのかすかな温かさが再び現れた。
レンは、それを変えようとも、強めようともしなかった。
ただ、その感覚が続いている間、静かに感じ取ろうとした。
やがて、温かさは消えた。
レンはゆっくりと目を開けた。
「今回も、特別なことは何も起きなかった」と彼は言った。「でも、さっきよりは少し分かった気がする」
ケイルは彼を見つめた。
「今は、それで十分だ」
レンはほっと息を吐いた。
「やっと、今日の訓練が一つ終わったな」
「今日の訓練は、な」
レンはケイルをにらんだ。
「わざと言っただろ、今の」
ケイルは答えなかった。
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小さな変化
村へ戻り始めるころには、太陽は木々の上高くまで昇っていた。
レンはすっかり疲れ切っていた。前足には少しこわばった感じがあり、数分歩くたびに立ち止まりたくなった。
それでも、朝に比べればずっと上手に歩けるようになっていた。
帰り道の途中、小さな木の根が進路を横切っていた。
以前のレンなら、おそらくその根につまずいていただろう。
だが今回は、早い段階でそれに気づき、前足を横へずらして、立ち止まることなく通り過ぎた。
さらに数歩進んだところで、レンは突然足を止めた。
(待て。今のは、自分で考えてやったんだよな。)
彼は振り返り、木の根を見つめた。
大した成果ではない。新しい力を手に入れたわけでもなかった。
それでも初めて、自分の新しい体をどう動かせばいいのか理解し、バランスを崩すことなく正しい動きを選ぶことができたのだ。
「どうした?」とケイルが尋ねた。
レンは彼を見た。
「いや。ただ……少しずつ覚えてきた気がしたんだ」
ケイルはうなずいた。
「その調子で続けろ」
レンは再び歩き始めた。
しばらくして、彼は尋ねた。
「どうして俺に、こんなことを教えようと思ったんだ?」
ケイルは数秒間、黙っていた。
「次に怪物が襲ってきたとき、誰かが助けに来るのを待たなくても済むようにな」
レンはケイルを見た。
「俺が一生、お前の後ろに隠れて生きると思っているのか?」
「分からない」
レンは目を回した。
「その答えには、もううんざりだよ」
今度のケイルの声には、わずかな優しさがあった。
「だが、今日は自分で体勢を立て直せるようになった。それはお前自身が成し遂げたことだ。俺は、やり方を示しただけだ」
レンは黙り込んだ。
どう返事をすればいいのか、すぐには分からなかった。
それでも、ケイルの言うことが正しいのは理解できた。
レンは一人でこの世界にやって来た。
この先に何が待ち受けているのかも分からない。そもそも、元の世界へ帰ることができるのかさえ分からなかった。
それでも、この世界にいる限り、ここで生きる方法を学ばなければならない。
レンは自分の前足を見下ろし、再び歩き続けた。
今度は、一歩一歩を以前ほど注意深く考えなくてもよかった。
それは、ほんの小さな始まりにすぎない。
だが、どんなに大きな旅も、きっと同じように始まるのだろう。
最初の一歩から。
つづく……




